38: 風邪をひいたら
「ぶぇっくしょい!」
翌朝、ルシナの豪快なくしゃみとともに起きると、フーが「何事!?」と言わんばかりにワンワンと吠えた。
「う〜〜……だる重〜。さぶっ」
体の奥からぞくりと寒気が走り、ルシナは肩をすくめる。
警戒を解いたフーが駆け寄り、足元にぴたりと寄り添った。
「ん〜〜、フーちゃんあったかい……ずびっ」
水を飲もうと立ち上がった瞬間、頭を締めつけられるような痛みが走った。
背中に石でも乗せられたような怠さに、足元がぐらりと揺れる。
「フー、こっちに来て」
コハナの声に呼ばれ、フーはルシナから離れていった。
「あ〜〜、フーちゃん……行かないで……」
訳もわからないまま、ぽろぽろと涙がこぼれる。
「ルシナ、水持ってくるからベッドに戻って」
コハナに言われた通りベッドに腰を下ろすと、そのまま力が抜けるように倒れ込んだ。
コハナは額に手を当て、わずかに眉を動かす。
「やっぱり……」
「ほぇ〜〜?」
ひんやりとした手が気持ちよくて、ルシナは目を細めた。
「熱ある」
短く告げる声はいつも通りだったが、手は少しだけ長く額に触れたままだった。
それがなんだか嬉しくて、ルシナは「ふへへへ」と力なく笑った。
“ルシナかぜー?”
“きのう、くしゃみしてたー”
「風邪ひいたかも〜……。うぅ……カフェ……セイラさん、連絡……」
朦朧とした頭の奥で、妙に真面目な声がする。
(仕事の連絡は大事……社会人の鉄則……ふふん……)
けれど考えは途中でほどけ、形にならないまま消えていった。
「私が言う。ルシナ寝る!」
少し乱暴にベッドへ押し込まれ、毛布をかけられる。
ノアから支給された毛布は肌触りがよく、ルシナのお気に入りだった。
脇にはフーが丸くなり、体温を分けるようにぴたりと寄り添う。
「ふふふ……あったか〜い」
薄れゆく意識の中で、コハナがそっと部屋を出ていく気配を感じた。
「妖精たち、ルシナを見てて」
“わかった〜”
“まかせて〜”
小さな光が、ベッドのまわりで静かに揺れていた。
――――
―――誰かの話し声がする。
“たいへんなのー!ルシナかぜなのー”
“ねつあるのー”
「そうか……」
重く低い、落ち着いた声がやわらかく響いた。
「昨日、何があった?」
“あのねー、くろいやつがねー”
“ぐあーってなったのー”
「……メンダヴォルか」
わずかな沈黙。
“ルシナ、あしでぺっぺっってしたのー”
「あれに触れたか……」
“うん。みんな、みてなかったよー”
「あれが見えること自体、異端だ」
“そうなのー? みんなみえるよねー”
“うんうん! みえたよー”
「ふふっ……お前たちは見えるだろうな」
そっと、ルシナの額に大きな手が触れる。
「……熱いな」
ルシナはうなされることもなく、深く眠っている。
「ぺっぺっとして、アレはどうなった?」
“んとねー、ふわってなって、べべべーってなった”
“ヌルってどっかいったー”
「……アレが避けたか」
わずかな沈黙。
「やはり、君は――」
言葉は最後まで続かなかった。
訪問者の足元で、フーが尻尾を振りながら体を擦り寄せている。
訪問者はその頭をそっと撫でた。
それだけで満足したように、フーは小さく鼻を鳴らす。
次の瞬間、気配は静かに遠ざかっていった。
ーーーー
ふと額が冷たくなった気がして、ルシナは目を覚ました。
「あれ?コハナ?」
「セイラに伝えてきた」
コハナの冷たい手が離れていく。
「ありが……とう」
もっと大きな手が額に触れた気がしたが、気のせいだったようだ。
変わらず脈打つような頭の痛みに耐えながら体を起こすと、コハナが冷ましたハーブティーを差し出した。
人肌まで冷めたハーブティーは飲みやすく、ミントに似たすっきりとした香りが鼻を抜ける。
喉を通った瞬間、ようやく体がほっと息をついた気がした。
「これ、いつものと違うやつ?」
「うん……カイに作ってもらった」
コハナは空になったカップを受け取ると、同じハーブティーを静かに注ぎ足した。
「セイラさん、なんて言ってた?」
「無理せず休んで。カフェは大丈夫だから。必要なものとかあったらコハナに伝えて……って」
そう言いながら、コハナはハーブティーをルシナへ差し出す。
「何でも言ったらいい」
みんなの優しさに触れた途端、涙がこぼれた。
(体が弱る時って、どうしてこんなにも涙もろくなるんだろう)
「ありがとう……コハナ」
声が少し震える。
ぽんぽん、とコハナはルシナの頭を撫で、目を細めた。
その横で、「自分も撫でろ」と言わんばかりにフーがそわそわしている。
「ルシナ、何が食べられそう? ホリッジ作ったけど、食べる?」
コハナにそう聞かれて、ルシナは自分のお腹が空いていることに気づいた。
「うん……いただこうかな」
少しふらついたものの、倒れることはなくテーブルにつく。
牛乳で煮たオートミールにドライフルーツを混ぜたホリッジには、やさしい色の蜂蜜がかけられていた。
「美味しい……」
ルシナが食べる様子を、コハナは無表情のまま見つめていたが、そっと目を細める。
「パン屋のおかみさんに教えてもらった。風邪にはこれが一番だって」
「パン屋……コハナ、仕事は?」
「ルシナが風邪って言ったら、お友達の側にいてあげなさいって……」
「そうだったの……。治ったらお礼に行かなきゃだね」
コハナはこくんと頷き、フーの頭を撫でた。
「みんな、心配してた……。ルキも」
ルキの名前を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。
「ルキにも心配させちゃったのね」
「うん……見舞いに来るって言ってた」
「え……それは……」
コハナは無表情のまま、じっとルシナを見つめた。
「断った」
短く言って、少し間を置く。
「弱ってるところ、見せたくないかなって思った」
ルシナは、その通りだと思った。
昨日、ジャケットを返したから……。きっとルキは、貸せばよかったとか、送ればよかったとか、そんなことを考えてしまう気がする。
(自意識過剰ね……)
ふと、飾られたハイヒールに目を向ける。
いつか、その靴でルキの隣を歩けたら。
ダンスを踊れたら――。
そんな淡い想いが、胸の奥に静かに灯った。
「おかわりする?」
コハナの問いかけに、ルシナは我に返る。
まずは風邪を治すことにしよう。
その先のことは、元気になってから考えればいい。
「うん。お願い」
ルシナが笑顔で頷くと、コハナは目を細め、空になった器にホリッジをよそった。
――――
革の香りが漂う作業場で、ルキは片足だけのボルドーのハイヒールを眺めていた。
見舞いを断られてしまった。
足元がふらついていたのは、熱があったからではないか。
無理に連れ回してしまったのではないか。
家まで送るべきだったのではないか。
靴職人の手は、珍しく止まったままだった。
今日はやけに工具が重く感じた。
工具を諦めて靴磨きに作業を変えても、同じところを磨き続けている。
片足だけのボルドーのハイヒールだけが、店内の照明でキラキラと輝いているように見えた。




