第七十二段 大淀の松
【本文】
むかし、男、伊勢の国なりける女、またえ逢はで、隣の国へ行くとて、いみじううらみければ、女、
大淀の松はつらくもあらなくに
うらみてのみもかへる浪かな
【現代語訳】
昔、ある男が、伊勢国に住んでいる女に一度だけ逢って愛をかわしましたが、ふたたび逢うことができないまま隣国に旅立たなくてはならなくなり、たいそう残念に思っている様子だったので、女は次のような歌を詠みました。
大淀の松がとりわけ冷淡な振舞いをしていたわけではないのに、うらみを残して帰っていく波であることよ。
【解釈・論考】
古語における「うらむ」という言葉について言及しておきましょう。現代の我々は一般的に恨むというと、それは「呪う」だとか、「嫌う」とか、「相手の不幸を祈る」といったような、相手に対する多少の攻撃性を孕んだ言葉であると理解するでしょう。しかし、古語においては若干のニュアンスの違いがあり、もちろん「憎く思う」という意味もありますが、そこには「悲しく思う」、「残念に思う」というような心情の度合いがあるといえるでしょう。現代にまで残っている言葉として「うらみごとを言う」というものがありますが、どちらかというとこの言葉のもつ「ネチネチと言う」「根にもっている」という意味合いのほうが、古語に近いように思われます。
さて、この段において女の立場は「伊勢の国なりける女」とあるので、その土地にもともと住んでいる女というふうに解釈されます。大意をとれば「隣の国に行くのは男の側の事情なのに、私とまた逢えないことをぶつぶつ文句を言うなんて心外だわ」といったところになります。ところがこの歌にはさらに込められたメッセージがあるようで、「松」は「待つ」の掛詞になっており、「待つのは私、つらくないわ」と言っているのです。そして、「うらみてのみもかへる」は「うらむ」という言葉と「浦(海辺)を見たただけで帰っていく貴方」と言っている訳で、つまり「私は待っているのに、貴方はあきらめて帰ってしまうの?」とこういう歌になっている訳です。この歌に対する返歌が載っていないのがもったいないくらい良い歌だと思います。
前段から引き続き伊勢国の女の歌で、それぞれ女房、そして在地の女と立場をすこし変化させていますが、歌の雰囲気というのもそれによく対応しているように思われます。




