第七十一段 神の斎垣も
【本文】
むかし、男、伊勢の斎宮に、内の御使にてまゐれりければ、かの宮に、すきごと言ひける女、私事にて、
ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし
大宮人の見まくほしさに
男、
恋しくは来ても見よかしちはやぶる
神のいさむる道ならなくに
【現代語訳】
昔、ある男が、伊勢の斎宮に朝廷の御使いとして参上したところ、その御宮に仕えている女房の一人で男と交流のあった女が、個人的に次のような歌を男に贈りました。
神聖な神様をお祀りしている垣根さえも越えてしまいそうです。京からいらっしゃったあなたに一目お逢いしたくて。
男は次のような歌を返しました。
恋しいのならばどうぞいらっしゃってください。神聖な神様も、恋することは禁じてはいらっしゃいませんよ。
【解釈・論考】
伊勢国がらみの話ではありますが、この段では恋人は斎宮ではなく、そこに仕える女房ということになっています。なので、女から贈られた歌も、男からの返歌も、どちらも第六十九段と比べると恋をすること自体を禁断のものとする気持ちは薄い印象です。
歌をみてみましょう。女からの歌の「ちはやぶる」ですが、これは枕詞といって神をみちびく言葉です。「はげしい」といった意味がありますが、枕詞というのは、特定の語の前に置かれることで語調を整えるはたらきがあります。このとき、枕詞として置かれた語の意味というのは、歌全体の中ではあまり大きな影響を持ちません。枕詞と似たようなものに序詞がありますが、枕詞が一句の中におさまるのに対して、序詞は二~三句にまたがることがあり、みちびかれる言葉の制約もある程度の自由さがあります。枕詞を用いた有名な秀歌を一つ、ご紹介しましょう。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
長々し夜をひとりかも寝む
『万葉集』におさめられている柿本人麿の歌です。山鳥は雉のこと、しだり尾というのは長く垂れ下がっている鳥の尾のこと、結句の「かも寝む」の「か」は疑問の係助詞、「も」は強意の係助詞、「む」は推量の助動詞です。意味としては「山鳥のしだり尾のように長い、とても長い夜を一人でさびしく寝ることになるのだろうか」ということになります。これは意味もさることながら、詠唱したときに枕詞が非常に効果的にはたらいており、初句から三句までをすべり降りるかのように言葉が走って上の句を形成し、四句目の「長々し夜」が際だちます。そして結句の「ひとりかも寝む」の抒情性にすべての言葉が添えられる形となっているのです。言葉の調べの優しさによって、一人寝の詠嘆をまさしく歌い上げているのです。
この段の女の歌に戻ってみましょう。この歌は「ちはやぶる」と初句でみちびかれた先に「神」「斎垣」「越えぬべし」とカ行音が三つもつづきます。音節の響きのもつ印象として、カ行音にはスタッカートのようなキレのよさがあり、一種のはげしさのようなものをイメージさせやすいという特徴をもちます。このことが、この歌の上の句において女の恋心の激しさを伝えるのに有効であるといえるでしょう。意味をとっても「垣根を越えていくんだ」という躍動感のある恋心が歌われています。それが下の句に続くとどうでしょう、「大宮人のみまくほしさに」と呟くような口調になっている訳です。みなさんも是非、詠唱してみてください。上の句は、口を大きくはっきり動かして声になる言葉たちです。一方で下の句に入ると、口を半開きで、ため息をつくようにして出せる言葉になっているのです。この対比が、この歌における女性の恋心のなんとも可憐なところといえるでしょう。
これに対する男の返歌はおおらかに相手の好意を受け入れるものとなっています。三句目で「ちはやぶる」をこちらも取り入れていますね。このように二人の間でやり取りをする歌を贈答歌と言い、贈答歌の中でも男女の恋のやり取りを歌うものを相聞歌と呼びます。贈答歌の返歌では、先に相手から贈られてきた歌の中の言葉を自分の歌の中に取り入れるというのも一つの技法でした。これをすることによって歌が対となって詠唱されたとき、言葉が響き合い、二人の間の世界が表されるのです。




