第4話ー少年ノアー
朝の光は、瓶の底でゆらいでいた。
リオルは机の上の帳簿を閉じ、
扉の外から聞こえる台車の音に顔を上げた。
「リオルさーん、納品です!」
軽やかな声とともに、
小柄な娘が木箱を押して入ってきた。
髪をゆるくまとめ、頬は少し赤い。
「新しい瓶、今朝仕上がったばかりです。
少し厚めにしておきました。
最近、封音の響きが強いから。」
リオルは微笑んで、箱を受け取る。
「ありがとう。瓶が鳴るのは、
きっと街の心がよく動いている証拠だね。」
娘は笑い、
「それなら、うちも街の心に応えていけるように頑張らなきゃ。」
軽い冗談のように言って、
彼女は台車を押して帰っていった。
扉の鈴が鳴る音が、朝の空気に溶けていく。
リオルはしばらく、
届いた瓶のひとつを手に取り、
光の角度を確かめた。
透き通る玻璃の中に、
ほんのりと色が差している。
封音が鳴る前の、
世界が息を吸うような静けさ。
彼は瓶を棚に置き、
朝の帳簿を開き直した――
ちょうどそのとき、扉の鈴が再び鳴った。
⸻
開いた隙間から、冷えた風と、
小さな足音が入りこんだ。
先に入ってきたのは母親、
その後ろに、影のように立つ少年。
「先生、この子……泣かなくなったんです。」
母親の声はかすかに震えていた。
「いいことだと思っていたんです。
でも最近は、私がこの子の感情を
奪ってしまったような気がして…。
私に合わせるように笑うんです……。
私がこの子の笑顔も奪ってしまったんです。」
リオルは視線を少年に向けた。
年の頃は十にも満たない。
白い襟元を指でつまみ、
顔を上げないまま静かに立っていた。
机の上の透視鏡を手に取る。
金の縁が朝の光を返し、
レンズの向こうで、少年の空気がわずかに揺れた。
光は――ほとんどなかった。
青と白の層がかすかに揺れるだけ。
赤も橙も、緑も、黄も、沈黙している。
リオルはゆっくりとレンズを外した。
胸の奥で、ひとつだけ封音が鳴る。
「……感情を感じないのですね?」
少年は何も言わない。
ただ、うっすらと瞬きをした。
母親が代わりに答えた。
「ええ。泣かないし、怒らない。
いつも静かで、いい子なんです。
私が悪いです。
最近は……この子の目が、
からっぽの瓶みたいで。」
リオルは少し目を伏せた。
その言葉の奥に、母親の不安と、
気づかないすれ違いを感じ取っていた。
「……少し、見せてもらえますか。」
少年が首をかしげる。
リオルは棚から一本の瓶を取り出した。
中では淡い橙の光が、かすかに明滅している。
「これは“嬉”の色。
人が何かを受け取ったときに、
小さく灯る光です。」
少年は無言のまま見つめていた。
瓶の光が、彼の瞳に映る。
それでも、その瞳はまったく揺れなかった。
封音は、鳴らない。
リオルは短く息を吐いた。
「……あなたの心は、きっと疲れているんですね。」
母親が涙ぐむ。
「治りますか?」
リオルは静かに首を振る。
「いいえ、“壊れている”わけではありません。
ただ、まだ――眠っているだけです。
今は、リュメルではなく“時間”が必要です。」
⸻
母子が帰ったあと、
棚の瓶のひとつが微かに音を立てた。
リオルが顔を上げ、
その音が“誰かの心が動く前触れ”であることを感じる。
「眠っている光は、いつか目を覚ます。」
✴︎リオルの独り言✴︎
人の心は、強い光よりも、
その人自身の色で整っていく。
私の役目は、色を塗りかえることではない。
欠けた色が還る場所をつくることだ。
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✴︎用語解説✴︎
【No.2】リュメル(Lümel)
調律士が瓶から抽出したエモリアの微光を調合し、
比率を整えて固めた小さな粒状の調律薬。
服用すると淡く溶け、封音のような微かな音を立てる。
足りない色のエモリアを穏やかに補い、
心の均衡を取り戻すきっかけを与える。
街の人々からは“ヒカリノ実”と呼ばれ、
夜に服用すると「夢にやさしい光を招く」と言われている。




