第三十九段 ともしけち
【本文】
むかし、西院の帝と申す帝おはしましけり。その帝のみこ、崇子と申すいまそかりけり。そのみこうせ給ひて、御葬の夜、その宮の隣なりける男、御葬見むとて、女車にあひ乗りて出でたりけり。いと久しう率ていで奉らず。うち泣きて止みぬべかりける間に、天の下の色ごのみ、源の至といふ人、これももの見るに、この車を女車と見て、寄りきて、とかくなまめくあひだに、かの至、螢をとりて女の車に入れたりけるを、車なりける人、「この螢のともす火にや見ゆらむ、ともし消ちなむずる」とて、乗れる男のよめる。
出でて去なばかぎりなるべみともしけち
年経ぬるかとなく声を聞け
かの至返し、
いとあはれなくぞ聞ゆるともしけち
消ゆるものとも我は知らずな
天の下の色ごのみの歌にては、なほぞありける。
至は順がおほぢなり。みこのほいなし。
【現代語訳】
昔、西院の帝と呼ばれた天皇がおられました。その天皇の皇女で、崇子という方がいらっしゃいました。その皇女さまが亡くなられて、御葬送の夜、その皇女の御殿の隣に住んでいた男が御葬送を見送ろうと、女と女性用の車に同乗して出かけたのだった。ずいぶんと長い間、柩車(柩を載せた車)は引かれて出てきませんでした。そのため、お別れを悲しんで泣くだけで見送りを諦めかけたとき、世間で有名な色好みの源至という人が、この人も御葬送を拝みにきていたのが、男(=主人公)と女が相乗りしている車を女の人が乗っている車だと思って近寄ってきて、何かと口説くようなそぶりをしてきました。そのうちに、その至は螢をつかまえて女の車に入れてきたので、車に乗っていた女は「この螢のともす光で私の姿が透けてみえてしまうかもしれません。だから消してしまいましょう」というので、同乗している男は女の歌として次のように詠み、至へやりました。
皇女の柩が出て行ってしまったら、それが皇女にとっては最後なのですから燈火を消して、皇女の命の儚さを嘆く声を静かに聞いていましょう。
それに対して、その至の返歌は次のようなものでした。
本当においたわしいことです。皆の泣く声もよく聞こえます。たとえ燈火を消したとしても、追慕の気持ちは消えるものとは私は知りません。(螢の光が消えて貴女の姿が見えなくても、私は貴女をお慕いしていますよ)
至は天下に聞こえた色好みの男ですが、そうした男の歌としては今ひとつなものでした。
この至は、(歌および詩文で有名な)源順の祖父ですが、こんな気持ちでの葬送は、皇女にとっても不本意なものだったことでしょう。
【解釈・論考】
西院の帝というのは淳和天皇のことです。崇子というのは二条后(藤原高子)ではなく、この淳和天皇の皇女である崇子内親王です。彼女は十九歳でお亡くなりになりました。在原業平にとっては父・阿保親王の従妹、すなわち従妹叔母という関係にあたる人でした。
宮中の女官などが乗る牛車で、男性用のものよりやや小ぶりで、御簾の下から下簾を垂らしているのが特徴でした。また、下簾を垂らしたうえでさらに御簾の下から女性の装束の袖や裾を少し垂らして飾りにしたものを「出車」と呼びました。この段の話で男が女性用の車に女と同乗した理由は不明ですが、おそらくその方が都合がいい事情があったのでしょう。そこに源至という人がアプローチをかけにきます。
源至は『尊卑分脈』によれば嵯峨天皇の孫にあたり、亡くなった崇子内親王はやはり従妹叔母にあたる人でした。在原業平とも遠い縁戚関係にあります。そんな彼は御葬送のときだというのに女車にちょっかいをかけ、あまつさえ螢を車の中に入れるということをしでかします。これが平時であれば風流なアプローチだったと言えたかもしれませんが、TPOを弁えない人というのは今も昔も周囲には受け入れられません。
これに対し男が同乗の女に成りかわって詠んだ歌は、落ち着いていて時宜に適ったものでした。螢の光を燈火にたとえたのは、『法華経』巻第五安楽行品でお釈迦さまが亡くなったことを「…烟尽きて灯滅するが如し」と表していることを踏まえたものでした。「年経ぬるかと」というのは十九歳の若さで亡くなられた皇女のことを人々が悼み、静かに悲しみにくれていることを表しています。
それに対する返歌の「消ゆるものとも我は知らずな」というのは、これも『法華経』方便品にある「我、涅槃を説くといえども、これまた真の滅にあらず(私はこれが死んでしまうが、それは真の消滅というわけではないのですよ)」という説諭を踏まえたものでしょう。ただ、よりにもよって御葬送のその時に、お釈迦さまの教えを都合よく解釈して女の人を口説こうとする振舞いは上品とは言えないでしょう。
なお、源至という人が、歴史上本当に色好みだったという記録は見当たらないようです。伊勢物語の中での虚構かもしれません。




