第五十九段 櫂のしづくか
【本文】
むかし、男、京をいかが思ひけむ、東山に住まむと思ひ入りて、
住みわびぬ今はかぎりと山里に
身をかくすべき宿もとめてむ
かくて、ものいたく病みて、死に入りたりければ、面に水そそぎなどしていき出でて、
わがうへに露ぞおくなる天の河
門わたる船の櫂のしづくか
となむ、いひていき出でたりける。
【現代語訳】
昔、ある男が、京での生活をどう思ったのか、洛中からは離れた東山に住もうと決めて、
京はもう住みづらくなってしまった。今はもうこの身の最後のときだと思って、山里に身を隠して過ごす庵を探してそこに住もう。
このように詠んで、ひどく思い悩んで、寝たきりになってしまったので、人々がその顔に水をかけてやるなどするとやっと息を吹き返して、
私の上に命の露がおかれたようです。天の河の水門を渡る舟の櫂のしずくだったのでしょうか。
このように詠んで息を吹き返したのでした。
【解釈・論考】
東山は、現在では瑠璃光院、圓光寺、東山慈照寺(銀閣寺)など美しい庭園を持つ寺社仏閣が立ち並ぶ場所ですが、伊勢物語の舞台となっているこの時代、それらはまだほとんどありませんでした。清水寺は宝亀九年(778年)建立とされ、坂上田村麻呂が本堂を寄進したという伝説も残されているのでこの当時はあったのでしょう。八坂神社(もともとの呼び名は祇園社)は、斉明天皇二年(656年)に建立されたという伝説がありますが、貞観十八年(876年)にお堂が建立されたことを始まりとする説もあり、判然としません。つまりこの時期の東山は平安京の都城の外、すなわち洛外であり、山寺もまばらな郊外の地であったことは確かであろうと考えられます。
さて、この話の男は何か思い悩むことがあって東山に隠棲したいと考えたようです。はじめの歌は『後撰集』雑一(1084)に業平の作として「住みわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿もとめてむ」と第四句だけ変わった形で収められています。社会の中で生きていると、どうしても摩擦があったり悲嘆に暮れることも多かろうと思います。何もこれは恋に限ったことではなく、人々のちょっとした言葉に容易く傷ついてしまうことがあるのが人間というもので、ましてやそれが繊細な心を持った詩人であるなら尚更です。
ですが、思い悩んで寝込んでしまった主人公を介抱してくれたのもまた、周囲の人間でした。二首目の「わがうへに…」の歌は『古今集』雑上(863)に詠み人知らずとして収められています。自分を蘇生させてくれた水を、天の河を渡る舟の櫂の雫かと思いましたと言っているわけで、人々が自分を助けてくれたという感謝の気持ちを星になぞらえて、この歌が口をついて出てきたのでしょう。最初の歌の厭世的な気分も人間味があり、二首目の歌もよりいっそう人間らしさがあって味わい深い並びであると思います。




