第九段(一) 東下り かきつばた
【本文】
むかし、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、東のかたに住むべき国求めに、とてゆきけり。もとより友とする人、ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくてまどひいきけり。三河の国、八橋といふところにいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木のかげに下り居て、かれいひ食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句のかみにすゑて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
唐衣きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人かれいひの上に涙落してほとびにけり。
【現代語訳】
昔、ある男がいました。その男は、自分など要らない者なのだと思い、住み慣れた京の都を離れ、東国へ行こうと思って旅立ちました。もともと友達だった者たち1、2人と共に行ったのでした。道を知っている者もおらず、迷いながらの旅でした。三河の国の八橋というところまで着きました。その地名の由来は、河がまるで蜘蛛の巣のように流れており、橋が八つも架かっていることから八橋と呼んだそうです。その沢のほとりの木の陰て一行は弁当を食べることにしました。その沢には、杜若が大変美しく咲いていました。それを見て、仲間の一人が「かきつばた、という五文字を句の頭において、旅の心の歌を呼んでみましょう」と言い出しました。そこで、
着なれた唐衣のように長い間連れ添った妻を都に残してきました。彼女のことを思い出すと、はるばる遠いところまで旅をしてきてしまったなぁ、と思われます。
と詠んだところ、みんな涙をこぼし、お弁当が(涙で)ふやけてしまいました。
【解釈・論考】
とても有名な段です。この段は国語の教科書にも載っていることが多く、ご存知の方も多いのではないでしょうか。失恋によって心傷ついた主人公は京の都を離れ、旅に出ます。この気持ちは現代人である僕たちも割合と共感しやすいように思います。そりゃあ、失恋しちゃったとき好きな人との思い出がいっぱい残る場所からはいったん遠く離れたくもなるでしょうよ。その旅に出るにあたって友達が一人二人一緒についてきてくれるというあたり、主人公の人柄というか、人間関係が伺えて微笑ましくも思います。旅、と一口に言っても当時は交通インフラも治安も現代とは比べ物にならないほど整っていないので、平たく言って大冒険です。一年以上帰ってこれないというのもザラです。それについてきてくれるというのは並々ならぬ覚悟のいることです。そんな友達がいる、というのは大変ありがたいことだと思います。伊勢物語は、この段以外にも友達について叙述している段がいくつかあり、主人公と友達との互いの優しい心映えがみえてきます。
そんな風にして集まった旅の仲間ですが、まぁ、彼らも貴族ですからね。都から出たことなんてほとんどないのでしょう。「道知れる人もなくてまどひいきけり」ときました。あまりにも行き当たりばったり。本当に失恋の勢いだけで出てきちゃったんだな、と思える一文です。
そんなこんなしつつ、三河の国の八橋というところに到着します。これは愛知県知立市あたりです。そこは河が蜘蛛の巣のように多く流れて、八つの橋が架かっているから八橋というとのこと。旅雑誌の名所紹介のような一文ですが、そこから水が豊かな湿地帯であるところ、すなわち水を好む杜若が群生している場所であることが連想できる訳です。また、杜若が咲くのは5~6月頃ですから、初夏の頃であるということまで場面が確定します。雨が降っているという言及はないので天気はそれなりに良いのでしょう。良い天気の中、ちょっと疲れを癒すため木陰でみんなでお弁当を食べていると、杜若が綺麗に咲き誇っている。そんな光景をみたら「じゃあ、あの花を盛り込んで、今の気持ちを歌にしてみようよ」と誰かが言うのも分かる気がします。
ここで詠まれた歌はあまりに有名なので解説はそんなに多くは必要ないでしょう。ただ一首の歌であるとしてみても言葉の調べが優しく、妻を懐かしむ気持ち、旅を続けるある種の寂しさの心が溢れるような歌です。その上、それぞれの句の頭文字に「かきつはた」の文字が込められているのです。このように名詞を表す文字を各句の先頭に使う、という制約を設けて歌を作る技巧を「折句」と呼びます。
この歌について、僕たちは「かきつばた」の「は」に濁点がないことに気がつきます。第四句の頭で「は」に濁点がついていたら「ばるばるきぬる」となってしまいますね。古文書などをみているとこの頃は文字表記として濁点は確立していなかったようです。
このように文学的にも考古学的にも興味深い視点の多い杜若の歌のエピソードですが、ここでの話のお終いに豆知識を一つご紹介しましょう。花札の五月の札ですが、その10点札の絵柄は「八橋と杜若」。伊勢物語のこのエピソードをモチーフとしているのです。
一行はさらに東に進みます。引き続き第九段を読み解きます。




