第八段 けぶり立つ山
【本文】
むかし、男ありけり。京や住み憂かりけむ、東のかたにゆきて住みどころ求むとて、友とする人ひとりふたりしてゆきけり。信濃の国、浅間の嶽に、けぶりの立つを見て、
信濃なる浅間の嶽に立つけぶり
をちこち人の見やはとがめぬ
【現代語訳】
昔、ある男がいました。京都に住みづらくなったらしく、東国に行って住みつくべき場所を求めて、友達の一人二人とともに旅立ちました。信濃の国の浅間嶽(浅間山)というところで、煙が立っているのをみて次のような歌を詠みました。
信濃の国の浅間の山で空に立ち上る煙を、あちこちの人々はどうして見とがめないのだろうか。
【解釈・論考】
浅間嶽は、今の長野県と群馬県の境あたりにある山です。この頃は火山活動もあったようで、山頂から煙がたなびく姿が見えたようですね。現在でも活火山であり、平時は登山も可能ですが、噴火警戒レベルが変わると立ち入り禁止となるエリアもあります。
第七段の伊勢、尾張からは随分と離れますが、この話は一応、東国行きの道すがらと考えていいようです。歌物語の話の配列は必ずしも道順とは関係なく、前後することもあるし、東国への道筋も東海道に限られたことではありません。ここらへんは、あくまで物語、フィクションとして自由な気持ちでとらえて、歌のもつ抒情性を味わいましょう。
京の人間にとって山と言えば比叡山であり、四方を見渡しても活火山はほとんどみられません。このため、煙たなびく山に対する驚きと、それなのに近辺の人達は別に何の関心も示さないことに対する驚きとを詠み込んだ歌とみられます。富士山の噴火は京にも報告が来るのに、浅間嶽の噴火の件は、京では聞いたことがなかったのかもしれません。旅先での新鮮な驚きの気持ちが伝わってくる歌ですね。
なお、東国を目指す道筋としては足柄平野を東へ抜けていく道(現在の東海道)、箱根から足柄峠へ一旦北上していくルート、東山道を甲斐を経由するルート、北陸道から碓氷峠を越えていくルートなどがありました。ここでは東国へ向かっていくというテーマが重要なので、東海道以外のルートを作品の中に挙げられるということは、物語としては情景の膨らみがあるようにも思われます。
ちなみに、先程富士山が噴火したときは京にも報告が来ると言いましたが、実は『伊勢物語』の背景となる時代の直前の延暦十九年(西暦800年)から同二十一年(西暦802年)にかけて断続的に富士山の噴火があったことが、『日本紀略』、『富士山記』、『宮下文書』などの複数の資料によって確認されています。
この噴火により、当時「足柄路」を通っていた東海道は、一時的に「箱根路」に移されたとの記述もあります。火山学者の小山真人は、『宮下文書』の記載内容を丹念に調査し、その史料的価値については歴史学者達と同じく信憑性は疑わしいとしつつも、富士山の延暦噴火の前後の記述に関しては地質調査の結果などから、次のような仮説を唱えるに至りました。まず、この時代の東海道は富士山の北麓を通って御殿場を経由するルートがあり、その先に足柄峠を通る道筋になっていました。しかし、富士山の延暦噴火により、富士山北麓~御殿場のエリアが一時的に使用停止となったことに伴って箱根路に移されたものとみられる、とするものです。
東下りの背景となる時代、東国へと旅する人達は実際にはどの道を選んだのでしょうか。迂回路や、新道でしょうか。旧道の復旧は意外と早かったのでしょうか。そういったところを想像してみるのも面白いものですね。




