第33話ー静かな街ー
ルベルの街に足を踏み入れた瞬間、
空気の“薄さ”に気づいた。
人影はある。
市場も開いている。
けれど、言葉が少ない。
声はあるのに、
届く前にどこかで吸い込まれてしまうような――
そんな静けさだった。
ノアが袖を引いた。
「……ここ、ちょっと静かじゃないですか?」
ただの感想に聞こえる。
けれど、リオルはその言葉にだけわずかに反応した。
(気づいたんですね……)
アウルは街路の隅を見つめる。
「人はいるのに……活気がありませんね。」
リオルは答えず、
代わりに道の端で揺れていた瓶飾りを指先で触れた。
中は空っぽ。
なのに、そこに“音がしない”。
ほんの一瞬だけ、
ノアが耳の奥を押さえるように首をすくめた。
「……なんか、胸が冷たくなる感じが。」
「気のせいでしょう。」
アウルがそう言ったが、
リオルのまつげはかすかに揺れた。
(――感応。やはり。)
理由を告げる気はなかった。
ノアが望んだとしても、
まだ“名”を与えるには早すぎる。
そのまま三人は進む。
街の中央に向かうほど、
薄い霧の膜を歩いているような感覚が濃くなった。
リオルはふっと息を吸い、
静かに言った。
「……この街のどこかに“依頼人”がいます。」
その言葉だけで、
景色の色がわずかに変わった気がした。
街道から伸びる一本道を抜けると、
ルベルの中心広場が見えてきた。
本来なら朝市の声が響き、
子どもたちの笑い声が混じる時間帯だ。
だが――広場には、静かなざわめきしかなかった。
屋台は開いている。
野菜も並び、魚も置かれている。
けれど、どの店主も声を張らない。
まるで「声を出すことをためらっている」ようだった。
ノアが小さく囁く。
「……みんな、元気ないのかな?」
アウルは周囲を見回しながら言う。
「街の“鼓動”が感じられませんね。
こういう静けさは……不自然です。」
リオルは屋根の方へ視線を向けた。
風見鶏の羽根が一度だけ回り、すぐに止まる。
(……音が逃げていますね。)
街そのものが、
“外へ向かって流れ出すはずの色”を抱えたまま、
呼吸を忘れているような気配だった。
ノアが不意に立ち止まる。
「……あれ?」
胸の奥を押さえて、眉をひそめる。
「なんか……誰かに呼ばれてるみたいな……」
言った本人はすぐ首を振る。
「いや、違うかも。なんだろ、変な感じ……」
アウルは心配そうにノアに手を伸ばす。
「疲れが出たんですよ。旅の初日ですし――」
リオルはそっと手をあげて制した。
「大丈夫です。
……行きましょう。」
理由は言わない。
ただノアの“微かな揺れ”を確かめただけだった。
三人は街を横切り、
中央通りへと進んでいく。
そこで、一軒の店の前に人だかりがあった。
ざわ……ざわ……
低い声の波が揺れている。
ノアが不安そうに呟く。
「なにかあったのかな……?」
アウルは警戒して一歩前に出た。
「近づかないほうが――」
だがリオルだけは違う方向を見ていた。
雑踏のすぐ外側、
路地に続く影の奥。
薄暗い木戸がかすかに開き、
そこから“誰かがこちらを見ている”感覚。
呼び止めるような、
確かめるような、
せつないほどの静けさ。
(……あの気配。)
手紙の筆跡と同じ静けさを、
リオルはそこに感じ取った。
路地の奥へ視線を向けたまま言う。
「アウルさん、ノア。
――そちらは私が行きます。」
アウルが驚いたように振り返る。
「え? では私は――」
「広場のほうをお願いします。
街の様子を観ていてください。」
アウルは迷ったが、
リオルの声音に逆らわず頷いた。
「……わかりました。ノア、私と行きましょう。」
ノアは不安げにリオルを振り返る。
「リオルさんは……?」
リオルは微笑んだ。
「大丈夫。すぐ戻ります。」
柔らかな声。
だがその奥には、
“確信”の気配があった。
ノアはぎゅっと拳を握ったが――
それ以上は何も言えなかった。
アウルに連れられ、人だかりの方へ向かう。
リオルはゆっくりと路地の方へ歩を進めた。
街のざわめきが遠ざかるにつれ、
音が薄くなっていく。
そして路地の入口に近づくと――
カラン……
どこか遠くで、瓶の音が鳴った。
風で揺れた音ではなく、
“誰かが静かに呼んだ”ような響き。
リオルの胸の奥に、
小さな緊張が走る。
(……そこにいるのですね。)
薄暗い路地の奥。
木戸の隙間から漏れる光。
その下で、影が静かに動いた。
「……来てくれると思っていたよ。」
低く、穏やかな声。
懐かしい、
けれどどこか疲れた響き。
リオルは木戸に手を添え、
そっと押し開いた。
薄明の光が室内に差し込み――
そこで座っていた人物が、
顔を上げた。
深い帽子の影の下、
光る瞳がひとつ。
学友は、
まるで“音を抱えるように”誰かの肩に手を置き、
静かにリオルを迎えた。
「……診てほしい人がいるんだ。」
その声は、
祈りの残響のように静かだった。
街の奥で、
また瓶の音がひとつ鳴った。
✴︎リオルの独り言✴︎
光彩路は、
街そのものの“心拍”を映す道だ。
封音石が練り込まれたガラスのレンガは、
ただ光を反射しているのではない。
その下を流れる祈り〈エモリア〉の気配を吸い込み、
それを光として地上へ返している。
祈りがゆるやかに巡り、
十の色が偏りなく混ざり合っている街では、
光彩路は淡い虹をまとって揺れる。
歩けば橙と青がひそやかに溶け、
白や桃や緑がふと浮かび、
道そのものが胸の奥で呼吸するように見える。
けれど、祈りが滞りはじめた街では、
その光はすぐに鈍くなる。
透明だったはずのガラスが曇り、
虹は消え、
ただの石畳のように沈黙してしまう。
ルベルの街へ入ったとき、
足元の光が頼りなく揺れていたのを覚えている。
空気そのものが、
どこか“言葉を飲み込んでしまった人”に似ていて、
胸の奥が少しだけ冷たくなった。
光彩路の輝きは祝福ではなく、
街の祈りがまだ息づいているかどうかを知らせる、
静かな指標だ。
私はときどき思う。
空が沈黙するより先に、
地上の光が呼吸を止めてしまうことだってあるのだと。
だから、足元の光を見れば、
街が眠っているのか、
泣いているのか、
それともただ静かに祈っているのかが、
わかる気がする。
⸻
✴︎用語解説✴︎
【No.32】光彩路の光
王都オルセリアから各地の街へ延びる巡礼の道。
封音石を混ぜたガラス質のレンガで敷かれており、
街の祈り〈エモリア〉の流れに反応して色を帯びる。
祈りが調和している街では虹のようにやわらかく光り、
色が偏った街では曇ったまま沈黙する。
光彩路の光は、街の“祈りの健康状態”をもっとも正確に示すとされ、
調律士たちは道の揺らぎを読むことで
街全体の変化を察知することができる。




