第六十六段 うみわたる舟
【本文】
むかし、男、津の国にしる所ありけるに、あにおとと友達ひきゐて、難波のかたに行きけり。渚を見れば舟どものあるを見て、
難波津をけさこそみつの浦ごとに
これやこの世をうみわたる舟
これをあはれがりて、人々かへりにけり。
【現代語訳】
昔、ある男が、摂津国(今の大阪府と兵庫県にまたがるあたり)に領地があったので、兄弟や友達と一緒に難波のあたりに行きました。波打際のあたりを見ると舟が何艘かあるのが見えたので、次のように詠みました。
難波の港を今朝本当に見ることができました。その御津の浦ごとに連なっているのは、これこそが憂き世の海を渡っていく舟なのでしょう。
これに深く感動して、みんなで帰っていったのでした。
【解釈・論考】
古代の難波というのは今の難波(なんば)とは別の場所になります。難波は大阪の市街地に程近い上町台地の北部にあたり、大阪城公園の南に難波宮という古代宮殿の遺構が公園になっています。
縄文時代の頃、大阪湾は海岸線が今の内陸部まで深く侵入し、上町台地が半島のように突き出して河内湾を形成していました。やがて弥生時代から古墳時代にかけて上町台地の北端の砂州が延び進み海水の流入を防ぎ、河内湾の水は淡水化し河内湖となりました。これによって今町台地の東岸は天然の防波堤をもつ良港として機能し、難波津と呼ばれ、瀬戸内や遣隋使の船を迎え入れる港町として大変栄え、大化元年(645年)には孝徳天皇によって難波宮がおかれました。都を畿内においた古代朝廷にとって、難波津はまさに異文化を迎え入れる玄関口の役割を果たしていたのです。なお、津というのは「つ」とも「しん」とも読み、「船着き場」という意味を持つ言葉です。「しん」と読む場合は「あふれる」という意味を持っており、今でも興味津々という言葉があります。つまり津という言葉からは水を満々とたたえた港町の情景が想起されます。
仁徳天皇の頃には治水事業によって河内湾の水量が減少し、大和河および淀川の河口の三角地を形成するようになります。湖であった場所は湿地帯や干潟、堤防に姿を変え、次第に大阪平野へと姿を変えていきます。平安時代の頃は土砂の堆積により難波津は港湾機能を失ったとする学説もありますが、和歌には多く難波津の情景が詠まれています。
この段の歌では、「みつ」が見るという意味の「見つ」と、津に接頭辞をつけた「御津」の掛詞になっています。「うみ」はこの世を憂いてという意味の「この世を憂み」と「海わたる」の掛詞になっています。「これやこの」は「これがあの、噂にきく…」といった意味の言葉です。この歌は『後撰集』雑三1254に業平の歌として類歌がおさめられています。
業平の時代に難波津が伊勢物語の時代に港として機能していたかは不明ですが、もし機能していたとしてもその規模は往時と比べればもの寂しいものだったでしょう。前の段でも触れた通り、遣唐使船も承和六年(839年)に帰船したものが最後となっていました。きっと主人公たちは難波津の光景を見て遠い異国の地を思い、かつて栄えた港町の光景を思い、大きく広がる海原を思ったことでしょう。「これやこの」という言葉からはそのようなロマンに思いを馳せる気持ちが表れています。そして「世を憂み」という言葉からは日々の生活に対するアンニュイな気持ちが読み取れます。日々の生活から抜け出したいと思う気持ちがわき上がったとき人は海を見に行き、心を慰め、そしてまた生活の中へと帰っていくのです。




