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第三十三段 こもり江に思ふ心

【本文】

 むかし、男、津の国、菟原(むばら)の郡に通ひける女、このたび行きては、または来じと思へるけしきなれば、男、


 蘆辺よりみち来る潮のいやましに

   君に心を思ひますかな


返し、


 こもり江に思ふ心をいかでかは

   舟さす棹のさして知るべき


田舎人のことにしては、よしや、あしや。



【現代語訳】

 昔、ある男が、摂津国の菟原(うはら)のあたり(今の兵庫県芦屋付近)に通っている女がいたのでした。その女は、今度男が帰ってしまったら二度と自分のところへは来ないのではないかと思っている様子だったので、男は、次のような歌を詠んでやりました。


 (あし)の生えている岸辺から潮が満ちてくるように、貴女への想いがつのるばかりです。


女からの返歌は次のようなものでした。


 人目につかない入り江のように人知れず貴方を想う心の深さを、舟の棹で推し量ることができるでしょうか。(どれほど私が貴方のことを想っているかなんて、分からないでしょう)


田舎の者の歌としては上出来でしょうか、それともやはり不出来でしょうか。



【解釈・論考】

 摂津国の菟原(うはら)郡には在原業平の父・阿保親王の領地があったそうです。現在の六甲アイランドのあたりで、海にほど近い穏やかな景勝地です。「(あし)」は「(よし)」とも書き、イネ科の多年草です。湿地帯や河岸に群生することが多く、海岸に生えることもあります。現在の芦屋という地名の由来ともなったように、菟原(うはら)には清水が流れ、蘆が広がる湿地帯だったそうです。


 歌をみていきましょう。一首目、男の歌は蘆の広がる地域の特徴をとらえた上で、満ち潮の情景に女への愛情を重ねて表現しました。場面の情景の中に自分の心象を詠み込む歌いぶりによって、さり気なく感動を呼び起こされます。このような歌を受け取った側は、その情景を目にするたびに歌の贈り主のことを思い起こすことができるでしょう。

 これに対する女の返歌もまた、場面の情景をとらえて自分の気持ちを詠み込んでいます。男の歌に劣らぬ秀歌で、男と離れる不安な気持ちを伝えてくれます。


 段の末文はこの話に限っては、伊勢物語特有の価値観である「(ひな)び」や「田舎人」に対する冷ややかさという訳ではないようです。二首はいずれも情景美、抒情性が豊かであるとともに、序言・比喩など技巧も見事であるからです。これに関しては「よしや、あしや」を、物語のキーワードである「葦」「蘆」とつなげる、いわば遊び心のようなもので、この文があることでこの段の終わり方が暗くなりすぎないのだと思われます。(女の歌だけで終わってしまうと暗い印象になってしまいそうです)

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