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Emoria-雲を空に返す夜に  作者: ume.


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第36話ー街の声ー

リオルと別れてすぐ、

街の中央広場のざわめきが、遠い靄のように揺れていた。


アウルは地図を片手に、周囲の建物の影をじっと観察する。


「……この街は、本来もっと風が強いはずなんです。

 風車が回らないのは……何かの前兆かもしれませんね。」


ルベルの街は本来、

風車の回る音と川魚を焼く香ばしい匂いが混じる、活気のある街だ。

……と、記録にはある。


しかし現実は違っていた。


ノアは胸に手を当てた。


「うん……なんか、重い気がする……

 街に入ってから、ずっと“息が浅い”みたいで。」


アウルはノアを横目で見る。


「ノアさん……あなたの感覚は、やはり普通ではありませんね。」


「え? そうかな……?」


「ええ。少なくとも僕には、ここまで分かりません。」


アウルは地図を折り畳み、ノアのほうへ向き直った。


「……とにかく、街の“表側”を見ましょう。

 何が起きているのか、地形や動線を把握したい。」


ノアは少し不安げに頷く。


「うん……リオルさん、大丈夫かな。」


「大丈夫ですよ。」


アウルは微笑むが、その眉間にはうっすら緊張が残っている。


「彼女は“専門家”です。僕らは、僕らにできることを。」


二人は広場の外側から歩き始めた。

アウルは道沿いの露店を見回しながら呟く。


「……それにしても静かですね。

 本来なら風車からの風がもっと強くて、

 名物の魚の香草焼きの香りがただよっているはずなのに。」


「言われてみたら……」


ノアは風車のほうを見上げる。


「全然、回ってない……」


アウルは風の通り道を確かめるように、

両手を背中で組み、歩幅をゆっくりと広げた。


「風の流れが弱い時は、街の人のエモリアが滞っている傾向があります。

 封音計の動き……もしかしたら、この街は――」


言いかけたとき、


ノアがふっと立ち止まった。


「……あれ?」


アウルが振り返る。


「ノア?」


ノアは胸を押さえ、眉をひそめた。


「なんか……この通りだけ、空気が冷たい……

 いや、ううん、違う。なんか、“助けて”って呼ばれているような……」


(まただ……)


アウルは息を吸う。

リオルが言っていた「気づいている」とは、このことか。


「ノア、無理しないでください。」


「大丈夫。痛いとかじゃないんだけど……

 なんか、胸の奥が“あっちへ行け”って言ってる感じ。」


「“あっち”?」


ノアが指差したのは、大通りとは違う狭い脇道だった。

人通りはほとんどない。


アウルは慎重に頷く。


「……行ってみましょう。

 あなたの感覚は、無視すべきではありません。」


二人は細い路地へ足を踏み入れた。



路地裏は異様に静かだった。


洗濯物は干されているのに、揺れていない。

猫が通り過ぎる気配もない。


ノアは、喉がきゅっと閉まるような感覚に

そっと首をすくめた。


「ここ、変だよ……」


アウルは壁に触れる。

触れた場所だけ、妙に冷たい。


「気温が下がってる……? いや、違う。

 なんの違和感なんだろう……?」


街のどこかで瓶が揺れる音がした。


カラン……


ノアはびくりと肩を跳ねさせる。


アウルは地図を見下ろしながら、言葉を慎重に選んだ。


「……ノア。

 あなたが感じたのは、たぶん“色の偏り”です。

 本来、この街にも十色の祈りが流れていて――」


その時だった。


路地の奥から、


「やめて……っ! 誰か……!!」


悲鳴が響いた。


ノアは弾かれたように走り出す。


「ノア! 危険です、待って!」


アウルの制止よりも早く、

少年の足は路地を駆け抜けていく。


曲がり角を抜けた瞬間――

ひとりの婦人が、胸を抱えてうずくまっていた。


周囲の人が距離を取り、ただ見つめている。

その胸元の“赤”が濁り、

そこに黒がゆっくりとにじみ込んでいく。


ノアは息をのんだ。


「また……リオルさんが診てた人と同じ……!」


アウルは婦人に近寄ろうとするが、

黒の揺らぎが空気を歪ませ、近づくことさえ難しい。


「……まずい……!」


婦人は両手で頭を抱え、

押しつぶされるように叫んだ。


「もう嫌……考えたくない……なのに……!!」


アウルが歯を食いしばる。


「暴走だ……!」


婦人の影が黒く伸びた、その瞬間――

風を切るような音とともに、背後から柔らかな声が落ちた。


「下がってください。」


ノアが振り返る。


「リオルさん!!」


リオルは迷わず婦人の前に膝をつき、

両手を影の間にそっと差し入れる。


「……大丈夫です。

 誰も、あなたを責めてはいません。」


黒の影が彼女の指先を呑み込もうとするが、

リオルは静かに息を合わせ、

指先で揺らぎをすくい上げた。


赤の濁りがひとつ、

黒の縁がふわりと溶ける。


婦人は崩れ落ち、泣きながら胸を押さえた。


「こわかった……こわかったよ……!」


リオルはその背を支えながら、アウルたちへ振り返る。


「……この街は、すでに限界に近いです。」


アウルが息を呑む。


ノアの胸はざわざわと波立ち、

自分の心の奥が騒ぎ出す。


その時――

川沿いの市場から、甲高い叫び声が上がった。


「やだ……! 離してよ!!」


アウルとノアが同時に振り向く。


そこにいたのは、買い物袋を落としてしゃがみ込む女性と、

その腕を掴んで荒く息を吐く男。


男の瞳の奥が、黒く揺れていた。

ただの怒りではない。

ただの苦悩でもない。


――黒の暴走。


「また……!」


レヴィも駆けつけてきた。

蒼白になり、震える声で言う。


「短時間で複数の暴走……!?

 そんなの、聞いたことがない……!」


理性の端が崩れ、

残った影が外側へ噴き出す。


周囲の人々は一歩も動けなかった。

恐怖よりも、驚きよりも――

“声を出す前に吸い込まれる”静けさのせいで。


ノアが青ざめた顔で叫ぶ。


「リオルさん……!」


リオルは答える前に動いていた。

その足取りは、まるで風が形を取ったようだった。


――男の影が女性に伸びた瞬間。


リオルの手が、その手首を静かにつかんだ。


「……もう、大丈夫です。」


囁きに近い声だったが、

黒の揺らぎはその瞬間、ぴたりと止まる。


男の胸元へ、リオルは軽く影の指を添えた。


ひとつ、ふたつ――

ゆっくりと呼吸の音を揺らし合わせるように。


すると、黒の濁りはまるで霧のように薄れ、

男の瞳は怯えたように揺れ戻った。


「……あ、れ……俺……?」


リオルは微笑み、手を離す。


「無理に思い出さなくてかまいません。

 今は……深く息を吸ってください。」


男はその場に座り込み、泣きそうな顔でうなずいた。


ノアはその光景に、ただ言葉を失って立ち尽くす。


(すごい……

 リオルさん、暴走した人をあんなに静かに……)


アウルは手帳を見つめながら、震える声で言った。


「……黒の暴走を、こんなに早く止めるなんて……

 王都の調律院でも、滅多に見られませんよ……」


だが――

リオルの視線は別の方向を向いていた。


暴走は、止まっていなかった。


井戸端で老人が倒れ、

路地で少年が壁に爪を立て、

川沿いでは母親がしゃがみ込んで泣き叫んでいる。


黄色に黒。

緑に黒。

白に黒。


黒は“同じ黒”ではない。

弱った色の隙間にだけ入り込み、

滲み、染み、混ざり、

静かに心を飲み込んでいく。


リオルは息を荒げながら、それでも一人一人へ走り続けた。


ひとりを抱きとめ、

次の暴走者の影を拭い、

子どもの手を取り、

老人の胸にそっと呼吸を合わせ――


最後の影が霧のように散った時。


ザーッ……


黒の靄が老人の胸元から離れ、消えていく。


リオルは大きく息を吐き、膝をついて地面に手をついた。


(……まずい。)


ノアが不安そうに覗き込む。


「リオルさん……どうしたの?」


リオルは懐の袋を開き、中の瓶を素早く確認した。


そこには、数本の“空の祈り瓶”が横たわっているだけだった。


黒の混濁を剥がすたび、

封環を通して危険な色を“封じて”きた。


だが――

何人もの暴走者を救った今、瓶の残りは数えるほどしかない。


「……瓶が、もうほとんどありません。」


アウルが息を呑む。


「ま、まずい……!

 瓶に封じる以外に

 暴走を止める方法はありません!!」


リオルは静かに頷く。


「はい。

 本来、暴走で溢れた色は、

 瓶に収めなければ……行き場がありません。」


そう言っている間にも――

別の通りから悲鳴が響く。


ノアは震える声を上げた。


「……まだ……たくさん暴走してる……!」


アウルが、周囲の人々に向かって叫んだ。


「――すみません!!

 空の瓶を持っている方、いませんか!?

 すぐに、できるだけ多く!!」


街の人々が一斉に振り返る。


最初こそ戸惑いが強かったが、

つい先ほど暴走者を助けた

リオルの姿を見ていた人々は、

迷うことなく走り出した。


「家にある……! 持ってくる!!」

「市場の裏にいくつかあったはずだ!」

「倉庫に、使っていない小瓶が……!」


ルベルの街は慌てて動き始めた。


リオルはアウルの判断に感謝するように頷き、

また別の悲鳴の方向へ走り出す。


「ありがとう。

 ……急ぎます。

 瓶が揃うまで……私が時間を稼ぎます。」


ノアも走りながら叫んだ。


「みんな! 早く!!

 リオルさんが……ひとりで全部止めてる!!」


数本の瓶を抱えた街の子どもが、息を切らして駆けてくる。


「これ……っ! 使って!!」


リオルは受け取り、優しく笑った。


「ありがとう。」


そしてその手で、またひとり、

暴走に飲まれかけた人のエモリアを

静かに封じていく。


封環を通して瓶に入る色は――

どれも黒く滲んでいた。


アウルは人々から瓶を必死に受け取り、

道に並べていく。


リオルは静かに前へ出て、指先で空中に円を描いた。


――その瞬間。


地面に置かれた無数の瓶が、

ふわり……と浮き上がった。


ぐらりと揺れながら、

風もないのに空中へと広がっていく。


「なっ……!」

「うわ……浮いた……!」


街の人々が息を呑む。


リオルは封環を広場の中央に浮かべながら言った。


「皆さん……ありがとうございます。」


暴走者たちの胸元から、濁った色が引き寄せられるように浮き上がる。


青に黒。

赤に黒。

白に黒。


その全部を、封環を通して

空に浮かぶ瓶へ向かって導いていく。


キィン……キィン……キィン……


複数の瓶が同時に封音を響かせた。


リオルの周囲だけ、

まるで時が遅くなったように静かだった。


ノアが叫ぶ。


「すごい……全部吸い込まれていく!」


レヴィは震えた声で呟く。


「一斉調律……そんな……

 御伽話みたいだ……」


次々と暴走が収まり、

人々がその場に座り込んでいく。


しかし。


リオルは空中に浮いた瓶をひとつずつ見つめ、

表情を曇らせた。


「……これは、止血にすぎません。」


ノアが顔を上げる。


「止血……?」


「ええ。暴走した“色”だけを瓶に封じました。

 でも――根本は、何ひとつ治っていません。」


アウルが息をのむ。


「どういう……ことですか?」


リオルは街全体を見渡した。


風車は動かない。

光彩路は光らない。

祈りの流れはどこにも向かわない。


レヴィが、縋るように呟く。


「リオル……お願いだ……どうか、この街を……」


その言葉に呼応するように、

ほんの一瞬だけ“金の微光”が揺らいだ。


レヴィ本人は気づかない。

リオルだけが、横目でわずかに目を細める。


「……個々の暴走は止められました。

 でも――街の“呼吸”は……弱ったままです。」


ノアが怯えた声で袖を掴んだ。


「リオルさん……街は……治らないの……?」


リオルはノアに優しく目を向ける。


「ううん。治ります。

 ……ただ、私ひとりでは……届かない。」


レヴィが息を呑む。


(……リオルが“迷う”なんて……

 そんな姿、初めて見た……)


その時だった。


光彩路のどこかで――

ひとつだけ、かすかに瓶が鳴った。


カラン……


風もないのに。

まるで “気づいてほしい” と告げるような、

消えかけの祈りの残響。


リオルは静かに、その音の方へ顔を向けた。


(……街の呼吸そのものを……

 誰かが“呼び戻す”必要がある。)


そのためには――

この街が忘れてしまった“光の方向”を示す祈りが要る。


リオルは微かに息を呑んだ。


(……レヴィ。

 あなたなら……もしかしたら……)


視線を戻した先で、

レヴィの瞳に宿る“色”が揺れる。


街を救うために、

リオルは決断しなければならない。


この街には、もうひとつの祈りが必要だ。

――王族の祈り。


リオルはゆっくりと歩き出した。


「……レヴィ。

 少し……話があります。」


街の沈黙が揺らぎ、

光彩路の奥で瓶がもう一度、小さく鳴った。

✴︎リオルの独り言✴︎


ルベルの街に来ると、まず風の匂いが変わる。


川の流れが街そのものの呼吸であるかのように、

いつもなら澄んだ香草の香りが混じって漂ってくる。


とくに朝焼けの頃、

市場で並ぶ川魚を焼く小さな屋台から

立ちのぼる湯気は、

この街の“暮らしの音”のひとつだった。


魚にまぶす香草はルベルの丘で採れるもので、

この街にしかない独特の香りがある。

爽やかで、少し甘くて……

焼くとその香りが皮の奥まで染みていく。


屋台は開いているのに、

香草は並んでいるのに、

魚は焼かれているのに。


香りも、湯気も、風に乗らない。


それだけで、この街の“色”がどれほど弱っているか

知らされるようだった。



✴︎用語解説✴︎


【No.35】川魚の香草焼き(ルベル名物)


風車と川の街・ルベルの名物料理。

街を流れる清流で獲れる淡水魚を、

丘で採れる香草と共に焼き上げた素朴な一品。

香草はルベル特有で、爽やかな甘みと清涼感がある。

ルベルの人々にとっては、

ただの料理ではなく、

街が“元気である証”を示す存在でもある。


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