第十五段 えびす心
【本文】
むかし、みちの国にて、なでふ事もなき人の妻に通ひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、
しのぶ山しのびて通ふ道もがな
人の心のおくも見るべく
女かぎりなくめでたしと思へど、さるさがなきえびすこころを見ては、いかがはせむは。
【現代語訳】
昔、陸奥国で、格別な取柄もないような人妻に男が通っていましたが、不思議と、そのような京から遠い田舎にいるような女ではないはずだと思えたので、次の歌を送ったのでした。
この近くの信夫山の名のように、人目を忍んでこっそり通う道が欲しいものです。貴女の心のうちを見ることができるように。
女は、このうえもなく素晴らしいと喜んだが、男は(人妻でありながら他の男を通わせ、その男が関心を寄せて評価していると見るとすぐ喜ぶような)そんな見苦しい田舎者のこころを見ては、どうということもない者なのだろうと思ったのでした。
【解釈・論考】
第十四段とは逆に、京の男が鄙(いなか)の女に興味を持つ、という筋書きです。気になる女に歌を贈ってみて、その反応をみてがっかりした、というのが大まかな流れです。歌を贈って反応をみるというのは、現代で言えば簡単なメッセージのやり取りくらいに相当するでしょう。
この男は勝手に好意をもって、勝手にアプローチして、勝手に幻滅している、といえばそれまでなのですが、この話からは伊勢物語における振舞いの美的感覚のようなものが窺えます。ここで女の方も「しのぶ山」をうまく使って忍ぶ恋心を表した歌でも詠んでいたなら、それはみやびな振舞いということで男もいっそう惚れ込んだのかもしれません。
第十四段、第十五段の物語文の書きぶりを通してみると、陸奥の国の女の人に対する作者の目線は、武蔵の女の人に対するそれよりも冷ややかであるように思われます。陸奥の女たちは言ってしまえば純朴で恋に対して一途で、恋の気持ちを隠すことなどできません。僕はそこが彼女達の良さだと思うのですが、伊勢物語の価値観ではそれは「みやび」ではないのです。恋の心も、美しく飾る工夫が必要なのです。その工夫を凝らさずに生の情熱そのものをぶつけることは京人にとっては粗野にみえたようです。
この段をもって第七段からの男の東国の旅路の話は終わりとなります。第十六段からは様々な人との関わり合いが描かれる段が続きますが、多彩な人間関係を数々の秀歌が彩っていきます。




