第34話ーかすかな呼び声ー
薄暗い路地の奥。
木戸の隙間から漏れる細い光が、
室内の空気を淡く切り取っていた。
リオルがそっと手を添えて木戸を押し開けると——
静寂がひとつ、柔らかな波紋になって広がる。
中には、椅子に静かに腰掛けた青年がいた。
深くかぶった帽子の影が表情を覆っているのに、
その肩には、崩れかけた静けさを
ひとりで支えてきた者だけが
纏う張りつめた気配があった。
疲れは確かに滲んでいる。
それでも、呼吸だけは驚くほど澄んでいて——
まるで“最後の音”を守ろうと
自分自身を保ち続けているかのようだった。
その佇まいを目にした瞬間、
リオルの胸の奥に、静かな懐かしさが波紋のように広がった。
(……やはり、変わっていませんね。)
レヴィは学院の頃から、
誰よりも“世界の揺らぎ”に敏感な調律師だった。
声を荒げることもなく、
感情で相手を押すこともない。
ただ、空気の中に潜む微かな偏差を聴き取り、
必要なときにだけそっと手を添える――
そんな穏やかな気質の持ち主。
無闇に踏み込まず、
けれど確実に本質へ辿り着く耳。
その静かな在り方は、
まるで“音よりも静けさを信じる人”そのものだった。
細い光がレヴィの瞳に触れ、
その奥に息づく確かな信頼が、かすかに瞬く。
ゆっくりと、彼は顔を上げる。
光の粒が瞳に触れ、
その奥に宿る“信頼”が一瞬だけ瞬いた。
そして、微かに安堵がほどける声で言った。
「来てくれるって……信じていたよ。」
ずっと待ち続けていた者だけが持つ、
静かで、必死で、救いを求める響き。
その佇まいに——
リオルの胸に、ふと懐かしさが灯る。
(変わっていませんね、レヴィ。)
学院でともに学んだ調律師。
声を荒げることもなく、
感情を押しつけることもなく、
ただ“世界が発する小さな音”に耳を澄ませ続けていた青年。
音より静けさを信じるような、
優しい気配の持ち主。
ゆっくりと、彼は顔を上げた。
光の粒が瞳に触れ、
その奥に宿る“信頼”が一瞬だけ瞬いた。
そして、微かに安堵がほどける声で——
「君ならこの状況を打開することが
できるんじゃないかと思ったんだ。」
レヴィ。
かつて学院で常に一歩後ろから周囲を見つめていた、
静寂の調律師。
ずっと待ち続けていた者だけが持つ、
静かで、必死で、救いを求める響きだった。
リオルはその言葉を受け止め、わずかに頷いた。
「……状況を、教えてください。」
青年は少し肩の力を抜き、
そばの机へ視線を落とす。
そこには少女が横たわっていた。
呼吸は浅く、まるで“自分の色を失いかけている”ような静けさ。
青年は震える手で少女の肩に触れながら、
絞るように言った。
「この子を……診てほしい。
僕には、もう……どうにもできなかった。」
その瞬間、
街のどこかで——
カラン……と、瓶がひとつだけ鳴った。
それはまるで
“助けを呼ぶ最後の音” のようだった。
リオルは少女へ歩み寄り、しゃがみ込むと
そっと耳をすますように指先をすべらせた。
触れていない。
ただ、少女の“色”が揺らぐ位置に手を置いているだけ。
それでも——
かすかに、空気が震えた。
レヴィはその仕草を見て、
胸の奥でかたく固まっていたものがほどけていくように息を吐く。
「……気づいたのは三日前なんだ。」
静かな声。
だが、その奥に縫いとめられた焦りは隠しきれない。
「最初はただ——眠る時間が長くなっただけだった。
少し疲れてるのかな、くらいで……。
でも、昨日の夜から……呼んでも、反応しなくなって。」
レヴィは言葉を探しながら、
少女の髪をそっと整える。
「音がね……聴こえなくなったんだ。
どれだけ呼んでも、返ってこない。」
(……音が途絶えた。)
リオルは心の中で静かに繰り返した。
少女の肌からは、
色の気配がほとんど流れていない。
生きている。
けれど、心の奥の“灯り”が消えかけている。
リオルが少女の手の上に影を落とした瞬間——
レヴィが小さく肩を震わせた。
「……僕は、調律師のくせに……
ここまで悪くなるまで、何ひとつできなかった。」
その声は責めではなく、
ただの“事実”を吐き出すように淡々としていた。
だが、その淡さがかえって痛い。
リオルは目を伏せながら言う。
「あなたが気づかなかったのではありません。
この子が……音を閉ざしたのです。」
レヴィの指がぴたりと止まる。
「閉ざした……?」
リオルは少女の胸の上で漂う“気配”を感じ取るように
ゆっくりと目を閉じた。
「……外へ向かって流れるはずの色が、
行き先を失っている。」
「行き先……?」
「ええ。
本来なら“空へ向かう祈り”に触れて
心の奥で呼吸するはずの色が……
この街では、どこかで滞っている。」
レヴィは喉の奥で息を呑む。
「つまり……この街自体が……?」
リオルは静かに言う。
「“呼吸不全”を起こしているのかもしれません。」
その言葉は、
狭い部屋にゆっくり沈んでいった。
レヴィは少女の頬に触れ、
震える声で続ける。
「……リオル。
この子、まだ……助かる?」
その問いには恐怖が混じっていた。
“もしダメだったら”という未来を、
決して見たくないという祈りが滲んでいた。
リオルは少女の手を包むように影を置き、
その返る“鼓動”を確かめた。
そして——静かに答える。
「間に合います。
……まだ消えていません。」
レヴィの呼吸がふっと崩れ、
椅子の背に手をついたまま大きく息を吐く。
安堵、後悔、そして希望が
弱く揺れて混ざり合っていた。
リオルは立ち上がり、レヴィを見つめる。
「ただし——
この子を救うには、
“街の音”ごと整えなければなりません。」
レヴィは目を上げる。
「……街ごと……?」
リオルは頷いた。
「ええ。
この子だけではありません。
街の“いくつかの音”が……欠けています。」
そのとき、外を吹き抜ける風が
ひゅう……と細く鳴いた。
まるで街そのものが、
自分の胸を押さえて苦しんでいるみたいな音だった。
リオルは少女の肩にそっと手を添え、
深く、静かに言った。
「……まずは話を聞かせてください、レヴィ。
——この子に何があったのか。」
レヴィの指が微かに揺れ、
その揺れには“覚悟”が混じっていた。
「……全部話すよ。
隠すことなんて、もう何もない。」
その瞬間——
部屋の外で瓶がもう一度、ひとつだけ鳴った。
カラン……
それは、
たったひとつの祈りが
まだ消えていない証のようだった。
✴︎リオルの独り言✴︎
ルベルの街は、本来とても賑やかな場所だ。
街の中央にそびえる大きな風車は
旅人たちの目印になり、
風車小屋の周りはいつも人であふれていた。
川沿いには小さな料理屋が並び、
名産の川魚を焼く香りが通りまで漂う。
昼どきには客の声が重なり、
子どもたちが橋の上で遊ぶ姿もよく見られた。
“風がよく通り、音が遠くまで響く街”。
それが本来のルベルの姿だ。
……だからこそ、
今日の静けさはすぐに分かった。
人が歩いている。
店も開いている。
けれど声が届かず、
風車はゆるく回るだけで、
街はどこか息を潜めている。
祈りの粒が風に乗らず、
色が空へ還らず、
ほんのわずかな偏りが街全体を覆っている。
怒りでも、悲しみでも、虚でもない。
特定の色が暴れているわけでもない。
ただ——
街が呼吸を忘れている。
こうした静かな偏りは、
調律師でさえ気づくのが難しい。
けれど確かに、
心のどこかの“灯”が弱くなる。
ルベルは壊れてはいない。
風車の羽根がもう一度
軽やかに風を切る日が来るように——
私は、街の音に耳を澄ませ続けようと思う。
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✴︎用語解説✴︎
【No.32】ルベルの街
王都の西に位置する観光地。
大きな風車と川沿いの飲食街が名物。
風がよく通るため、街に響く封音が美しく、
旅人が多く訪れる明るい街並みで知られる。
現在は“エモリアの流れ”が弱まり、
本来の活気が薄れているものの、
特定の色の暴走ではなく、
“街全体の祈りの浅さ”によるものと推測される。




