表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
崖上小屋で今日もハイヒールを眺めます  作者: 小原みん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/69

40: 変わりはじめた居場所

屋台フェスティバルから五日後、ルシナの体調はようやく回復し、今日からカフェのバイトに復帰することになった。


数日ぶりに外へ出ると、空気は思っていたより冷たく、胸いっぱいに吸い込むと少しだけ咳が出た。


「……よし」


小さく呟き、扉を閉める。



ーーーー



見慣れた通りはいつも通りで、全て片付けられていて、フェスティバルの騒ぎが嘘のようだった。


けれど――。


町の至るところに黒い影なのか、煤なのか、隅の方に溜まっているのが見えた。


時折、風に流されて、ざわざわと動く様子は、流美の魂を刺激した。


(なんか……アレみたい。ゴミ捨て場にいるやつ)


少しだけ速く歩いたせいか、息が上がり「ゲホ」と咳をひとつしてからカフェに着いた。


「おはようございます」

「おはよう。もう体調はいいの?」


ルシナは控えめな声で挨拶をしながら、扉をあけると、セイラがカウンターの影から顔を出した。


「はい。お休みありがとうございました」


「初めに言ったでしょ?体調が悪い時は休んでって。お礼を言う必要はないわ。今日からまたよろしくね」


セイラの凛とした声が、心の中の罪悪感を温めていく


「はい。よろしくお願いします」


ルシナは、スッキリとした笑顔で仕事を始める。


「お客さん今いないから、清掃から始めてもらっていいかしら?」


セイラはダスターをルシナに手渡すと、自分はコンロ周りの清掃を始めた。


ルシナは客席のテーブルやカウンターに残った、気になる黒い汚れを磨きあげていく。

これまでも何度か拭き取っているはずなのに、今日はなぜか視線が離れなかった。


きれいになったはずのテーブルから目を離し、次の場所へ移ろうとしたとき、視界の端にまた黒い汚れが映った。


増えたわけではない。

ただ、なぜか次々と目につく。


店内はいつも通り静かなのに、なぜか掃除が終わらない気がした。


あっちへこっちへと移動しながら拭き上げ、きれいにしていく。


その様子を、セイラは何も言わずに見ていた。爪を弾く音だけが、小さく店内に響いた。



しばらくすると、カフェに客が入り始め賑わっていく。


コーヒーにサンドイッチ、パンケーキなど普段と変わらずに接客をしていく。


時折、セイラと一緒に常連客と話をしながら接客をしていく。


その客の足元には、黒い影が炎のように絡みついている。


「ここだけの話なんだけど……うちの近所のおじいさん、怒鳴り散らすから家の人が手に負えないみたいでさー……いつか、大事になるんじゃないかって思ってるんだよ」


カウンター席に座る常連客が、少し目を輝かせて話す様子に、ルシナはモヤモヤする気持ちを抑えながら相槌を打ち、パンケーキをひっくり返す。


ルシナの隣では、笑顔を変えることなくセイラがコーヒーを淹れている。


ルシナは、焼き上がったパンケーキにバターを乗せ、蜂蜜をかけると、甘い香りがふわりと広がった。


「お待たせしました」


コーヒーとともにパンケーキを出すと、客は先ほどの嫌な表情をかえ、表情がほころんだ。


「いい匂いだな……美味しそう」


一口食べて、客の肩から力が抜ける。


「……周りが騒ぐもんじゃないよな。何か力になれればいいんだけどね」


ぽつりと呟いた声は、さっきよりずっと軽く、温かかった。


気づけば、足元で揺れていた黒い影は、いつの間にか気にならなくなっていた。




ーーーーー




「お疲れ様。病み上がりだけど体調は大丈夫?」


客足が途絶え、ルシナの業務の終了時間になった。


セイラは、レモンティーとマドレーヌをルシナの前に差し出した。


美しい絵柄が描かれたティーカップは、取手が華奢で、どう持てばいいのか一瞬迷ったが、自然と三本の指でつまむように持ち上げ、一口飲んだ。


セイラの視線が、ルシナの指先に一瞬だけ落ちた。


湯気と一緒に、レモンのやわらかな香りが立ちのぼり、心が落ち着く。


セイラは向かいに腰を下ろし、自分の紅茶には手をつけず、ただルシナを見ていた。


「ルシナに相談なんだけど、働く時間、延ばしてみない?」


思いがけない言葉に、ルシナは目を見開いた。


「お店にも慣れてきたし、私も仕入れで外に出ることが増えそうなの。だから、その間お店をお願いできたらって思って」


思い出すかのように、息を小さく吐く。


「今日、お客さんにパンケーキを出したでしょ?」


ルシナは小さく頷いた。


「……空気が変わったのよ」


静かな声だった。


「味だけじゃないわ。あの人、来た時より少し軽くなって帰った」


セイラはようやく紅茶に手を伸ばす。


「理由は分からない。でもね」


視線がまっすぐルシナに戻る。


「あなたがここにいる時間を、少し増やしてみたいと思ったの」


セイラの提案に、ルシナは小さく息を止めた。


胸の奥に、言葉にならない違和感が落ちる。


あの黒い影が、気にならなくなった瞬間。

店の空気が、少しやわらいだ気がした。


――空気が変わる。


理由は分からない。

けれど、自分がその中に立っているような感覚だけが残る。


何かが動き始めている。


まだ形はないのに、足元だけが先に知っているような――

そんな騒めきが、胸の奥で静かに広がっていた。


セイラは紅茶を一口飲むと、ふぅっと軽く息を吐いた。


「ところで、ルシナはなんで働きたいと思ったの?」


不意打ちのような問いに、ルシナは瞬きをする。


「え……」


考えたことがなかったわけではない。

けれど、きちんと言葉にしたこともなかった。


カップの縁に指先を添えたまま、視線を落とす。


「最初は、自分の足で立っていこう、歩こうって思って……」


紅茶に映る自分の顔をぼんやり眺めながら、ぽつりと続ける。


「その時、ルキのお店のハイヒールが目に入って……いいなって」


セイラの大きな目が、静かに続きを促す。


「これを履いて歩きたい……ダンスをしたいって思って……」


そこで言葉が途切れる。


「でも……」


一度、深く息を吐く。


「ここに居たいって思ったから」


自分でも驚くほど素直な言葉だった。


「ここにいると、落ち着くんです。

誰かが来て、誰かが帰って、それを見送るのが、なんだか……好きで」


セイラは何も言わず、ただ小さく頷いた。


「そう……」


短い返事だったのに、ルシナは、自分を認めてもらえた気がして胸が熱くなった。


「私も、もう少し働きたいです。お願いします」


まっすぐセイラを見つめ、思いを伝える。


一瞬だけ間があった。


それから――


「ふふ……よろしくね」


セイラはゆっくりと笑い、マドレーヌを一口、静かに口に運んだ。


紅茶の湯気が、ふたりの間でやわらかく揺れる。


「ルキのこと、好き?」


あまりに唐突な問いに、ルシナは紅茶を吹き出しかけた。


「な……なっ……なんでルキが出てくるんですか?」


「あら? デートしたって聞いたけど?」


「なっななな……」


セイラは楽しそうに目を細める。


「ふふ……ルキはいい男よ」


ニヤリの妖艶な笑みを浮かべる。


「ダンス、踊れるといいわね」


ルシナの肩がぴくりと揺れた。


「ルキの作ったハイヒールを履いてダンスだなんて……ロマンティックじゃない?」


ルシナは言葉を失う。


さっき自分が口にした“ダンス”を、まるで拾われたみたいで。


胸の奥が、じわりと熱くなる。


「真っ赤になっちゃって、可愛いわね」


セイラはくすくすと、品よく笑うと、すっと立ち上がる。


「さて、今日はここまで。明日からの勤務時間について、話し合いましょう」


声の温度が、すっと仕事のそれに戻る。


具体的な曜日や時間、仕入れの予定を淡々と伝えながら、セイラの目はどこか安心した色をしていた。


話が終わると、ルシナはカップを丁寧に戻し、立ち上がる。


「……よろしくお願いします」


バックヤードの扉を開けると、店内の空気はいつも通り穏やかだった。




――――




セイラは、ルシナの背中を静かに見送った。

紅茶の湯気が、まだわずかに残っている。


「……ルシナには……」




言いかけて、セイラは強く目を閉じた。


「………ジャスミン」


小さな声は、誰にも聞かれないまま、ポトリと落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ