第九十二段 棚なし小舟
【本文】
むかし、恋しさに、来つつかへれど、女に消息をだにえせでよめる。
蘆べ漕ぐ棚なし小舟いくそたび
ゆきかへるらむ知る人もなみ
【現代語訳】
昔、恋しいあまり(もしかしたら逢えるかもしれないと思って)家の前まで来てはみたが帰ってゆくというのを繰り返していた男が、女には便りを出すことも出来ずに次のような歌を詠みました。
蘆の繁る河辺をゆく船棚さえもないような小舟は、何十回も行っては帰ってを繰り返しています。(蘆の陰に隠れて)誰にも知られないので。
【解釈・論考】
恋する女に逢えるかなあ、と一縷の望みをかけて家の前を訪れ、為すすべもなく帰っていくのを繰り返すという哀愁漂う状況が前提となっています。
歌をみていきましょう。「棚なし小舟」とありますが、ここでいう「棚」とは舟の舷側につけた板のことです。舟の両側の縁に、波が舟べりを越えて入ってくるのを防ぐと共に、水夫がこの板の上に立って舟を漕ぐように打ちつけられていた舷側板のことです。歌の中では、そんな棚板も打ちつけられていないような小舟ということで、非常に頼りなげな印象を受けます。「いくそたび」の「そ」というのは十という意味で、幾度という言葉の間に十がついている訳ですから、「何十回も」という意味になるのです。船棚さえつけていない小さな舟が何十回も蘆の陰に隠れながら行きつ戻りつしている様子は実に頼りなく、女に便りさえ出せない男の恋がこの先心細い結末を迎えるであろうことを暗示しているようでもあります。




