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第四段 月やあらぬ

【本文】

 むかし、ひむがしの五條に、大后の宮おはしましける、西の対に住む人ありけり。それを、本意にはあらでこころざし深かりける人、ゆきとぶらいけるを、正月の十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり。ありどころは聞けど、人のいき通ふべき所にもあらざりければ、なほ憂しと思ひつつなむありける。又の年の正月に、梅の花ざかりに、去年を恋ひていきて、立ちて見、居て見、見れど、去年に似るべくもあらず。うち泣きて、あばらなる板敷に、月のかたぶくまでふせりて、去年を思ひいでてよめる。


 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ

   わが身ひとつはもとの身にして


とよみて、夜のほのぼのと明くるに、泣く泣くかへりにけり。



【現代語訳】

 むかし、京の都の東の五条あたりに、天皇のお母さまにあたる人のお屋敷がありました。そのお屋敷の西の建物に、とある女性が住んでいらっしゃいました。その方のことを、ある男が、好きになってはいけない人だと頭では分かっていても好きになってしまい、人目を忍んで訪れていました。しかし、年が明けた正月に、女は別のところへと移動させられてしまいました。女の居場所を風の噂で知りましたが、普通の人が足を踏み入れることができる場所でもなく、男は一層つらい気持ちになりました。次の年の正月、梅の花の咲き誇る頃、男は女との出会いを重ねた屋敷が空き家になっていたので立ち寄ってみました。立ってみても、座ってみても去年の様子とはまったく違ってみえます。男は涙を流して、人もいなくなって障子なども取り払われた部屋の板敷に横になって、去年のことを思い出しながら歌を詠みました。


 月は去年の月と同じではないのか。春は去年の春と同じではないのか。私の身一つは元のままなのに。


このように詠んで、夜がほのぼのと明けたころ、泣く泣く帰っていったのです。



【解釈・論考】

 伊勢物語の中でもっとも好きな歌を一つ挙げてください、と言われたら僕は迷いなくこの「月やあらぬ」の歌を挙げます。この歌は名歌として古来より評価が高く、「古今和歌集」にも在原業平の歌として収められています。「古今和歌集」にもこの話と同じような内容のことが詞書として書かれています。ひょっとしたら、この話はかなり実話に近かったのかもしれません。それでは、まずはこの話の背景をみていきましょう。


 五条というのは、平安京を東西に通っている大路(地図でみると横道)の一つで、北から順に一条、二条、と呼ばれるものの5つ目です。「東の」とありますから左京ということになります。公家の邸宅がいくつか建てられていたであろうと推測されますが、第二段でもあった通り、遷都間もない頃なので、後年のような華やかな様子はまだみられないものと思われます。


 なお、これは余談になりますが、京というと寺院仏閣が多いような印象があるかと思われますが、この頃の平安京は桓武天皇の指示により、京の入口の東寺(とうじ)西寺(さいじ)のみに限られていました。平城京の時代、寺院勢力があまりに強くなったため、平安京では私寺の建立を一切禁止したのです。二寺は遷都二年ぐらいで建立されたようで、永らくランドマークとも言える存在でした。

 しかし、桓武天皇の指示も二百年程の歴史が経つとなし崩し的に効果がなくなり、その後は多くの寺院が建立されるようになりました。それでも洛中(平安京のエリア内部)は憚られ、法成寺(ほうじょうじ)法勝寺(ほっしょうじ)、仁和寺などは洛外といって平安京のエリアのぎりぎり外側に建立されました。法華宗の寺などが大っぴらに洛中に建立されるようになるのは室町時代以降のことです。


 さて、この話の冒頭で出てくる大后ですが、天皇の母、つまり皇太后のことを表します。この話では、文徳天皇の母、藤原順子(ふじわらののぶこ)(じゅんしとも)のことであるとされています。彼女の屋敷で、将来の天皇の傍にあがるため、藤原高子は教育を受けつつ暮らしていました。「西の対」というのは平安貴族の邸宅の様式である「寝殿造」の構造物の一つです。

 寝殿造は、屋敷の主人が来客と応対したり、居住したりする「寝殿」を中心として、東西あるいは北に「対の屋」という別棟が建てられています。南面には池や島を配置するというのが様式でした。東西の対の屋が必ずしも揃って建てられているという訳ではありませんが、「西の対」は屋敷の女性達の居住区であることが一般的であったようです。これは寝殿も同様ですが、建物の中に固定された間仕切りはなく、必要に応じて御簾(みす)を垂らしたり、あるいは屏風(びょうぶ)几帳(きちょう)などを立てて仕切っていたようです。


 このような屋敷で、大切に育てられている彼女に主人公は恋をします。実際のところ、在原業平と藤原氏は政治的にはライバル関係にありました。伊勢物語の時代とされる9世紀のこの頃、勢いを伸ばす藤原氏と、その勢いをおさえたい皇族や他の貴族という対立構造ができあがっていたのです。だからこそ、本文では「本意にはあらで……」、つまり「好きになってはいけない……」という気持ちが最初はあったのです。

 それでも互いに惹かれあった二人は逢瀬を重ねます。しかし、幸せな時間は長くは続きません。年が明けて正月になると、彼女はとうとう天皇の后となってしまいました。普通の人が足を踏み入れることができない場所、というのはそういう意味なのです。こうして2人の恋は悲しい終わりを迎えたのでした。

 なお、后というのはこの場合正確ではなく、正しくは女御と言いますがここでは分かりやすい表現として后と呼ぶことにします。


 ここで物語としてのあやふやさと、史実の人物を主人公に擬することの矛盾について留意しておきましょう。「むかし、男ありけり」とはじめることで、伊勢物語の作者はどんな時代とも、どこの誰とも指摘してはいません。これによって物語の虚構性が保証されているのです。しかしその一方で、伊勢物語の主人公が在原業平であることは暗黙のうちに了解されています。第三段のように「二条の后」と、史実の業平に関連する人物を名指しで表すこともあります。このように史実の人物のモチーフにしていることで、物語の解像度はぐっと上がります。読者は、「ああ、あの人なら確かにこういう言動をするだろうな」と納得しやすかったことでしょう。しかし反対に「これはあくまで物語の話です」という設定にすることで、実際は年齢差がある2人の間に恋愛関係があったということにするなど、話の内容に自由度をもたせているのです。歴史小説のような表現力であるともいえますね。


 さて、失意のうちに恋に破れた男は、次の年の正月、誰も住まなくなった五条の屋敷を再び訪れます。旧暦と今の暦とではおおよそ一ヵ月程のズレがあり、旧暦正月は今の二月頃に相当します。梅の花が見頃を迎えています。障子も外され、がらんどうになった屋敷の部屋で夜を過ごし、男は悲しみに満ち溢れた歌を詠むのです。

 下の句の「わが身ひとつはもとの身にして」は、すべてに置き去りにされたような男の嘆きの心が溢れてくるようです。春、梅の花は咲き誇り、月の光が照らす無人の屋敷で、男の慟哭だけが響いている情景は読者の涙を誘います。


 この段に続く、第五段、第六段は回想シーンのような構成になっています。

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