第六十二段 こけるから
【本文】
むかし、年ごろおとづれざりける女、心かしこくやあらざりけむ、はかなき人のことにつきて、人の国なりける人につかはれて、もと見し人の前にいできて、物くはせなどしけり。夜さり、「このありつる人たまへ」とあるじにいひければ、おこせたりけり。男、「我をば知らずや」とて、
いにしへのにほひはいづらさくら花
こけるからともなりにけるかな
といふを、いとはづかしと思ひて、いらへもせで居たるを「などいらへもせぬ」といへば、「涙のこぼるるに、目も見えず、物もいはれず」といふ。
これやこの我にあふみをのがれつつ
年月経れどまさり顔なき
といひて、衣ぬぎてとらせけれど、すてて逃げにけり。いづち去ぬらむとも知らず。
【現代語訳】
昔、男が長らく通っていかなかった女が、あまり心が賢明ではなかったのでしょうか、ある人のあてにはならない口車にのせられて、田舎の国のさる人に使われる身となってしまっていました。元の夫であった男があるときその国に来ることがあり、男の食事の給仕などをすることになりました。夜になってこの男が「さきほどの女をこちらに来させてください」と主人に言ったため、主人は女を男のもとに行かせたのでした。男は「私が誰か分からないのか」と言って、
昔の匂い立つような美しさは何処へいってしまったのか桜の花よ、みすぼらしい姿になってしまったなあ。
と詠んだところ、女はたいそう恥ずかしい気持ちがして返事もできないでいるのを「なぜ返事をしないのか」と男が言うので「涙がこぼれて目も見えず、物を言うこともできません」と女は言うのでした。
この人がまあ私の妻であることを捨てた女なのか。年月は経ったけれども以前よりよくなったところは一つもない。
と言って、自分の着物を脱いで与えましたが、女はそれを捨てて逃げてしまいました。どこへ逃げていったのかは杳として分かりません。
【解釈・論考】
おおまかな話の流れは第六十段と似ていますが、男の態度、女の人に向ける目線の冷たさという点において随分と違いがみられます。
まずは物語文冒頭、「年ごろおとづれざりける女」とありますので、男が女の元にまめに通わなくなったとあります。男の愛情が薄らいだように思われたというのは第六十段と共通するところですね。しかし、男と別れた女の振舞いについては「心かしこくやあらざりけむ」「はかなき人のことにつきて」と批判的な叙述をしています。また、他所の国へ行った女が役人の妻になっているのに対してこちらでは「人につかはれて」とありますので、使用人の身分になってしまっています。また、この段では男の立場は明らかにされてはおらず、女のいる国にやってきた理由にも触れられてはいません。
歌をみていきましょう。一首目の男の歌の、「こけるから」は「花をしごき落とした幹」と「肉が落ちて痩せこけた身体」という意味が込められた掛詞になっています。現在でも「頬がこける」という言葉がありますね。それにしてもこの場面でのこの言葉は、何という残酷な表現でしょう。かつて花のように美しかった妻が、別れた後とはいえやせ衰えた姿でいるのを見て、それで出てきたのがこの言葉なのです。
物語文で女については批判的な記述がされているので、女の側にも何か至らぬ点があったのかもしれませんが、男の言動も褒められたものではないと思われます。恥ずかしくなって黙りこくってしまった女に対して(この状況では当然のことと思います)、返事を強要するというのも優しさが感じられません。
二首目の男の歌の「あふみ」は「逢う身」と「近江」の掛詞であると解釈されることが多いようです。男と過ごしていたのは近江国(今の滋賀県)であったのかもしれませんし、男の近くの国、という意味合いであるのかもしれません。こちらも下の句の表現は、直截的に女の容姿・状態を批判しており、相手を思いやる気持ちだとか心のあたたかさのようなものは感じられません。
私見ですが、男の言動や歌からは女に執着しているとか、恨んでいてあえて恥をかかせてやろうとか、そういう陰湿さは感じられません。ということはつまり、素直な心そのままに相手の気持ちを傷つけるような言葉を紡いでしまうという性格でもあるということで、ある意味では相手に執着している場合よりさらに冷酷であるように思われます。第六十段では男の振舞いにわずかな残酷さが潜んでいるという風に述べましたが、この話では男の振舞いに優しさの要素が削ぎ落されている分、第六十段の男の振舞いと同質の残酷さがよりいっそう際立って表出されているように思われます。




