第5話ーからっぽの瓶ー
ノア視点です。
光は、静かだった。
明るいのに、音がしない。
僕の世界では、音がすぐ消える。
風の音も、誰かの声も、
耳の奥で淡くほどけていく。
母の手が、僕の肩を押した。
「ノア、行くわよ。先生にご挨拶してね。」
その声は、いつものように穏やかだった。
穏やかで、逃げ場がなかった。
扉が開く。
小さな鈴の音が、
この世界で唯一“形を持つ音”だった。
中は、瓶の光で満ちていた。
淡い色が空気の中に浮かんでいる。
青、橙、緑――
それらは僕にとって、
ただの「明るさの濃淡」でしかなかった。
先生は、ゆっくりと微笑んで僕を見た。
その目はどこか懐かしいのに、
知らない色をしていた。
「……痛みや涙を感じないのですね?」
その声は、
水の底から聞こえるみたいに遠かった。
母が代わりに答える。
「ええ。泣かないし、怒らない。
いつも静かで、いい子なんです。
私が悪いんです。
最近は……この子の目が、からっぽの瓶みたいで。」
“いい子”。
その言葉が胸に刺さった。
痛いのか、熱いのかも分からない。
母が笑うとき、僕も笑った。
母が悲しむとき、僕も悲しい顔をする。
それが僕の“いい子”の仕方だった。
けれど、
どんな笑顔をしても、母の目はいつも少し遠かった。
僕の中に、
光のようなものがゆっくり消えていくのを感じた。
先生が透視鏡を掲げた。
橙の光が、
僕の目に映り込む。
一瞬だけ、
胸の奥がきゅっと痛んだ。
その痛みの理由は分からなかった。
ずっと忘れていた痛みが、
そっと呼吸を始めた気がした。
「眠っている光は、いつか目を覚ます。」
言葉の意味は分からなかった。
けれど、
その響きだけが、心の奥に灯のように残った。
✴︎リオルの独り言✴︎
瓶は、満たすためのものではない。
満ちた心は、すぐに溢れてしまう。
空いた場所があるからこそ、
新しい色が息づく余地が生まれる。
人はその余白の中で、
何かを受け取り、何かを手放す。
瓶の“空いた部分”は必ず必要で。
そこにこそ、心が生きる余地があるからだ。
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✴︎用語解説✴︎
【No.3】瓶
エモリアを封じ、保存するための器。
調律士はこの瓶を介して人の内側に流れる
エモリアの“色と音”を読み取る。
空の瓶は「まだ名を持たぬ感情」や
「再生の余白」を意味し、
昔の人は、“心を整える器”と呼んでいた。




