23: カフェ初日
耳元に息がかかる気配で、ルシナは目を覚ました。
フーがぺろりと耳を舐めてくる。
「ふへっ。フーちゃん、おはよう。起きる……起きるからやめて……」
身を起こすと、棚に飾ったボルドーのハイヒールの光沢が視界に入った。
オレンジ色の花も朝の光を浴びて元気に咲いている。花屋の女性のやわらかな笑顔を思い出した。
今日はカフェの初出勤の日だ。
あの町の人たちに馴染めるだろうか。不安はある。
それでも、ハイヒールを眺めていると、少しだけ前向きな気持ちになれた。
コハナはすでに起きていて、朝食の準備をしていた。ルシナが起きた気配に気づき、振り返る。
「おはよう」
そう言って、ハーブティーとサンドイッチをテーブルに置く。
「おはよう。コハナ早いね。いつもありがとう」
ルシナが来るまで、ずっと一人で過ごしていたコハナ。
(ふらりと町に来たって、セイラさんが言ってたけど……どこから来たんだろう)
「コハナ、今日からカフェで働くことになったよ。コハナは今日もパン屋に行くの?」
そう尋ねると、小さく頷く。
「そっか。じゃあ町でまた会うかもね。これを食べたら出かけるの?」
コハナはじっとルシナを見てから、静かに肯定した。
「カフェで上手くできるか不安だけど、頑張ってくるね」
「セイラもカイも、いい人。面倒見てくれた」
コハナにとっての“いい人”の名前。
それだけで、大丈夫だと言われた気がした。
ルシナは晴れやかな気持ちで町へ向かった。
ーーーー
カフェの入り口で、セイラが出迎えてくれた。
「ルシナ、おはよう。今日からよろしく。このエプロン使って」
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
きれいに畳まれた新品のエプロンを受け取る。
ダークブラウンの色は、セイラの髪色に似ていた。
「今日は一日、私の近くで動いて。少しずつ覚えれば大丈夫」
「はい。わかりました」
記憶をたどると、ドーナツ店でのアルバイトが浮かぶ。
イートインもあったから、カフェの動きに近い。
接客や会計は共通点が多く、要領はつかめそうだった。
それでも、席への案内、メニュー説明、注文の聞き取り、常連客とのやり取りなど、覚えることは多い。
「ここの人気はコーヒーとパンケーキ。サンドイッチもよく出るわ」
教えながらも手を止めないセイラの動きは無駄がなく、見ていて気持ちがいい。
店内にはコーヒーとパンケーキの甘い香りが満ちていた。
「この時間はまだ空いてるから、コーヒーの淹れ方とサンドイッチの盛り付けを教えるわ。私のやり方を見て真似して」
手順も注意点も簡潔で分かりやすい。
常連客に紹介されるたび、
「がんばれよ」
「よろしくね」
と声をかけられた。
その温かさに、ここで続けていけそうだと、少しだけ安心した。
カランコロン――
扉が開く音がした。
「いらっしゃいませ」
ルシナが出迎えると、入ってきたのは郵便屋だった。
「手紙をお持ちしました。セイラさんはいらっしゃいますか?」
「セイラたーん。りーちゃんもきたよー」
青い帽子をかぶり、大きな黒い鞄を肩から下げた三十代くらいの男性と、同じく青い帽子をかぶった五歳ほどの女の子が、扉から顔をのぞかせている。
二人はよく似ていた。
オレンジ色のくるくるとした髪、柔らかそうな髪質。白い肌にそばかす、えくぼまで同じで、見ているだけで頬がゆるむ。
「あら。お手紙ね。いつもお疲れ様」
「リーリエがどうしてもセイラさんに会いたいって聞かなくて……」
「りーちゃんは、セイラたんのファンなのー」
「ふふ……ありがとう。私もリーリエに会えて嬉しいわ」
セイラはそう言って、手紙の束を受け取った。
「紹介するわね。今日からここで働くルシナよ。ルシナ、こちらは郵便屋のマーリンと、娘のリーリエ」
常連客にするのと同じ自然さで紹介する。
「そうでしたか。セイラさん、人手が欲しいって仰っていましたから。よかったですね。よろしくお願いします」
マーリンは鞄を背中に回し、手を差し出した。
「ルシナたん?よろしくねー」
握手を交わすと、リーリエもその手に小さな手を重ねて、にっこり笑う。
「じゃあ次の配達があるからこれで。リーリエ行くよ。セイラさんの仕事の邪魔をしない約束だったろ」
「うん。分かったー。セイラたん、ルシナたん、またねー」
小さな手を振りながら、二人は店を出ていった。
「リーリエ、かわいいでしょ。たまにああして来てくれるのよ」
セイラは手紙の束を確認しながら微笑む。
封書の種類は、発注確認や請求書などの事務書類に混じって、色とりどりの便箋が数枚程。その中の一つに妖精のスタンプで飾られた便箋があり、『りーちゃんより』書かれているのがちらりと見えた。
(セイラさん、人気なんだな……)
美人で、仕事ができて、優しい。
ファンが多いのも納得だった。
そう思いながら、ルシナは仕事に戻った
ーーーー
「お疲れ様。接客の経験があるって言ってたけど、その通りね。よく動けていたわ。流れとかやり方は慣れだから、ゆっくり覚えてもらえればいい」
慣れない環境での一日。
ほどよい疲れを感じながらも、そう言ってもらえたことで達成感が胸に広がる。
「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
嬉しさのあまり、ぺこりと大きく頭を下げた。
セイラはその様子を見て、手を口元に当て、くすくすと笑う。
その笑顔は、破壊的に美しかった。




