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Emoria-雲を空に返す夜に  作者: ume.


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第41話ー祈りの余白ー

朝の光が、ルベルの街に戻ってきていた。


それは特別に眩しいわけでも、

祝福めいた色を帯びているわけでもない。

けれど昨日までとは違い、

確かに“奥まで届く光”だった。


夜の名残を溶かすように、

屋根の影がゆっくりと後退していく。

窓が開き、戸が軋み、

人の生活音が、慎重に息を吹き返していく。


風車は一定のリズムで回り、

川面はきらきらと揺れている。

市場には香草を刻む音が戻り、

焼き魚の匂いが風に乗って流れた。


昨日まで、この匂いは届かなかった。

鼻先で止まり、

胸の奥へ入ってこなかった。


今日は違う。


街は、もう呼吸していた。


通りを行き交う人々の足取りも、

どこか慎重さを残しながら、確かに軽い。

誰かが笑えば、すぐ隣で応える声がある。

昨日まで途切れていた“やりとり”が、

少しずつ、街のあちこちで編み直されていく。


それは劇的な変化ではない。

だが、失われかけていた日常が

自分の居場所へ戻ってくる感覚は、

静かで、確実だった。



路地の端で、ミーナが立っていた。


まだ顔色は薄く、

足取りも慎重だったが、

彼女はひとりで歩いていた。


壁に手を添えず、

誰かに支えられることもなく。


「ねえ」


レディウスに気づくと、

彼女は小さく手を振る。


その仕草に、ためらいがない。


「昨日の夜ね、夢を見たの」


空を見上げる仕草は、

もう怯えを含んでいない。


「川みたいな光があって……

 流れていくのを、見送ったの」


言葉を探すように、

一度だけ視線を落とす。


「こわくなかった。

 ……ちゃんと、行くべきところへ

 行ったんだって、わかったから」


胸に手を当て、

深く息を吸う。


その動きは、

街と同じ呼吸だった。


呼吸が、止まらない。

戻ってこない不安がない。


ミーナは一瞬だけ目を伏せ、

それから照れたように笑った。


「だからね……

 今朝は、自分でパンを焼いたの。

 ちょっと焦げたけど」


その言葉は、

特別な報告でも、感謝でもない。

ただ“今日を生きている”という事実だった。


レディウスの胸に、

小さく、確かな重みが落ちる。


――それでいい。

それで、よかった。


レディウスは何も言わず、

ただ頷いた。


“救った”という感覚はない。

けれど――

“還った”という実感だけは、確かに残っていた。


それで十分だと思えた。



昼前、調律所の裏手に馬車が止まった。


木箱がひとつ。

控えめな大きさで、

しかし中身の気配は、はっきりと重い。


「ミレル瓶工房からの預かり物です」


その言葉に、

リオルが一歩前へ出た。


箱を開けると、

中には淡く青みを帯びた瓶が並んでいる。

透明でありながら、

内側に“流れ”を宿すような質感。


エルネアの街でレネスに依頼した、特注瓶。


衝撃や色圧に耐え、

なおかつ“閉じ込める”ためではなく、

流れに戻すための器。


瓶の底に、かすかな渦の痕が見える。

それは音ではなく、

方向だけを示す印のようだった。


リオルは一本を手に取り、

光に透かした。


瓶越しの光は、

歪まず、滞らず、

そのまま向こう側へ抜けていく。


「……無事に、届きましたね」


それだけを言う。


だがレディウスは、

その瓶から目を離せずにいた。


手に取ったわけでもない。

触れたわけでもない。


ただ、視線を向けただけなのに、

胸の奥で何かが、ゆっくりと動いた気がした。



夕刻、

丘の上で風を受けながら、

レディウスは街を見下ろしていた。


屋根の並びは変わらない。

川も、風車も、道も同じだ。


それでも、

どこかが決定的に違う。


人々はもう、

彼に視線を集めない。

昨日のような沈黙も、

頭を垂れる気配もない。


けれどすれ違うとき、

ほんの一瞬だけ、

自然に歩調が緩む。


目を伏せるわけでもなく、

探るようでもなく、

ただ――確かめるように。


敬意とも、距離ともつかない、

静かな理解。


それは名を呼ぶことも、

跪くことも伴わない。

けれど確かに、

「知っている」という視線だった。


昨夜、

この街が誰の声によって導かれたのかを。


(……戻れないな)


そう思う。

けれど、不思議と怖くはなかった。


「戻れない」という言葉が、

喪失ではなく、

選択として胸に落ちてくる。


少し先で、

リオルが旅支度を整えている。


いつも通りの手つき。

荷の重さも、行き先も、

すでに体が知っている背中。


(……また、行くんだ)


街は救われた。

それでも彼女は留まらない。


それは冷たさではなく、

“流れ”なのだと、今ならわかる。


胸の奥に、

昨日とは違う疼きが生まれる。


逃げたい、ではない。

戻りたい、でもない。


――ついていきたい。


その言葉は、

まだ喉の奥にある。


けれど確かに、

その芽は根を張り始めていた。


蒼の光は空へ還った。

道はひらかれた。


そして地上には、

歩き続けるための“旅”が残っている。


レディウスは、

その道の先を、初めて想像した。


そこに、

自分の足音が重なることを。

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