第41話ー祈りの余白ー
朝の光が、ルベルの街に戻ってきていた。
それは特別に眩しいわけでも、
祝福めいた色を帯びているわけでもない。
けれど昨日までとは違い、
確かに“奥まで届く光”だった。
夜の名残を溶かすように、
屋根の影がゆっくりと後退していく。
窓が開き、戸が軋み、
人の生活音が、慎重に息を吹き返していく。
風車は一定のリズムで回り、
川面はきらきらと揺れている。
市場には香草を刻む音が戻り、
焼き魚の匂いが風に乗って流れた。
昨日まで、この匂いは届かなかった。
鼻先で止まり、
胸の奥へ入ってこなかった。
今日は違う。
街は、もう呼吸していた。
通りを行き交う人々の足取りも、
どこか慎重さを残しながら、確かに軽い。
誰かが笑えば、すぐ隣で応える声がある。
昨日まで途切れていた“やりとり”が、
少しずつ、街のあちこちで編み直されていく。
それは劇的な変化ではない。
だが、失われかけていた日常が
自分の居場所へ戻ってくる感覚は、
静かで、確実だった。
◇
路地の端で、ミーナが立っていた。
まだ顔色は薄く、
足取りも慎重だったが、
彼女はひとりで歩いていた。
壁に手を添えず、
誰かに支えられることもなく。
「ねえ」
レディウスに気づくと、
彼女は小さく手を振る。
その仕草に、ためらいがない。
「昨日の夜ね、夢を見たの」
空を見上げる仕草は、
もう怯えを含んでいない。
「川みたいな光があって……
流れていくのを、見送ったの」
言葉を探すように、
一度だけ視線を落とす。
「こわくなかった。
……ちゃんと、行くべきところへ
行ったんだって、わかったから」
胸に手を当て、
深く息を吸う。
その動きは、
街と同じ呼吸だった。
呼吸が、止まらない。
戻ってこない不安がない。
ミーナは一瞬だけ目を伏せ、
それから照れたように笑った。
「だからね……
今朝は、自分でパンを焼いたの。
ちょっと焦げたけど」
その言葉は、
特別な報告でも、感謝でもない。
ただ“今日を生きている”という事実だった。
レディウスの胸に、
小さく、確かな重みが落ちる。
――それでいい。
それで、よかった。
レディウスは何も言わず、
ただ頷いた。
“救った”という感覚はない。
けれど――
“還った”という実感だけは、確かに残っていた。
それで十分だと思えた。
◇
昼前、調律所の裏手に馬車が止まった。
木箱がひとつ。
控えめな大きさで、
しかし中身の気配は、はっきりと重い。
「ミレル瓶工房からの預かり物です」
その言葉に、
リオルが一歩前へ出た。
箱を開けると、
中には淡く青みを帯びた瓶が並んでいる。
透明でありながら、
内側に“流れ”を宿すような質感。
エルネアの街でレネスに依頼した、特注瓶。
衝撃や色圧に耐え、
なおかつ“閉じ込める”ためではなく、
流れに戻すための器。
瓶の底に、かすかな渦の痕が見える。
それは音ではなく、
方向だけを示す印のようだった。
リオルは一本を手に取り、
光に透かした。
瓶越しの光は、
歪まず、滞らず、
そのまま向こう側へ抜けていく。
「……無事に、届きましたね」
それだけを言う。
だがレディウスは、
その瓶から目を離せずにいた。
手に取ったわけでもない。
触れたわけでもない。
ただ、視線を向けただけなのに、
胸の奥で何かが、ゆっくりと動いた気がした。
◇
夕刻、
丘の上で風を受けながら、
レディウスは街を見下ろしていた。
屋根の並びは変わらない。
川も、風車も、道も同じだ。
それでも、
どこかが決定的に違う。
人々はもう、
彼に視線を集めない。
昨日のような沈黙も、
頭を垂れる気配もない。
けれどすれ違うとき、
ほんの一瞬だけ、
自然に歩調が緩む。
目を伏せるわけでもなく、
探るようでもなく、
ただ――確かめるように。
敬意とも、距離ともつかない、
静かな理解。
それは名を呼ぶことも、
跪くことも伴わない。
けれど確かに、
「知っている」という視線だった。
昨夜、
この街が誰の声によって導かれたのかを。
(……戻れないな)
そう思う。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「戻れない」という言葉が、
喪失ではなく、
選択として胸に落ちてくる。
少し先で、
リオルが旅支度を整えている。
いつも通りの手つき。
荷の重さも、行き先も、
すでに体が知っている背中。
(……また、行くんだ)
街は救われた。
それでも彼女は留まらない。
それは冷たさではなく、
“流れ”なのだと、今ならわかる。
胸の奥に、
昨日とは違う疼きが生まれる。
逃げたい、ではない。
戻りたい、でもない。
――ついていきたい。
その言葉は、
まだ喉の奥にある。
けれど確かに、
その芽は根を張り始めていた。
蒼の光は空へ還った。
道はひらかれた。
そして地上には、
歩き続けるための“旅”が残っている。
レディウスは、
その道の先を、初めて想像した。
そこに、
自分の足音が重なることを。




