5. 朝のひととき
ある日の朝。
「おはよう、萌々香」
「おはよう……眠い」
焼きたてのトーストにバターの匂い。ハムをのせて食べるのがお気に入りだ。
お母さんの自家製ヨーグルトをスプーンで取っていると、2階からドタバタと音がした。
「やば、今日ペットボトルいるんだったー!」
「ちょっと結翔、そういうのはもっと早く言ってよ」
お母さんが慌てて空のペットボトルを持ってくる。
「おはよう」とお父さんもリビングにきた。
コーヒーを淹れて、お母さんに寄り添っている。相変わらず仲が良い両親だ。
2人で顔を見合わせてふふっと笑っている。何がそんなに面白いのかは、私にはわからない。
「今日は家で集中できる日だな」
「そうね。たまってる仕事を片付けないと」
「……けどさ、ちょっと休憩してもいいんじゃないか?」
「え? もう……」
家で仕事していると、自分たちのペースでできるのかな。お父さんもお母さんも忙しそうだけど、こうして2人で笑い合っていることも多い。
やっぱりそういうの、ちょっとくすぐったいけど……平和だからいっか。
「姉ちゃん」
「なに? 結翔」
結翔は両親を見ながらトーストにかじりついている。
「うちの親って変わってるんだって」
「え?」
「俺は見慣れてるけど、あんなに親ってくっつかないらしい」
思わずヨーグルトを吹き出しそうになる。
「……まさか、誰かに言ったの?」
「家族の作文書けって言われたから書いたんだけどさ、みんなびっくりしてた」
――だよね。
私たち子どもの前でも2人で喋ってるんだもの。というか、仕事中もそれ以外も一緒だなんて飽きないのかな。
「私も家族の作文書いた時、驚かれた。わかってたらちょっと誤魔化して書いたのに」
「あら、結翔の作文見てみたいわ」とお母さんが言う。
「俺の作文、職員室前に貼り出されたし」
「すごいじゃないの!」
それは恥ずかしいだろうな。
うちの家庭の様子がみんなに知れ渡るなんて。
お父さんもお母さんも、何とも思ってなさそうだ。
けれど、2人のおかげでいつも我が家はあたたかい。
お母さんが笑っていて、お父さんが見守ってくれて。
いつか私もそんな家庭を……ってまだ早いし。
ああいう夫婦を見てきたせいか、私は“幸せ”のハードルが高くなってる気がする。
ちょっと頬を赤らめた私は、さっと食器をキッチンに運んで学校に行く準備をする。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
※※※
(若松くん視点)
「おはよう」
「おはよう、夏樹。適当に食べていってね」
朝、家の空気は静かだった。でも静かすぎる家って、少し苦しい。
母さんは洗濯物を畳んで、大きめのトートバッグに入れている。
今日も――あやめのところに行くんだろうな。
「……今日からお薬が入るのよ。本格的な治療ね」
「ふぅん……苦しいの?」
「そうだと思う」
俺には3つ歳の離れた妹、あやめがいる。あやめは年明けに病気を告知され、3週間ほど入院した。その後も通院を続けて、また最近入院している。
難しい病気で対応してくれる病院が遠くにしかなかったので、新学期のタイミングでこの地域に引っ越してきた。
父さんは単身赴任中なので、母さんが妹のことで手一杯になっている。夜遅くにひとりでため息をついているところを見ると、何もできない自分が悔しかった。
母さんには疲れも見えるし、少し痩せたかもしれない。俺も協力したいけど、母さんは「夏樹は学校を優先しなさい」と言ってくれる。
けれど俺だってあやめのことが心配だ。
妹のことを考えると、いつのまにか時間が経っていることがある。
あやめは小さい頃から音楽が好きで、フルート教室に通っていた。なかなか最初は吹けないらしいけれど、あやめはすぐに吹けるようになった。
発表会では、ワンピースを着て綺麗な音色を奏でる姿にじんと来たものだ。
もうあやめがフルートを吹くのを見られないかもしれない。そう思っていた俺は、春休み中にある女子と出会う。
母さんと新しい中学校に行ったときに、どこかからフルートの音色が聞こえたのだ。
「母さん、先帰ってて」と言い、夢中でその音を追った。
すると中庭に、フルートを吹くひとりの女子を見つけた。
「綺麗なフルートの音だな」
「う……うん。ありがとう」
そう言って少し笑う彼女が――あやめと重なった。
まるで、妹の将来を見ているようだ。
失いそうな未来が、そこにあった。
きっとあやめは、中学生になったら彼女みたいにフルートを演奏できる。そう思えるようになった。
その後、彼女――竹宮さんと同じクラスになり、俺は気づけば彼女を目で追うようになった。
妹のことが心配だったけど、竹宮さんを見れば大丈夫な気がしていた。何となく彼女の力になりたいとも考えていた。妹に似ているからだと思う……たぶん。
そんなある日、校外学習で寺に行ったときのこと。妹のために健康祈願のお守りを買おうとしたけれど、急に不安になってしまった。
このお守りを買っても……状況は変わらないのかもって思ってた。
けれど竹宮さんは違った。
「私は、お守りを信じる。まず自分が信じないと始まらないと思うし」
そう言った彼女は俺なんかよりもしっかりしていて、頼もしく感じた。竹宮さんに背中を押してもらった気がした。
その後おみくじを引いたけど、俺の結果は末吉。
『病気:むつかし。信心の力によりてなおる』
むつかし、という言葉が俺の心をえぐるようだ。
仕方なくおみくじを結ぶと、竹宮さんがふいに言った。
「この吉、若松くんにあげる」
彼女がおみくじを差し出す。受け取ると指がじんとあたたかくなった。
すぐに、病気の欄を確認する。
『病気:治る。信心せよ』
――ホッとした。
おみくじって自分のことだとは思うけど、俺はまず妹のことを考えていた。
「ありがとう、竹宮さん。これ、お守りにする」
「お守り……2つになったね」
「ほんとだ」
健康祈願のお守りは母さんに妹に届けてもらい、おみくじの方は……デスクマットに挟んである。
これを見ると、竹宮さんが応援してくれているようで元気が出てくる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
今日もよく晴れていて風が気持ちいい。
俺は少し急ぎ足で学校まで歩いて行った。
いつか、あやめにもこの風が届きますように。




