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第九十段 あな頼みがた

【本文】

 むかし、つれなき人をいかでと思ひわたりければ、あはれとや思ひけむ、「さらばあすもの越しにても」といへりけるを、かぎりなくうれしく、また疑はしかりければ、おもしろかりける桜につけて、


 さくら花今日こそかくもにほふとも

   あな頼みがたあすの夜のこと


といふ心ばへもあるべし。



【現代語訳】

 昔、冷淡な人をなんとかして振り向かせたいと長年想い続けていた男がいて、女もさすがに心を動かされたのか、「それでは、明日、簾越しにでもお会いしましょう」という返事をしたので、男はかぎりなく嬉しく思い、また本当だろうかと疑わしくもあり、美しく咲いている桜に付けて、


 桜の花よ、今日はこんなにも美しく香るほどに咲いてはいるけども、明日まで咲き残っているか、どうにも心細いものであることよ。


このような歌を詠んで贈りましたが、長らくつれなくされていただけに、こうした気持ちになるのも無理のないことだったでしょう。



【解釈・論考】

 「また疑はしかりければ、…」という部分は現代の我々からみても共感できるところではないでしょうか。恋しい相手に長年アプローチをかけ続けていて、とうとう相手がそれに応えてくれたとき、思わず「本当だろうか?」とも感じられてしまいますね。長年の恋が実るという点で前段とは対称的です。

 「もの越しにても」の「もの」は簾(御簾)か几帳越しであろうかと思われます。簾(御簾)は上から垂らすもので、暗い空間の側から明るい側を見やすいという性質を持ちます。なので、日中は暗い室内から明るい外を見やすく、女の側から男を見やすくなっています。なお、夜は外が暗くなり、室内は燭台が灯って仄かに明るくなるので男から女の姿を見やすくなります。几帳はT字型の可動式の柱に絹などの布をかけて、邸の中の間仕切りとして用いられているものでした。


 歌をみていきましょう。意味はストレートに取れますね。言葉の調べが優しく、匂い立つように咲いている桜の花も明日にはどうなっているか分からない、そういった心許なさが恋の行方を案ずる気持ちにも通ずる、と暗喩している訳です。ほっとして嬉しい気持ちは桜の美しさ、それでもやっぱり不安な気持ちは花が散ってしまうかもしれないというおそれと、どちらも情景が思い浮かびやすく味わい深いものがありますね。

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