第39話ー祈りの継承者
アウル視点です。
ルベルの広場は、不気味な静けさに満たされていた。
風車は動かず、祈り瓶は揺れない。
にもかかわらず、黒い暴走だけが次々と立ち上がる。
リオルが十数人を調律してなお、
街の“呼吸”は戻らなかった。
(……これはもう、個人の問題ではない。)
封音計を構えたまま、
俺は周囲の封音を観測する。
エモリアの流れは街中で途切れ、
霧のように淀み続けていた。
暴走ひとつ止めても、その直後、別の路地が崩れる。
止血をしても、動脈がどこかで裂けている――
そんな感覚だった。
「リオル!僕もやる!」
レヴィが影を踏んで飛び出した瞬間、
俺は思わず息を呑んだ。
あの繊細な封環の構え――
“人の揺らぎ”を聴いてきた者の手つきだ。
だが、それ以上に胸を打ったのは、
その目に宿る光だった。
(……覚悟、なのか?)
逃げ癖のある気弱な青年だと思っていた。
どこか怯えた目で、
リオルの背に隠れるように歩くこともあった。
だが今のレヴィは違う。
迷いながらも前に出る。
震えながらも、逃げずに人へ触れようとする。
「呼吸を合わせて……大丈夫だ……僕でも……!」
暴走者の胸の影に手を伸ばそうとしたその時――
リオルがレヴィの腕を掴んだ。
「――レヴィは下がってください。」
空気が凍る音がした。
俺は思わず歩み寄った。
レヴィの顔が、驚愕と傷ついた色で揺れる。
「あ、あなたには別の役割があります。」
リオルの声は静かだった。
優しいのに、絶対に揺るがない音。
「あなたは……“ここではない場所”で
この街を救わなければなりません。」
「どういう……ことだよ……!」
レヴィの声が震え、掴まれた手がぎゅっと握られる。
俺はその光景を見ながら、ゆっくり息を吸った。
(……リオルがここまで断言するなんて)
その時、
リオルはレヴィをまっすぐに見据えたまま言った。
「レディウス様。」
耳を疑った。
(…………れ、でぃ……?)
鼓動が一拍遅れて跳ねる。
レヴィの顔が、絶望に似た緊張で引き攣った。
(まさか……あの“レディウス”……?
アリシア陛下の、唯一の弟……)
俺は一瞬、広場の音が全部消えたように感じた。
◆
脳裏に浮かんだのは、
王都で過ごしたあの頃の記憶。
アリシア陛下の近くで、何度も見かけた二人の子ども。
王宮の窓辺で祈りの書を読んでいた、
白金の髪の少女――アリシア。
その隣で、
黒とも銀とも群青ともつかない髪を揺らし、
小さな声で彼女と言葉を交わしていた少年。
そして、
彼らより少し離れた場所で、
ひっそりと祈りの調べをなぞっていたもうひとりの少年。
“レディウス”。
王宮の者たちは口を揃えて言っていた。
――あの子の祈りの才は、姉君より優れている。
――民の揺らぎを聴く耳を持つ、稀有な器だ。
しかし同時にこうも言われた。
――優しすぎる。
――弱すぎる。
――王には向かない。
決して声の大きくない、
だが心根の澄んだその少年を、
俺は遠目ながら見てきた。
そして――
彼がアリシア女王のもとからいなくなった日。
女王はいつも通りの微笑みを保っていたが、
どこか“祈りの間の音”が薄くなったように感じた。
(……あなたの弟君は、とても繊細な方ですね)
と以前、茶会で言った俺に、
アリシア女王はこう答えた。
『ええ。とても優しい子です。
だから、無理に義務を
強要することはできませんでした。
あの子には……あの子自身の道があるはずだから。』
女王はそう言いながらも、
カップを置く指がほんの少し震えていたことを
俺は見逃さなかった。
それほどまでに、
あの姉弟は互いを想っているのだと知った。
――そして今。
俺の目の前で“レヴィ”が、
その名を呼ばれて震えている。
「レディウス様。
あなたには……“王族としての祈り”があります。」
リオルの言葉が、広場に落ちた。
◆
俺は気づかないふりなんてできなかった。
レヴィは――
レディウス・セレスティア。
アリシア陛下の弟。
王族として“祈り”を継ぐ唯一の存在。
だからリオルは彼を調律させない。
だから“別の役目”を与える。
だから――
こう呼んだのだ。
「祈りのうたは覚えていますね?」
レディウスが息を呑んだ気配が、
広場の空気を震わせた。
祈りの歌。
王族だけが歌える、
女王の祈りと同じ旋律。
(……そうか。
この街に足りないのは、祈りの座標……
“光の位置”を示す王の声……)
俺は胸の中で、静かに全てを理解していった。
レヴィ……いや、レディウスは震えた声で呟く。
「……僕に……できるわけ……ない……
姉上みたいに……歌えるはずがない……!」
リオルは否定しない。
ただ優しく、だけど真っ直ぐに言う。
「あなたの声なら――街に届きます。」
かたく閉ざされたレディウスの指が、
胸の前でぎゅっと丸くなる。
〈クリスタルツリー〉が――
風もないのに瓶飾りをひとつ揺らした。
カラン……
祈りを待つ音。
(……レディウス様。)
俺はその背中に、
“王族の影”と“1人の青年の弱さ”が同時に見えた。
そして――
リオルだけが、その全部を抱きしめていた。
「レディウス様。
どうか――この街の祈りを導いてください。」
レディウスの肩が小さく震え、
その瞼がゆっくり閉じられる。
風もないのに、広場の空気が波打った。
彼が静かに息を吸う。
その音は――
祈りの歌が始まる前の、
世界の“予備拍”のようだった。
帽子の下からアリシア殿下と同じ白金の髪がゆれる。
(……ああ。
本当に……あなたがレディウス様だったのか。)
クリスタルツリーの影が街に伸び、
瓶飾りがもう一度、応えるように鳴った。
カラン……
祈りの序章が、静かに幕を開けた。




