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第五十段 あだくらべ

【本文】

 むかし、男ありけり。うらむる人をうらみて、


 鳥の子を(とを)づつ十は重ぬとも

   思はぬ人を思ふものかは


といへりければ、


 朝露は消えのこりてもありぬべし

   誰かこの世をたのみはつべき


また、男、


 吹く風に去年(こぞ)の桜は散らずとも

   あなたのみがた人の心は


また、女、返し、


 ゆく水に数かくよりもはかなきは

   思はぬ人を思ふなりけり


また、男、


 ゆく水とすぐるよはひと散る花と

   いづれ待ててふことを聞くらむ


あだくらべかたみにしける、男、女の、忍びありきしけることなるべし。



【現代語訳】

 昔、ある男がいました。男のことを不誠実だと言って恨む女を逆に恨んで、


 鳥の卵を十個ずつ十回、つまり百個も重ねることはできませんが、たとえそんなことができたとしても、自分のことを好きとも思ってもくれない人のことなど好きだと思えません。


という歌を詠んだところ、女は次のような歌を詠みました。


 はかなく消えてしまう朝露であってもそれでもどこかに消え残っていることもあるでしょうが、それよりもさらに儚いこの世での貴方との仲など、誰が(たの)みとすることができるでしょうか。


また、男は次のような歌を詠みました。


 風が吹けば桜は散ってしまうものですが、その桜、しかも去年の桜が散らずに残っているという奇跡が起きたとしても、貴女の心だけは恃みとすることができません。


そして女は次のような歌を返しました。


 流れゆく河の水に数を書き留めるより無駄なことです。私のことを好きとも思ってくれない人のことを好きと思うことなど。


 そして男は次のような歌を詠みました。


 流れていく水と、過ぎていく齢と、散ってしまう花と、いずれも「待ってくれ」という言葉など聞いてはくれませんね。(人の心も同じです。この世に恃みとすることができるものなど、何もないのでしょう)


これは、お互いを信じ合うことができない男と女が、たがいに他の者と忍んで心を寄せていたことを素材とした贈答歌なのでしょう。


【解釈・論考】

 お互いに、あり得ないこと・起こるはずのないことを引き合いにして、相手の気持ちを信じることができないという歌を詠み合っている、という筋書きの話です。


 「鳥の子を(とを)づつ十は重ぬとも」の歌では、卵を百個重ねるということが「絶対にできないこと」の比喩として用いられています。これは、中国に古く伝わる「累卵の危うき」という言葉によったものと考えられています。積み上げられた卵がいつ崩れて割れてもおかしくないという意味で、いつ崩壊するともしれない危うい状態のことです。男の歌は「そんな危うげなことが、もし仮にできたとしても…」といったメッセージになっています。


 女の返歌の「朝露は消えのこりても…」の歌については、朝露は陽が昇るにつれて消えていくもので、儚いものの喩えによく使われます。その朝露を「消えのこりてもありぬべし」ということで、残ることだって確かにあるだろう、と表現しています。こちらも前の歌と同じように、「絶対にあり得ないことだけど、もし仮にあったところで…」という構成になっています。


 次の男の歌の「吹く風に去年の桜は散らずとも…」も分かりやすくこれまでの二首に倣った形です。風に吹かれても散らない桜があった、しかもそれは去年の桜だった、というのは現実にはまずあり得ない情景ですが、「そんなことがもし仮にあったとして…」という歌です。

 この歌は唐の詩人・白居易の詩集である『白氏文集(はくしもんじゅう)』の中の「(たとひ)旧年の花(こずえ)に残りて(のち)の春を待つとも、頼み難きは是れ人の心なり」という一文によったものと考えられます。


 この歌に対する女の返歌はそれまでの歌とは少し趣を変えて、「ゆく水に数かくよりもはかなきは…」と言っています。河の流れる水に数を書いても、それは形を成さずに流れて消えてしまうだけで、つまり儚いこと、無益なことの喩えとなっています。気持ちが通じない相手に対する恋心の儚さ、無益さを切々と訴えるように詠んでいます。

 『万葉集』巻十一の2433に「水の上に数かく如きわが命 (いも)にあはむとうけひつるかも」の類歌であると考えられてもいます。


 最後の男の歌は、「ゆく水に数かくよりも…」の歌から「水」、「朝露は消えのこりても…」の歌から「世」、「吹く風に去年の桜は…」の歌から「花」を取り出しています。この段の総括となるような歌で、人の心やこの世の景色の移ろいを儚いものと嘆く歌に昇華させています。


 末文は後世の注釈であるようで、「あだくらべ」とは浮気心の比べ合いと言った意味です。この段は前半の歌は恋の心のやり取りの難しさといった風味ですが、歌のかけ合いが進むにつれて世の中や人の心の諸行無常を描いた歌に変わっていくあたりが、歌物語としてたいそう面白味のある部分だと思います。

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