26: 初給料
ノアの来訪から、数日が経った。
その後もモーヴェの支給品は届いているが、相変わらず扉の前への置き配だった。
ノアが再び来ることはなく、いつ現れるのかも分からない。
ノアから渡された毛布は、肌寒くなってきた今、とても重宝している。
手触りのいいそれは、フーが気に入ってホリホリしては占領してしまうほどだ。
それでもルシナの胸には、ひとつだけ引っかかりが残っていた。
ハイヒールに向けられた、あの一瞬の視線。
低く響く声も、鋭い眼光も、耳と記憶に残って離れない。
不安のせいか、それとも冷え込みのせいか。
足の痺れが出ることが増え、歩き方にも影響が出始めていた。
それでも――
ルシナはハイヒールを眺める。
背筋を伸ばし、姿勢を正す。
前を向くために。
カフェで働くことを、諦めないために。
ーーーーー
「お疲れ様。今日は給料を渡すわね。十日間、よく頑張ったわ」
初給料日だった。
流美の記憶では、初めての給料で母にストールを買った。
歳の離れた兄は、「おめでとう」と焼肉をご馳走してくれた。
ルシナとしての記憶には、“働いた対価”を貰った事がなかった。その影響か想像以上に感じる達成感に喜びを隠しきれない。
セイラから、銀貨五枚を手渡される。
「ありがとうございます。初給料、嬉しいです」
両手で受け取りながら答えると、セイラはやわらかく微笑んだ。
「セイラさん、銀貨一枚を小銀貨と銅貨に両替してもらえますか?」
少し遠慮がちに頼むと、「いいわよ」と手際よく小銀貨七枚と銅貨三十枚に分けていく。
「あと、これは私からのプレゼント。十日間やりきったルシナへ」
そう言って差し出されたのは、うさぎのモチーフの小さな財布だった。
思いがけない贈り物に、胸の奥がふわりと温かくなる。気づけば、目の奥がじんわりと滲んでいた。
「ありがとうございます。大切にします」
少し震える声で礼を言う。
セイラはやわらかく微笑んだ。
けれどその視線は、別の誰かと重ねているようにも見えた。
給料を貰ったばかりの財布に入れる
ずしりと感じる重みに充実感が湧き、嬉しさで満たされる。
「じゃあ明後日ね。また待ってるわ」
ーーーー
カフェから小屋に戻る前に靴屋の前で立ち止まる。
ショーウィンドウには、ボルドーのハイヒールの代わりに、ダークブラウンのブーツが展示されていた。
「いらっしゃいませ。中に入られますか?」
店内からルシナを見かけたルキは扉を開けて声をかけてくれた
「ルキさん。今日、初給料日だったんです。
ボルドーのハイヒールのおかげで前を向いて歩き出せます。購入できるまで、もう少しお借りしてもいいですか?」
声を弾ませながら、ルキを見上げると、柔らかい笑顔が返ってきた。
「それは良かった。ルシナさんの働きぶりは、町の人達にも評判が良いですよ」
“評判が良い”
そう思ってもらえていることが嬉しくて、受け入れられている実感が、じんわりと胸に広がっていく。
「もちろん、あのハイヒールはそのままお持ち頂いていいですよ。ルシナさんが前向きに頑張れているなら、俺も頑張らないといけないですね」
落ち着いた優しい声色は耳に心地よく、その眼差しに、ルシナの胸が静かにざわめいた。
「よかったら、コーヒーでも飲んでいきませんか。初給料のお祝い……というほどでもありませんが。チョコレートはお好きですか?」
ちょうど自分も休憩を取ろうと思っていたところだと言って、ルキは扉を押さえ、店内へと招き入れてくれた。
革の匂いがほのかに漂う店内は、整理整頓が行き届いていて清潔感がある。
見やすく展示された靴はどれも綺麗に磨かれている。
店の奥の壁際には道具が整然と並び、作業台にも無駄な物は置かれていない。
職人の几帳面さが、そのまま空間に表れているようだった。
ルキは入口に「休憩中」の札を掛けると、バックヤードへとルシナを案内する。
そこには少し高さのあるテーブルと椅子が置かれていた。
ルキは椅子を静かに引き、どうぞ、と目線で座るよう促した。
湯気の立つコーヒーとチョコレートが、皿の上に几帳面に並べられている。
「コーヒー、熱いので気をつけてください。砂糖とミルクは要りますか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
手つきも言葉も無駄がなく、どこか店員のように丁寧で、ルシナは思わず感心する。
なんでもきちんと扱う人なのだと分かる。
「働いていて、困っていることはないですか」
ルキは控えめな声でそう言ってから続けた。
「セイラはよく見ているけど、忙しいからな。何かあれば、俺でもカイでもいい。遠慮せず言ってください」
丸テーブルの右斜め向かいに座ったまま、ルキは視線だけを柔らかく向けた。
それからコーヒーを一口、静かに含む。
「セイラさんも、お客さんも、皆さん良くしてくれていて。とても働きやすいです。だから、もっと頑張らないとなって思ってます」
ルシナはチョコレートを、いつもの癖でぽいっと口に放り込みかけて、ふと手を止めた。
少しだけ姿勢を正してから、そっと口に入れる。
「そうか……あまり気負わないように」
頑張りすぎてしまうところを見透かしたように、短くそう言って、ルキもチョコレートを口に入れた。
たわいもない話を交わしながらコーヒーを飲み終えると、これ以上は邪魔をしてはいけない気がして、ルシナは席を立つ。
バックヤードから店舗スペースへ戻ると――
“ぴかぴかにするのー”
“きれいにするよー”
小さな子どものような声がした。
棚の並ぶ壁に目を向けると、妖精たちが展示された靴を一生懸命に磨いている。
「わあ、ここにも妖精さんたちがいるのね」
思わず笑みがこぼれる。
“えー、みえるのー?”
妖精たちは驚いて、手を止めた。
「何かありましたか?」
背後から声をかけられ、ルシナは振り向く。
「ええ、妖精さんたちが靴を磨いてて。かわいらしいなって」
微笑ましい光景に、頬がゆるんだ。
ルキは不思議そうな表情で、棚に並ぶ靴へと視線を向ける。
「ここに妖精がいるんですか? 見える人がいることは知っていましたが、ルシナさんがそうなんですね」
感心したように、静かに言った。
「えっ。皆さん、見えるんじゃないんですか?」
「いえ。一部の人だけですよ」
ルキは目線だけで周囲を探るようにして続ける。
「妖精はどこにでもいる。人知れず手助けをしてくれたり、イタズラをしたりする――祖母がよく話していました」
その言い方がどこかやさしくて、少し懐かしそうだった。
ふっと思い出したように、小さく笑う。
「カイはよく鍵をなくしたり、寝坊したりするんですが、『妖精のイタズラだー』って言い訳に使うんですよ」
「ふふ……カイらしいですね」
ルキの周りを、妖精たちがくるくると回っているのを目で追いながら、ルシナは笑った。
「このお店、居心地がいいそうです。たまにチョコレートも貰ってるって言っていますよ」
妖精たちの言葉を伝えると、ルキは少し目を見開いた。
「……だから、数が合わなかったのか」
納得したように、小さく息を吐く。
「えぇ。お礼に、靴を磨いているそうです」
「妖精がいる店は安泰だ、とも言われます」
そう言って、やわらかく微笑む。
「ここにも居てくれているんですね」
その表情を見て、ルシナは思った。
妖精に好かれる理由が、少し分かった気がした。




