37: 祭りの後
狼の魔獣が居なくなった後も、会場は騒然としていた。ざわめきは収まらず、遠くで誰かの呼ぶ声が重なっている。
カイは、パチンと手を叩いて結界を解いた。
張りつめていた空気が、わずかに緩む。
「一体……あれは何なの?」
震える声で、ルシナが呟く。
自分の声が思ったより小さいことに、少し遅れて気づいた。
ルキは手にしていたポールを地面にそっと置くと、迷いなくルシナとコハナのもとへ駆け寄った。
「魔獣……だな。町に来るのは珍しい」
「ハーブも変色するし、最近へんな噂も流れてるし、やだなー」
カイは頭を掻きながら、変色したハーブを見る。
「魔獣がこっち見た時はビビった〜」
大袈裟に手をぶんぶん振ってから、コハナに向き直った。
「コハナちゃんが急に走り出した時はびっくりした……何でここに来たの?」
問いかけに、コハナはすっとハーブを指差し、続いて先ほどまでいたベンチを指した。
ベンチでは、人が何人も重なって倒れていた。
逃げてきた人たちが足を取られ、転んだらしい。
「……パニックを予測したってこと?」
カイは眉をひそめ、わずかに首を傾げる。
コハナは答えず、銀の腕輪を指でなぞった。
無表情のまま、視線は地面に落ちている。
「カイー!! みんなー! 大丈夫だった?」
静まり返った空気を打ち消すように、アンナが手を振りながら駆けてくる。
「アンナ! こっちは大丈夫だ! ……って、お前血が出てるじゃないか!」
駆け寄ってきたアンナを一目見て、カイの声が思わず高くなった。
「こんなの掠り傷よ! 大したことないわ!」
「ハーブ……ハーブ。血止めのハーブ持ってないよー! ちょっと待ってて、今店に戻って取ってくるー!」
踵を返して走り出そうとしたカイの腕を、ルキが掴んだ。
「カイ。落ち着け」
「だって血が!!」
「大丈夫よ! 大した傷じゃないってば!」
アンナは気にした様子もなく肩をすくめる。
こめかみから血が流れているが、本人はけろりとしていた。
「パニックになった人を避けたら、屋台の柱にぶつかっちゃってね……」
ルシナはショルダーバッグからハンカチを取り出し、そっとアンナのこめかみに当てる。
「ルシナ、ありがとう」
カイは「血が、血が……」と落ち着かない様子で周囲を行き来している。
その横で、コハナがアンナの隊服の裾をつん、と引いた。
「コハナちゃん、どうしたの?」
アンナが腰を屈めて顔を覗き込む。
コハナは何も言わず、傷口へ手をかざした。
淡い金色の光が静かに広がる。
次の瞬間、アンナの傷は跡形もなく塞がっていた。
「あら……。コハナちゃん、ありがとう」
アンナは軽く目を瞬かせ、穏やかに微笑む。
「わー!! コハナちゃんー! ありがとう! ありがとう!」
対照的に、カイは勢いよくコハナの手を握ると、ぶんぶんと振りながら何度も礼を言った。
コハナは大したことではないとでも言うように、無表情のまま瞬きをするだけだった。
「俺、治癒魔法苦手だから助かるよ!」
少し落ち着きを取り戻した声で、カイが改めて礼を言う。
コハナは表情を変えないまま、こくんと小さく頷いた。
「これだけの騒ぎでも、大事にならずにすんで良かった……と言うべきなのか」
ルキはそう呟き、辺りを見渡す。
人々のパニックも次第に落ち着きを取り戻し、屋台の店主たちは倒れた道具を起こしながら片付けを始めていた。
客たちも腰を下ろしたり、別の場所へと歩き出したりしている。
「そうね……。狼の魔獣が襲いかかることもなく退避させられたし、転んで怪我をした人はいるでしょうけど」
アンナは鋭い眼差しで周囲を見渡す。
警戒は解いていないが、今のところ目立った怪我人や大きなトラブルはなさそうだった。
「私はこれから現場確認と事故処理ね……。残業決定だわ。落ち着いたら、また飲みに行きましょ」
槍を抱え直すと、アンナは軽く手を振り、颯爽と他の団員のもとへ駆けていった。
ーーーー
屋台フェスティバルは、終了時間も近かったこともあり、予定より早めに閉幕となった。
締めくくりとして、屋台の人気ランキングや功労賞が発表されている。
人気ランキング三位には、コハナのパン屋が選ばれていた。
「どこもかしこもカップルだらけで、自分ばっかり仕事で嫌気がさしましたけど、稼げたんで良かったです」
功労賞の店主は、遠い目をしながらインタビューに答えていた。
「じゃあ、俺は薬草屋に戻るわ……薬草、必要な人増えそうだし」
「今日も徹夜か……」
カイは小さくぼやきながら、トボトボと店の方へ歩いていった。
コハナも「片付け手伝う」とだけ言い、振り返らずにスタスタとパン屋の屋台へ向かう。
気づけば、ルキとルシナだけがその場に残っていた。
「少し歩きましょうか」
「うん……そうだね」
ルキがそっと腕を差し出すと、ルシナは迷うことなく手を添える。
二人は言葉少なに歩き出した。
何となく足を向けた先は、屋台フェスティバルの会場を見渡せる、階段上の小さな広場だった。
「階段、大丈夫だった?」
「うん……。ルキが支えてくれたから、大丈夫だよ」
人混みの少ない方へと歩いているうちに、足の痛みすら忘れて階段を登っていた。
「魔獣……怖かったね。本当にいるんだ……」
広場から後片付けをする人々を眺めながら、ルシナはぽつりと呟いた。
「そうだな……。もし、あのまま襲ってきたら……いや、考えるのはよそう」
ルキは自身の手を見つめ、静かに言葉を切った。
二人は、日常の中に生まれた小さな変化を感じながら、沈みかけた夕日を眺めていた。
「へっくしゅ」
ルシナが小さくくしゃみをすると、ルキは何も言わず、自分のジャケットをそっと肩にかけた。
夕日の光が石段をゆっくりと染めていく。
「そろそろ降りようか」
ルキの言葉に頷き、ルシナは一歩踏み出した。
だが、踏み出した足がわずかに揺れる。
気づいたルキが、何も言わず腕を支えた。
「……平気?」
「うん、大丈夫」
そう答えながらも、ルシナは少しだけ体を預ける。
二人でゆっくりと階段を降りていくと、下の広場の端に小さな影が立っていた。
コハナだった。
片付けを終えたのか、いつもの無表情でこちらを見上げている。
「コハナ、片付け終わったの?」
「うん。帰っていいって言われた」
コハナはルシナをじっと見つめ、それからルキへ視線を移した。
「ルキ、私たち帰る。今日はありがとう」
「あぁ、楽しかったな。二人で帰れるか? 送るよ」
「大丈夫」
短く答えると、コハナはルシナの手を引いて歩き出そうとする。
「コハナ……ちょっと待ってて」
ルシナはルキに向き直り、肩にかけていたジャケットをそっと返した。
「ルキ、今日はありがとう。たくさんご馳走になっちゃったし、お話もたくさんできて楽しかった。またお店に行ってもいい?」
「もちろん。いつでも待ってるよ。……ジャケット、大丈夫? 寒くないか?」
ルキは穏やかな笑顔を向けながら、もう一度ジャケットを差し出しかける。
「ううん……大丈夫。ちょっとくしゃみが出ちゃっただけ」
「そうか……。家に着いたら、温かいものでも飲んで休んでくれ」
「うん」
短く頷き、ルシナはコハナの方へ戻る。
「じゃあ、また」
ルキは小さく手を振った。
二人の背中が人通りの向こうへ溶けていくまで、その場を動かず見送っていた。
夕暮れの喧騒も、やがて夜の静けさに溶けていく。
——翌朝、ルシナは熱を出した。




