第8話ー青を抱いてー
ノアの母親視点です。
朝の光は、
いつだって少し残酷だ。
夜に置き忘れたものを、
容赦なく照らしてしまうから。
台所の窓辺で、私は湯を沸かしていた。
湯気が立ちのぼると、ガラスが白く曇る。
曇った向こうに、
通りのシンボルツリーが小さく見えた。
瓶はもう光ではなく、ただの形に戻っている。
夜が終わった、という印に見えた。
「おはよう、母さん。」
ふいに背中へ声が届いた。
ノアの声。いつもより、半拍だけ明るい。
胸の中で何かがほどける音がした。
ほっとして、笑いがこぼれる。
「……おはよう、ノア。」
その一言に、昨夜のひび割れを
そっと包む布を重ねるような感覚があった。
でも、湯気が消えるとき、
私の笑顔も一緒に薄くなる。
あの子の笑顔が、
私を安心させるためのものだと、
どこかで気づいてしまうからだ。
ノアが椅子に座る。
スプーンが器のふちで小さく鳴る。
その音が愛おしくて、少し怖い。
音も色も、家から減っていくのを、
私はずっと前から知っている。
減らしたのは、たぶん私だ。
⸻
午前の光が傾くまで、私は針をもっていた。
布地は薄い空色。柔らかくて、頼りない。
糸を通すたび、指先が少しだけ震える。
針孔に糸が入っていく瞬間、
息を止める癖はなおらない。
ふと、あの日の言葉が、胸の底から浮かんだ。
――
「大丈夫よ。
いい子にしていればまた仲良くできるわ。
怒ったり泣いたりしたら、
みんな困ってしまうでしょう?」
言ったのは私だ。
あの時のノアは、頬に砂をつけて帰ってきた。
手の甲は赤く、目はうるんでいた。
「けんかした」と小さく言ったきり、
口を閉ざしていた。
私は、あの子の手を取ろうとして、やめた。
その瞬間、胸のなかで別の夜が蘇ったのだ。
夫がいなくなった夜。
泣き疲れた私に、
もう誰も「大丈夫」と
言ってはくれないと知った日のこと。
泣けば誰かが困る、泣けば何かが壊れる。
そう教え込んだのは、
世界ではなく、私自身だった。
だから私は、
ノアに言い聞かせるふりをして、
自分に言い聞かせた。
泣かないで。怒らないで。
いい子でいれば、世界は壊れない。
……本当は、私が壊れないでいられるように。
あのときのノアの目を、忘れられない。
言葉があの子の涙を止めただけでなく、
心の動きまで止めてしまったのを、私は見た。
見たのに、何も言い直せなかった。
ただ、「そう、いい子」と微笑んだ。
それが、愛だと信じたかった。
針先が布の下に消え、また現れる。
縫い目は静かに揃っていくのに、
胸の中の縫い目は、どうしても合わさらない。
⸻
昼下がりの風が、カーテンを小さく揺らした。
あの日のことを、今でも思い出せる。
夫の葬儀から数日後の午後――
戸を叩く音がした。
扉を開けると、
黒い上着をまとった人物が立っていた。
髪は黒髪のように見えたが、
光を受けると、
灰にも銀にも揺らぐように見えた。
年も性別もわからない。
ただ、その瞳だけが、
静かにすべてを映しているようだった。
調律士――リオル。
「突然すみません。
近所の方から、
ご様子を見てほしいと頼まれまして。」
その声は柔らかく、それでいて、
どこか静かな湖の底のように揺れがなかった。
「エモリアの調子を、
少しだけ見させてください。」
リオルは透視鏡を傾け、
胸の前に淡い光を通した。
部屋の空気が、かすかに澄んでいく。
私は息を止めた。
この人は、私の見てはいけないものまで
見てしまう気がした。
「エモリアの流れが、少し滞っていますね。」
慰めでも叱責でもない声。
ただ、事実を受け止める響き。
リオルは鞄から一枚の小さなカードを取り出した。
白い紙に、金の文字が淡く光る。
〈エモリアの調律のご案内〉
「……無理に来なくてもいいですよ。
ただ、人に話すことで、
エモリアが流れやすくなることも
あるかもしれません。」
そう言って深く頭を下げ、
香のような淡い匂いを残して帰っていった。
扉が閉まると、家はまた静かになった。
カードの端を握る指が、小さく震えていた。
――話したい。
でも、どうしても声にならなかった。
あのときの私には、
“人に話す”ということが、
夫への裏切りのように思えていた。
「あなたがいなくなったせいで不幸になった」
と言っているような気がしたのだ。
だから、私は黙ることを選んだ。
黙っていれば、
あの人を責めずに済む。
黙っていれば、
悲しみは形を持たないままでいてくれる。
……でも、
その沈黙こそが、
少しずつ私の中で“悲”を
冷たくしていったのだと、
今なら分かる。
⸻
夜。
ノアが眠ったあと、
針の音だけが部屋を満たしていた。
糸が進むたびに、灯がわずかに揺れる。
その光の中で、私は小さくつぶやいた。
「……泣くのが怖いのは、きっと私も同じね。」
声に出すと、空気がほんの少し軽くなった。
泣くことをやめたのは母としてではなく、
泣いている自分を見るのが怖かった、
一人の女としての私だ。
そのことを認めるのに、
こんなにも長い時間がかかった。
私は立ち上がり、ノアの部屋の戸をそっと開けた。
寝息が、規則正しく続いている。
月明かりが、シーツの端に細い線を描いている。
その線を指でなぞる代わりに、私は目を閉じた。
「ノア、せめて素敵な夢を見れますように。」
祈りは、誰に届くのだろう。
空か、瓶か、あるいは、あの子自身の中へか。
戸を閉めると、家はまた静かになった。
静けさは、悪ではない。
けれど、音が消えたままでは、きっと長くはもたない。
私はいつか、あの子の前で泣くのだろうか。
泣ける日が来たら、あの子も泣けるようになるのだろうか。
私は灯を消した。
暗闇に目が慣れると、窓の向こうの空が、
夜明け前の色へと、
ゆっくり変わり始めているのが分かった。
青が少し薄くなる。
世界は、少しずつ、呼吸を思い出す。
針箱を閉じる音が、小さく響いた。
私は両手を胸の前で重ね、深く息を吸った。
昔の天真爛漫だったノアを
取り戻してほしいと願っている自分がいる。
私の中の青は、まだ深まっていくばかり。
けれど、変わらなければ、と、今夜ははっきり思った。
青のあとで、夜はほどける。
ほどけた糸は、また結べる。
私はもう一度、息を整えた。
明日の朝も、
きっと「おはよう」と言えるように。
そしていつか、
「泣いてもいいのよ」と言えるように。
私はノアとすがるように調律師のもとを尋ねた
✴︎リオルの独り言✴︎
調律室は、音のない場所である。
けれど、静寂ではない。
人の声が届かなくなった心の音を、
もう一度、聴き取るための場所だ。
ここには、正しい答えも、決まった薬もない。
瓶の中の色がどんなに濁っていても、
それはその人が生きてきた証だから。
私はただ、
その色が動けるように、少しだけ手を添える。
悲も、怒りも、嬉しさも、
すべてが呼吸を取り戻せば、
心はそれだけで自分の形を思い出す。
エモリアは、流れの生き物だ。
止めるより、流れる道を見つけてあげる方がいい。
だから私は今日も、瓶を並べて光を待つ。
誰かの色がまた動き出す、
その瞬間を――見届けるために。
⸻
✴︎用語解説✴︎
【No.8】リオルの調律室
感情の雲〈エモリア〉の流れを整えるための部屋。
街の中央区・還雲樹の南側に位置し、
白い外壁と、窓辺に吊るされた数百の小瓶が目印。
調律士リオルがひとりで運営しており、
透視鏡で来訪者のエモリアの比率を読み取り、
必要に応じて調律を行う。




