第八十三段 小野の雪
【本文】
むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、例の狩しにおはします供に、馬頭なる翁つかうまつれり。日ごろへて宮にかへり給うけり。御送りしてとく去なむと思ふに、大御酒たまひ禄たまはむとて、つかはさざりけり。この馬頭、心もとながりて、
枕とて草ひき結ぶこともせじ
秋の夜とだに頼まれなくに
とよみける。時は三月のつごもりなりけり。親王大殿籠らであかし給うてけり。
かくしつつまうで仕うまつりけるを、思ひのほかに、御髪おろし給うてけり。正月に拝みたてまつらむとて、小野にまうでたるに、比叡の山のふもとなれば、雪いとたかし。しひて御室にまうでて拝みたてまつるに、つれづれと、いとものがなしくておはしましければ、やや久しくさぶらひて、いにしへのことなど思ひ出で聞えけり。さてもさぶらひてしがなと思へど、公事どもありければ、えさぶらはで、夕暮にかへるとて、
忘れては夢かとぞおもふ思ひきや
雪ふみわけて君を見むとは
とてなむ泣く泣く来にける。
【現代語訳】
昔、水無瀬の離宮に通っていかれていた惟喬親王という方が、いつものように狩りにお出かけなさる際の御供に、馬頭であった翁をお連れになられていかれたのでした。何日か経って京にあるお邸にお帰りなさいました。翁は(京には自分も逢いたい人もいるので)親王をお送りしたら早めにおいとましようと思っていたところに、親王よりお酒をくださり褒美までくださるということで、なかなかお帰しになられませんでした。馬頭は帰宅のお許しを頂きたく気がかりになってしまい、
今夜はここで草枕をして眠るつもりはございません。今は晩春で夜は短く、秋のように夜が長いという訳ではありませんから。
という歌を詠みました。そのときは三月の末だったのです。結局親王は寝所に入っておやすみにはならず、そのまま夜を明かして過ごされたのでした。
このような様子で親しみつつお仕えしていたのですが、親王は思いがけなく、髪をおろして出家なさってしまったのでした。正月に翁は年始のご挨拶をしようとして、親王が隠棲なさっている小野にお伺いしたところ、比叡山のふもとあたりであったので、雪が高く降り積もっていました。雪の中を難儀しつつ、親王の僧房に参上して拝礼申し上げると、親王はなさることもなく、たいそう心寂しそうなご様子でいらっしゃったので、ずいぶん長い時間を親王のお傍で過ごして、昔のことなどの思い出話を語り合いました。このまま親王の御前に仕えて過ごしていたいとも思いましたが、宮中での公式の務めなどもあるので、ずっと伺候しているわけにもいかず、夕暮れに京に帰ることになり、
すべての事情を忘れてしまうと、今のこの状況こそ夢であるかのように思われます。雪を踏み分けて山里深く貴方さまをお訪ね申し上げる日が来るとは。
と詠んで泣く泣く帰っていったのでした。
【解釈・論考】
前段から引き続き、惟喬親王との交流の話です。前の段の解釈では惟喬親王は弟宮の惟仁親王が成人するまでの間のつなぎとしても即位することができなかった、ということをお伝えしました。その後、彼は貞観十四年(872年)に病のため出家します。二十八歳頃のことでした。貞観十四年は、弟の皇子である貞明親王(即位後、陽成天皇となります)が誕生し、即位するまでの数年の間にあたりますから、この頃に自分の将来がはっきりと途絶えてしまったことに失望したということもあるのかもしれません。
この段の前半では、水無瀬の離宮へ行くたびに業平を連れていったこと、京に帰って宮中の自分の部屋に戻ってからも業平を引き留めて帰さなかったことなどが書かれており、主従の親しい様子が描写されています。前の段では業平たちが寝所に戻ろうとする親王を引き留めていたのに対し、この段では親王が業平を引き留めているのも面白いですね。お互いに離れがたいと思い合ってる間柄というのは、良好な関係の証ですね。
歌を見ていきましょう。一首目「枕とて草ひき結ぶこともせじ…」の歌、第四十九段で「草枕」というのは旅の途中で草を枕にして寝るというものだということをお伝えしました。つまり、親王は自宅である宮中に帰ってきましたが、主人公にとっては自宅ではない訳で水無瀬への行き来の旅はまだ終わっている訳ではないのです。そこで「今夜は草枕をしませんよ」という意味の上の句で、ここに泊まるつもりはないですよ、という意味の歌にしているのです。まあ結局泊まってしまう訳ですが。しかも徹夜で。
このように親しく主従で過ごしていた時期もありますが、先程もお伝えした通り、親王は突然出家してしまわれます。隠棲先の小野という場所の詳細については諸説ありますが、「比叡の山のふもと」ということなので、雪もよく積もったことでしょう。
二首目の「忘れては夢かとぞおもふ思ひきや」の歌は『古今集』雑下970に収められており、その詞書には「(前略)…比叡の山のふもとなりければ、雪いと深かりけり。しひてかの室にまかりいたりてをがみけるに、つれづれとしていていと物悲しくて、かへりまうできてよみおくりける」というように書かれています。つまり、「物悲し」と感じたのは業平であり、歌も京に帰ってから詠んで送ったということになっています。おそらく『古今集』の方が事実に近いものと思われますが、『古今集』で描写されている状況の方が「夢かとぞおもふ」という二句目の抒情性が引き立つように思われます。
冒頭で親王との親しい交わりを描写し、そんな日々が続いていたところに急な親王の出家、そしてもの寂しい雪深い隠棲の様子が書かれています。前の段が全般を通して楽しげな主従の交わりであったのに対し、この段の後半部のモノトーンで描かれているような雪深い隠棲の様子はどうでしょう。それらがすべて「…夢かとぞおもふ…」という歌に収斂していくのです。どこまでも丁寧に繊細に、物語と歌とが織りなす世界はただかなしく、千年のときを越え、このような人達がいたということを今に伝えます。




