第二十七段 水の下にも
【本文】
むかし、男、女のもとにひと夜いきて、またも行かずなりにければ、女の、手洗ふ所に貫簀をうちやりて、たらひのかげに見えけるを、みづから、
我ばかりもの思ふ人はまたもあらじ
と思へば水の下にもありけり
とよむを、来ざりける男、立ち聞きて、
水口に我や見ゆらむ蛙さへ
水の下にて諸声になく
【現代語訳】
昔、ある男が、ある女と一夜だけ過ごし、その後は通うことはありませんでした。女は手洗い所の簀子を取りのけて、自分の姿がたらいの水に映って見えたのを、独り言のように、
今の私ほど、もの思いに沈んでいる人はいないでしょう、と思っていたら水の中にももう一人いましたよ。
と詠んだのを、通ってこなかった男が立ち聞いて、
水の中の私(男)のことが見えましたか。蛙さえ水の下で声を合わせて鳴くのです。私も貴女と声を合わせて、逢えないことを悲しみ鳴いているのですよ。
【解釈・論考】
貫簀(ぬきす)というのは水のはねかえりを防ぐ簀子(すのこ)です。
平安貴族の女性ですから、手を洗うための水は下仕えの者がたらいに入れて運んできました。その水のはねかえりを防ぐために貫簀が被せられていたようです。
歌については、女の歌は下の句の「と思へば…」という続け方が歌にリズムをつけています。寂しさの表現の上の句と、「と思へば…」と逆接で続く下の句はさらに寂し気であるという意外性がこの歌の余韻を広げているように思われます。
男の歌は、女の歌に呼応してはいますが、主人公の男が、歌の主体に蛙をもってきているのは珍しいですね。これは「諸声に」を導きたかっただけでしょうか。何か他に寓意もあるのかもしれません。調査・考察を更に深めてみたいところです。




