第9話ー青の境界線ー
朝。
調律室の壁を、瓶の影が静かに移ろっていく。
外の光を受けて、色の雫が床に散る。
青、橙、白、紫──いくつもの呼吸が、
目に見えない音を立てていた。
リオルは目を閉じる。
静けさの奥で、かすかな乱れを聴く。
それはこの部屋の音ではない。
もっと遠く、街の向こうから流れてくる。
ふたつの音。
重なり、離れ、また重なる。
その響きの奥に、深い青のゆらぎがあった。
「……親子の音…。」
悲のエモリアが、揺れていた。
けれどその揺らぎは、沈みきることなく、
どこかあたたかい。
まるで冷たい水の底で、小さな光が呼吸をしているようだった。
⸻
昼。
午前の調律を終え、リオルは筆を取った。
趣味の絵だ。
小さなキャンバスに、淡い群青を塗り重ねていく。
海と空。
どちらも同じ青なのに、
少しずつ色が違う。
海は動き、空は受け止める。
互いを映し合いながら、
どちらも一方だけでは存在できない。
筆を止め、少し離れて眺める。
境目を見つめても、
どちらの青もどこにも終わっていなかった。
ふと、窓の外から鳴き声がした。
細い路地の陽だまりに、
母猫と子猫が寄り添っていた。
母は、子の毛並みに残った砂を舐めて落とす。
その舌の動きは、どこかぎこちない。
子猫は一度だけ身をよじって、
それでも逃げずに、母の前足のあいだで丸くなった。
風が通り抜け、
影が二つ、重なって揺れた。
母はその背に顔を寄せ、
ほんのわずかに目を閉じる。
――何も言わなくても、
ぬくもりは伝わるのかもしれない。
リオルは窓辺で、
遠くの“悲”がやわらいでいくのを感じた。
「悲は、癒すものじゃない。
無理に明るくしようとすれば、
色が壊れる。
光があるなら、影はどうしても生まれてしまう。
でも、影があるからこそ、
光のあたたかさを知るのだ。」
母猫が小さく鳴き、
子猫がその声に息を合わせる。
風の中で、瓶の封音が
微かに響いた。
⸻
夜。
風が再び調律室に入ってきた。
瓶たちがかすかに触れ合い、封音が鳴る。
その音は、遠い場所から返ってくる
親子の呼吸とよく似ていた。
「……いい音だ。」
リオルは手の中の瓶を見つめる。
その青は、もう冷たくなかった。
流れ出した悲が、
夜の底でやさしく脈打っていた。
✴︎リオルの独り言✴︎
銀の環を手に取ると、
少しだけ体温がうつる。
冷たい金属なのに、
長く使っているせいか、
まるで生きもののように応えてくれるときがある。
この輪は、感情を抜き取るためのものじゃない。
誰かの心に触れるとき、
どこまで近づいていいかを教えてくれる。
無理に踏みこめば、
相手の色を壊してしまう。
けれど、ただ見ているだけでは、
何も届かない。
そのあいだを測るのが、この銀の環だ。
私は、触れることを恐れず、
それでも敬意を失わないようにと願いながら、
この輪を胸の前にかざす。
⸻
✴︎用語解説✴︎
【No.9】銀の環/封環
調律士が感情の雲〈エモリア〉を
“抽出”する際に使う小さな銀色の輪。
銀の環は、感情を吸い上げる力そのものではなく、
心の内側と外側を一瞬だけつなぐ通路。
調律士は環を通してエモリアを瓶に導き、
抽出が終わると輪を閉じて心の境界を戻す。
リオルの環はとくに繊細で、
扱う者の呼吸ひとつで音の色が変わるといわれている。




