40: 変わりはじめた居場所
屋台フェスティバルから五日後、ルシナの体調はようやく回復し、今日からカフェのバイトに復帰することになった。
数日ぶりに外へ出ると、空気は思っていたより冷たく、胸いっぱいに吸い込むと少しだけ咳が出た。
「……よし」
小さく呟き、扉を閉める。
ーーーー
見慣れた通りはいつも通りで、全て片付けられていて、フェスティバルの騒ぎが嘘のようだった。
けれど――。
町の至るところに黒い影なのか、煤なのか、隅の方に溜まっているのが見えた。
時折、風に流されて、ざわざわと動く様子は、流美の魂を刺激した。
(なんか……アレみたい。ゴミ捨て場にいるやつ)
少しだけ速く歩いたせいか、息が上がり「ゲホ」と咳をひとつしてからカフェに着いた。
「おはようございます」
「おはよう。もう体調はいいの?」
ルシナは控えめな声で挨拶をしながら、扉をあけると、セイラがカウンターの影から顔を出した。
「はい。お休みありがとうございました」
「初めに言ったでしょ?体調が悪い時は休んでって。お礼を言う必要はないわ。今日からまたよろしくね」
セイラの凛とした声が、心の中の罪悪感を温めていく
「はい。よろしくお願いします」
ルシナは、スッキリとした笑顔で仕事を始める。
「お客さん今いないから、清掃から始めてもらっていいかしら?」
セイラはダスターをルシナに手渡すと、自分はコンロ周りの清掃を始めた。
ルシナは客席のテーブルやカウンターに残った、気になる黒い汚れを磨きあげていく。
これまでも何度か拭き取っているはずなのに、今日はなぜか視線が離れなかった。
きれいになったはずのテーブルから目を離し、次の場所へ移ろうとしたとき、視界の端にまた黒い汚れが映った。
増えたわけではない。
ただ、なぜか次々と目につく。
店内はいつも通り静かなのに、なぜか掃除が終わらない気がした。
あっちへこっちへと移動しながら拭き上げ、きれいにしていく。
その様子を、セイラは何も言わずに見ていた。爪を弾く音だけが、小さく店内に響いた。
しばらくすると、カフェに客が入り始め賑わっていく。
コーヒーにサンドイッチ、パンケーキなど普段と変わらずに接客をしていく。
時折、セイラと一緒に常連客と話をしながら接客をしていく。
その客の足元には、黒い影が炎のように絡みついている。
「ここだけの話なんだけど……うちの近所のおじいさん、怒鳴り散らすから家の人が手に負えないみたいでさー……いつか、大事になるんじゃないかって思ってるんだよ」
カウンター席に座る常連客が、少し目を輝かせて話す様子に、ルシナはモヤモヤする気持ちを抑えながら相槌を打ち、パンケーキをひっくり返す。
ルシナの隣では、笑顔を変えることなくセイラがコーヒーを淹れている。
ルシナは、焼き上がったパンケーキにバターを乗せ、蜂蜜をかけると、甘い香りがふわりと広がった。
「お待たせしました」
コーヒーとともにパンケーキを出すと、客は先ほどの嫌な表情をかえ、表情がほころんだ。
「いい匂いだな……美味しそう」
一口食べて、客の肩から力が抜ける。
「……周りが騒ぐもんじゃないよな。何か力になれればいいんだけどね」
ぽつりと呟いた声は、さっきよりずっと軽く、温かかった。
気づけば、足元で揺れていた黒い影は、いつの間にか気にならなくなっていた。
ーーーーー
「お疲れ様。病み上がりだけど体調は大丈夫?」
客足が途絶え、ルシナの業務の終了時間になった。
セイラは、レモンティーとマドレーヌをルシナの前に差し出した。
美しい絵柄が描かれたティーカップは、取手が華奢で、どう持てばいいのか一瞬迷ったが、自然と三本の指でつまむように持ち上げ、一口飲んだ。
セイラの視線が、ルシナの指先に一瞬だけ落ちた。
湯気と一緒に、レモンのやわらかな香りが立ちのぼり、心が落ち着く。
セイラは向かいに腰を下ろし、自分の紅茶には手をつけず、ただルシナを見ていた。
「ルシナに相談なんだけど、働く時間、延ばしてみない?」
思いがけない言葉に、ルシナは目を見開いた。
「お店にも慣れてきたし、私も仕入れで外に出ることが増えそうなの。だから、その間お店をお願いできたらって思って」
思い出すかのように、息を小さく吐く。
「今日、お客さんにパンケーキを出したでしょ?」
ルシナは小さく頷いた。
「……空気が変わったのよ」
静かな声だった。
「味だけじゃないわ。あの人、来た時より少し軽くなって帰った」
セイラはようやく紅茶に手を伸ばす。
「理由は分からない。でもね」
視線がまっすぐルシナに戻る。
「あなたがここにいる時間を、少し増やしてみたいと思ったの」
セイラの提案に、ルシナは小さく息を止めた。
胸の奥に、言葉にならない違和感が落ちる。
あの黒い影が、気にならなくなった瞬間。
店の空気が、少しやわらいだ気がした。
――空気が変わる。
理由は分からない。
けれど、自分がその中に立っているような感覚だけが残る。
何かが動き始めている。
まだ形はないのに、足元だけが先に知っているような――
そんな騒めきが、胸の奥で静かに広がっていた。
セイラは紅茶を一口飲むと、ふぅっと軽く息を吐いた。
「ところで、ルシナはなんで働きたいと思ったの?」
不意打ちのような問いに、ルシナは瞬きをする。
「え……」
考えたことがなかったわけではない。
けれど、きちんと言葉にしたこともなかった。
カップの縁に指先を添えたまま、視線を落とす。
「最初は、自分の足で立っていこう、歩こうって思って……」
紅茶に映る自分の顔をぼんやり眺めながら、ぽつりと続ける。
「その時、ルキのお店のハイヒールが目に入って……いいなって」
セイラの大きな目が、静かに続きを促す。
「これを履いて歩きたい……ダンスをしたいって思って……」
そこで言葉が途切れる。
「でも……」
一度、深く息を吐く。
「ここに居たいって思ったから」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
「ここにいると、落ち着くんです。
誰かが来て、誰かが帰って、それを見送るのが、なんだか……好きで」
セイラは何も言わず、ただ小さく頷いた。
「そう……」
短い返事だったのに、ルシナは、自分を認めてもらえた気がして胸が熱くなった。
「私も、もう少し働きたいです。お願いします」
まっすぐセイラを見つめ、思いを伝える。
一瞬だけ間があった。
それから――
「ふふ……よろしくね」
セイラはゆっくりと笑い、マドレーヌを一口、静かに口に運んだ。
紅茶の湯気が、ふたりの間でやわらかく揺れる。
「ルキのこと、好き?」
あまりに唐突な問いに、ルシナは紅茶を吹き出しかけた。
「な……なっ……なんでルキが出てくるんですか?」
「あら? デートしたって聞いたけど?」
「なっななな……」
セイラは楽しそうに目を細める。
「ふふ……ルキはいい男よ」
ニヤリの妖艶な笑みを浮かべる。
「ダンス、踊れるといいわね」
ルシナの肩がぴくりと揺れた。
「ルキの作ったハイヒールを履いてダンスだなんて……ロマンティックじゃない?」
ルシナは言葉を失う。
さっき自分が口にした“ダンス”を、まるで拾われたみたいで。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
「真っ赤になっちゃって、可愛いわね」
セイラはくすくすと、品よく笑うと、すっと立ち上がる。
「さて、今日はここまで。明日からの勤務時間について、話し合いましょう」
声の温度が、すっと仕事のそれに戻る。
具体的な曜日や時間、仕入れの予定を淡々と伝えながら、セイラの目はどこか安心した色をしていた。
話が終わると、ルシナはカップを丁寧に戻し、立ち上がる。
「……よろしくお願いします」
バックヤードの扉を開けると、店内の空気はいつも通り穏やかだった。
――――
セイラは、ルシナの背中を静かに見送った。
紅茶の湯気が、まだわずかに残っている。
「……ルシナには……」
言いかけて、セイラは強く目を閉じた。
「………ジャスミン」
小さな声は、誰にも聞かれないまま、ポトリと落ちた。




