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第七十八段 苔の蒔絵

【本文】

 むかし、多賀幾子と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日(なななぬか)のみわざ、安祥寺にてしけり。右大将藤原の常行といふ人いまそかりけり。そのみわざにまうで給ひてかへさに、山科の禅師の親王おはします、その山科の宮に、滝落し、水走らせなどして、おもしろく造られたるにまうで給うて、「年ごろよそには仕うまつれど、近はいまだ仕うまつらず。こよひはここにさぶらはむ」と申し給ふ。親王よろこび給うて、夜のおましのまうけさせ給ふ。さるに、かの大将出でてたばかり給ふやう、「宮仕への初めに、ただなほやはあるべき。三條の大行幸(おほみゆき)せし時、紀の国の千里(ちさと)の浜にありける、いとおもしろき石奉れりき。大行幸の後奉れりしかば、ある人の御曹司(みぞうし)のまへの溝にすゑたりしを、島好み給ふ君なり、この石を奉らむ」とのたまひて、御随身(みずいじん)舎人(とねり)して取りにつかはす。いくばくもなくて持てきぬ。この石、聞きしよりは見るまされり。「これをただに奉らばすずろなるべし」とて、人々に歌よませ給ふ。右の馬頭なりける人のをなむ、青き苔をきざみて蒔絵のかたに、この歌をつけて奉りける。


 あかねども岩にぞかふる色見えぬ

   心を見せむよしのなければ


となむよめりける。



【現代語訳】

 昔、多賀幾子と申される女御がおられました。その方が亡くなって、七七日の法事を安祥寺で執り行いました。右大将の藤原常行という人がいらっしゃいました。その法事に参列なさった帰り道に、山科の禅師の親王のいらっしゃる、その山科のお邸に滝を落とし、小川を流したりするなどして趣深い庭園を造られたとのことだったので挨拶にあがられて、「数年来、別の方にお仕えしていましたが、貴方様には身近にお仕えしてはおりませんでした。今夜はこちらに伺候させて頂きたいと思います」と申し上げました。親王はお喜びになられて、夜の寝所の準備をおさせになられました。ところで、その大将が人々の前に出て趣向をこらされることには、「親王にお仕えする手始めに、何の贈り物もなしではよかろうか。三条の邸に帝が行幸なされたとき、ある人から紀伊国の千里(ちさと)の浜辺にあった素晴らしい石をわが父・良相に頂いたことがある。行幸の後に頂いたものなので、誰かの部屋の前の水辺に据え置いたままになっていたものがある。庭園にご趣味のある親王なのだから、この石をささげよう」とおっしゃって、警護の者達や雑役の者達に命じて石を取りに行かせました。しばらくしてその石を持ってきました。その石は、話に聞くより実際に見てみるといっそう素晴らしいものでした。「これを何の趣向も添えずにただお贈りするのは風情がなさすぎるだろう」といって、人々に歌を詠ませられました。右の馬頭であった人の歌を特に、石の表面の青い苔を刻んで蒔絵のようにして、この歌をつけてお贈りしたのでした。


 十分ではございませんが、私の貴方への気持ちの代わりにこの石を贈ります。心というのはお見せたいと思ってもその方法がございませんですので。


と詠んだのでした。



【解釈・論考】

 前段に引き続き、多賀幾子の法要を安祥寺で執り行ったことにまつわるお話です。「七七日のみわざ」というのは四十九日の法要のことです。仏教では人の魂は死後四十九日の間に中有の道といって冥界を目指す旅をします。この旅の行く先に三途の川がある訳です。そしてその先に地獄へいくか極楽へいくかが分かれるので、旅の道行きを迷わず極楽へいけるように七日ごとに追善供養をするのです。七日の追善供養の七回目で四十九日の法要となる訳です。


 安祥寺は京都の山科のあたりにあるお寺です。嘉祥元年(848)に開山された真言宗のお寺で、藤原順子の発願によって建立されました。藤原北家に縁が深いこと、伊勢物語の背景となっているこの時代にあってはとても新しい立派なお寺であったことが窺えます。

 さて、この段の話はその法要の帰り道、先の段でも登場した藤原常行が出家して山科で暮らしている人康親王の邸を訪ねる場面です。彼の出家は貞観元年(859年)で、山科禅師親王と呼ばれていました。なお、多賀幾子が亡くなったのは彼が出家する前年の天安二年(858年)なので、物語の場面設定とは若干の齟齬があります。ここらへんは仮説として、①親王が出家したのは貞観元年だが山科の地へ移られたのはそれより少し前だった、②藤原常行が山科禅師親王を訪問したのは実際は法要とは別の機会だった、といった可能性を考慮してみると物語文の内容はそれほど破綻するものではありません。「七七日のみわざ」とわざわざ書いているので②の仮説の可能性は若干低いかなと思いますので、ここでは①の仮説を意識することとします。


 さて、経緯はどうであれ、藤原常行が山科禅師親王に挨拶に訪れたということ自体はおそらく実際にあったことでしょう。親王は仁明天皇の皇子にして文徳天皇の御兄弟であられました。この頃、文徳天皇、清和天皇から陽成天皇へと続いていく系譜に藤原良房・基経らが外戚として強く結びついていました。多賀幾子を亡くして文徳天皇との結びつきがなくなった常行はあらたに皇室との繋がりを強化しようとして、この親王に接近した訳です。ちなみにこの運動は完全には成功せず、陽成天皇が若くして退位された後に即位されたのは、文徳天皇の別の御兄弟である光孝天皇でした。そこから宇多天皇、醍醐天皇とつながる系譜になっていく訳ですがこれは余談。

 余談ついでに藤原常行にまつわるエピソードを一つご紹介しましょう。彼は百鬼夜行に遭遇したという伝説が今昔物語に残されています。彼は若い頃、忌夜行日(きやぎょうにち)(陰陽道で定める、夜遅くに出歩くことを忌むべき日)にも関わらず夜遅くに想いをかけた女のところに通うために出歩いていました。そこで百鬼夜行に遭遇しました。あわや鬼や妖怪たちに捕まるかと思われましたが、しかし彼の乳母の兄弟が阿闍梨(天台宗や真言宗で修行を積んだ僧侶)であり、その人が書いた尊勝陀羅尼という呪文をお守りとして服の襟に入れていたので難を逃れることができた、ということです。百鬼夜行について記録されている中で、時代背景としてはもっとも古いものになります。


 さて、最後に歌について触れていきましょう。歌の意味はそのままとることができます。「心を見せむよしのなければ」という下の句は、「貴方様のことをずっと敬慕していましたが、その心を表す術がありませんでした」という藤原常行の真意を代弁しており、状況に即しているという点が見所のひとつです。

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