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崖上小屋で今日もハイヒールを眺めます  作者: 小原みん


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28/69

26: 初給料

ノアの来訪から、数日が経った。


その後もモーヴェの支給品は届いているが、相変わらず扉の前への置き配だった。

ノアが再び来ることはなく、いつ現れるのかも分からない。


ノアから渡された毛布は、肌寒くなってきた今、とても重宝している。

手触りのいいそれは、フーが気に入ってホリホリしては占領してしまうほどだ。


それでもルシナの胸には、ひとつだけ引っかかりが残っていた。

ハイヒールに向けられた、あの一瞬の視線。


低く響く声も、鋭い眼光も、耳と記憶に残って離れない。


不安のせいか、それとも冷え込みのせいか。

足の痺れが出ることが増え、歩き方にも影響が出始めていた。


それでも――


ルシナはハイヒールを眺める。

背筋を伸ばし、姿勢を正す。


前を向くために。

カフェで働くことを、諦めないために。


ーーーーー


「お疲れ様。今日は給料を渡すわね。十日間、よく頑張ったわ」


初給料日だった。


流美の記憶では、初めての給料で母にストールを買った。

歳の離れた兄は、「おめでとう」と焼肉をご馳走してくれた。


ルシナとしての記憶には、“働いた対価”を貰った事がなかった。その影響か想像以上に感じる達成感に喜びを隠しきれない。


セイラから、銀貨五枚を手渡される。


「ありがとうございます。初給料、嬉しいです」


両手で受け取りながら答えると、セイラはやわらかく微笑んだ。


「セイラさん、銀貨一枚を小銀貨と銅貨に両替してもらえますか?」


少し遠慮がちに頼むと、「いいわよ」と手際よく小銀貨七枚と銅貨三十枚に分けていく。


「あと、これは私からのプレゼント。十日間やりきったルシナへ」


そう言って差し出されたのは、うさぎのモチーフの小さな財布だった。


思いがけない贈り物に、胸の奥がふわりと温かくなる。気づけば、目の奥がじんわりと滲んでいた。


「ありがとうございます。大切にします」


少し震える声で礼を言う。


セイラはやわらかく微笑んだ。

けれどその視線は、別の誰かと重ねているようにも見えた。


給料を貰ったばかりの財布に入れる

ずしりと感じる重みに充実感が湧き、嬉しさで満たされる。


「じゃあ明後日ね。また待ってるわ」


ーーーー


カフェから小屋に戻る前に靴屋の前で立ち止まる。


ショーウィンドウには、ボルドーのハイヒールの代わりに、ダークブラウンのブーツが展示されていた。


「いらっしゃいませ。中に入られますか?」


店内からルシナを見かけたルキは扉を開けて声をかけてくれた


「ルキさん。今日、初給料日だったんです。

ボルドーのハイヒールのおかげで前を向いて歩き出せます。購入できるまで、もう少しお借りしてもいいですか?」


声を弾ませながら、ルキを見上げると、柔らかい笑顔が返ってきた。


「それは良かった。ルシナさんの働きぶりは、町の人達にも評判が良いですよ」


“評判が良い”

そう思ってもらえていることが嬉しくて、受け入れられている実感が、じんわりと胸に広がっていく。


「もちろん、あのハイヒールはそのままお持ち頂いていいですよ。ルシナさんが前向きに頑張れているなら、俺も頑張らないといけないですね」


落ち着いた優しい声色は耳に心地よく、その眼差しに、ルシナの胸が静かにざわめいた。


「よかったら、コーヒーでも飲んでいきませんか。初給料のお祝い……というほどでもありませんが。チョコレートはお好きですか?」


ちょうど自分も休憩を取ろうと思っていたところだと言って、ルキは扉を押さえ、店内へと招き入れてくれた。


革の匂いがほのかに漂う店内は、整理整頓が行き届いていて清潔感がある。


見やすく展示された靴はどれも綺麗に磨かれている。


店の奥の壁際には道具が整然と並び、作業台にも無駄な物は置かれていない。

職人の几帳面さが、そのまま空間に表れているようだった。


ルキは入口に「休憩中」の札を掛けると、バックヤードへとルシナを案内する。


そこには少し高さのあるテーブルと椅子が置かれていた。


ルキは椅子を静かに引き、どうぞ、と目線で座るよう促した。


湯気の立つコーヒーとチョコレートが、皿の上に几帳面に並べられている。


「コーヒー、熱いので気をつけてください。砂糖とミルクは要りますか?」


「大丈夫です。ありがとうございます」


手つきも言葉も無駄がなく、どこか店員のように丁寧で、ルシナは思わず感心する。

なんでもきちんと扱う人なのだと分かる。


「働いていて、困っていることはないですか」


ルキは控えめな声でそう言ってから続けた。


「セイラはよく見ているけど、忙しいからな。何かあれば、俺でもカイでもいい。遠慮せず言ってください」


丸テーブルの右斜め向かいに座ったまま、ルキは視線だけを柔らかく向けた。

それからコーヒーを一口、静かに含む。


「セイラさんも、お客さんも、皆さん良くしてくれていて。とても働きやすいです。だから、もっと頑張らないとなって思ってます」


ルシナはチョコレートを、いつもの癖でぽいっと口に放り込みかけて、ふと手を止めた。


少しだけ姿勢を正してから、そっと口に入れる。


「そうか……あまり気負わないように」


頑張りすぎてしまうところを見透かしたように、短くそう言って、ルキもチョコレートを口に入れた。


たわいもない話を交わしながらコーヒーを飲み終えると、これ以上は邪魔をしてはいけない気がして、ルシナは席を立つ。


バックヤードから店舗スペースへ戻ると――


“ぴかぴかにするのー”

“きれいにするよー”


小さな子どものような声がした。


棚の並ぶ壁に目を向けると、妖精たちが展示された靴を一生懸命に磨いている。


「わあ、ここにも妖精さんたちがいるのね」


思わず笑みがこぼれる。


“えー、みえるのー?”


妖精たちは驚いて、手を止めた。


「何かありましたか?」


背後から声をかけられ、ルシナは振り向く。


「ええ、妖精さんたちが靴を磨いてて。かわいらしいなって」


微笑ましい光景に、頬がゆるんだ。


ルキは不思議そうな表情で、棚に並ぶ靴へと視線を向ける。


「ここに妖精がいるんですか? 見える人がいることは知っていましたが、ルシナさんがそうなんですね」


感心したように、静かに言った。


「えっ。皆さん、見えるんじゃないんですか?」


「いえ。一部の人だけですよ」


ルキは目線だけで周囲を探るようにして続ける。


「妖精はどこにでもいる。人知れず手助けをしてくれたり、イタズラをしたりする――祖母がよく話していました」


その言い方がどこかやさしくて、少し懐かしそうだった。


ふっと思い出したように、小さく笑う。


「カイはよく鍵をなくしたり、寝坊したりするんですが、『妖精のイタズラだー』って言い訳に使うんですよ」


「ふふ……カイらしいですね」


ルキの周りを、妖精たちがくるくると回っているのを目で追いながら、ルシナは笑った。


「このお店、居心地がいいそうです。たまにチョコレートも貰ってるって言っていますよ」


妖精たちの言葉を伝えると、ルキは少し目を見開いた。


「……だから、数が合わなかったのか」


納得したように、小さく息を吐く。


「えぇ。お礼に、靴を磨いているそうです」


「妖精がいる店は安泰だ、とも言われます」


そう言って、やわらかく微笑む。


「ここにも居てくれているんですね」


その表情を見て、ルシナは思った。

妖精に好かれる理由が、少し分かった気がした。


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