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第六十一段 そめ河

【本文】

 むかし、男、筑紫まで行きたりけるに、「これは色ごのむといふすきもの」と、(すだれ)のうちなる人のいひけるを聞きて、


 そめ河を渡らむ人のいかでかは

  色になるてふことのなからむ


女、返し、


 名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島

  浪のぬれぎぬ着るといふなり



【現代語訳】

 昔、ある男が筑紫(今の福岡県)まで行くことがあったときに、その地で「これが色好みだと評判の風流人ですか」と簾の中にいる人が言っているのを聞いて


 染川を渡ったとしたならば、色に染まらぬということがあるでしょうか。(貴女がたこそ色好みなのでしょう。私はそちらに染まって色好みになってしまっているのですよ)


という歌を詠んだところ、女は次のように返したのでした。


 名前で性質が決まるならたわれ島は浮気性ということになるでしょうが、そうではありません。波によって濡れ衣を被っていますね。(名前とその者の性質には因果関係はありませんよ。濡れ衣を着せないでください)



【解釈・論考】

 筑紫は今の福岡県にあたりますが、広く九州北部の領域、あるいは九州全体を指す言葉としても使われていました。前の段から引き続き、男の九州下向の話の流れとみることができるでしょう。

 古来、九州北部は諸外国との交易の拠点として、そして防衛の拠点として重視されてきました。この話のように貴族が下向することも多かったようで、自然と都の噂話なども伝わりやすかったのでしょう。「簾のうちなる人」というのは御簾の内側にいる人ということで、女性のことを意味します。


 「染川」というのは太宰府付近を流れる小川です。この川は「思川(おもひがわ)」という別名もあり、二つを合わせて「思ひ染め川」と呼ぶこともありました。名前の響きが恋心を連想しやすいため、歌枕としてよく詠まれたようです。「筑紫国」の響きが「思い尽くす」に繋がるため、この二つを同時に詠み込む歌もありますが、これは余談。染川は現在では川としての姿はほとんど残っていませんが、流れていた先の御笠川はその名と姿を今に留めています。


 男の歌は「そめ河」という九州の歌枕をうまく使って、相手こそ色好みであり、自分はそれに染まったのだと詠んでいる巧さがあります。この歌は『拾遺集』に業平の歌として収められていますが、『拾遺集』は十一世紀初頭に作られた勅撰和歌集であり、伊勢物語よりも後の時代に作られたものです。ですので伊勢物語にこの歌があるため、業平の歌ということにして収められたという可能性があります。

 女の返歌の「たはれ島」は肥後国宇土群(今の熊本県)の有明海の海上にある小さな島です。漢字では「風流島」と書きます。島というよりは岩礁といった方がいいような小島で、女の歌の下の句の「浪のぬれぎぬ着るといふなり」はこの島の特徴をよく捉えています。なおかつ、島の特徴を表す言葉を、そのまま男へ向けたメッセージとしてよく同期させている巧さがあります。この歌は『後撰集』に詠み人知らずとして、結句が「いくよ着つらむ」という形で収められています。

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