第30話ー瓶の誓約ー
朝の光が街をゆっくり撫でていく。
エルネアの空は透き通るように白く、
瓶飾りの影が道に細く落ちていた。
リオルが調律所の扉を閉めると、
内部の瓶たちが最後に小さく鳴り、
“いってらっしゃい”と送り出すように響いた。
アウルは肩に地図と記録の束を背負い直し、
その隣でノアは緊張と興奮が入り混じった表情で立っていた。
「……この街とは、しばらくさよならだね。」
ノアの呟きに、アウルが微笑む。
「やめるなら今ですよ。」
「だ、大丈夫です! たぶん!」
言ったそばから足が震えていて、
アウルは思わず吹き出しそうになる。
「ノアは、この街の出身なんですか?」
「ううん、小さい頃に引っ越してきたんだ。」
「そうなんですね。」
「まぁ、あんまり前の街のことは覚えてないんだけどね。
僕にとってはここが、生まれ育った街みたいなものだよ。」
リオルはそんな二人のやり取りを聞きながら、
静かに歩き出す。
「リオルさん、どこに向かってるんですか?」
ノアが不思議そうに尋ねる。
「まずは瓶屋へ寄りましょう。」
「瓶屋……レネスさんのところ?」
ノアがぱっと顔を上げ、
リオルは小さく頷いた。
「ええ。もしものために。」
アウルが眉をひそめる。
「もしも、ですか……?」
「はい。」
リオルは胸に抱えた金の瓶を見下ろす。
「この金のエモリアもそうですが、
暴走したエモリアを瓶に封じるには、
普通の瓶では少し不安です。
衝撃ひとつで内部の響きが乱れ、
再び溢れ出す危険があります。」
ノアは目を丸くした。
「じゃあ……どうするの?」
リオルは少し歩きながら答える。
「“作ってもらう”んです。
厚く、丈夫で……内部の響きを乱さない構造を持つ瓶を。」
アウルが驚いたように瞬きをした。
「そんな瓶、聞いたことがありませんが……」
「ええ。存在しません。」
リオルは淡々と答える。
「だからこそ、あの瓶屋にお願いしてみようと思います。
いつもミレル商会の瓶を使っていますが、
ここの瓶はとても耐久性があるんです。」
三人は坂を下り、朝市へ続く道を歩いていく。
露店の香り、子どもたちの声、
その裏に、どこか“色の浅さ”が混じっていた。
アウルは周囲を見回し、低く呟く。
「……やはり、エモリアの動きが鈍くなっている気がしますね。」
ノアは聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「鈍い?」
「本来なら、街の祈りによる封音の数値が
もう少し高いはずなんです。」
ノアは不安そうにアウルを見る。
アウルは慌てて笑顔を作った。
「──けれど安心してください。
まだ針は止まっていません。」
リオルは黙って歩きながら、
腕の中の金の瓶の重さを確かめるように抱き直した。
(……この光を、守らなくては。)
そのとき、ノアが振り返りながら言う。
「ねえ、アウルさん。なんでそんな難しい顔?」
「難しい顔に見えますか?」
「見えるよ!旅なんだからもっとわくわくしないと!」
アウルは吹き出しそうになり、
結局、肩を落としながら笑った。
「……そうですね。君には敵いません。」
そんなやりとりを続けていると、
木造の小さな店が視界に入る。
扉の上に掲げられた看板には、
〈ミレル瓶工房〉
窓辺には色とりどりの瓶が並び、
朝の光をやわらかく弾いている。
ノアは扉の前で一度息を飲んだ。
「……レイラ、元気になってるかな。」
リオルは扉に手を添え、静かに答える。
「会ってみましょう。」
木の扉を押すと、
店内に小さな鈴の音が響いた――。
扉の奥から、穏やかな声がした。
「……ノア君? その声、やっぱり君だよね。」
低い声が工房の奥から届いた。
姿をあらわしたのはレネス。
整った顔に煤が少しつき、袖をまくった腕には
火と向き合う職人特有の静かな強さがあった。
粗野さはなく、
職人らしい丁寧な手つきで布を拭いながら現れる。
「久しぶりだね、リオルさん。
こうして来てくれるのは、ずいぶんと……久しい。」
リオルもわずかに頭を下げる。
「お久しぶりです。レネスさん。」
「お戻りになったと聞いてすぐにご挨拶に行きたかったのですが、王宮から大きな発注があって
炉を止められなくて。」
その言葉にアウルの眉がわずかに動く。
おそらく、陛下の暴走をとめるのに瓶を大量につかってしまったからだろう
リオルは柔らかく頭を下げた。
「いいえ。あなたの“火”は、誰かの光を守るものです。」
レネスは金の瓶に気づくと、
呼吸をひとつ飲み込み、姿勢を正した。
「……その色を地上で見るとは思いませんでした。
女王陛下の“祈りの欠片”ですね。
本日は……どのようなお力になれますか?」
彼の声は静かだが、その奥に緊張と敬意が滲んでいた。
リオルは金の瓶を両手で包み、
作業台の上へそっと置いた。
「レネスさん。お願いがあります。」
「はい。どのようなものでも。」
「暴走したエモリアを封じるための、
特別な瓶を作っていただけませんか。」
レネスの目が、ゆっくりと細くなる。
「……暴走、ですか。」
「ええ。普通の祈り瓶や調律瓶では耐えられません。
内部の響きが乱れない構造で、
衝撃や“色の圧”に強いものが必要です。」
レネスは息を吐き、
作業用の手袋を外して静かに机へ置いた。
レネスはアウルを一瞥し、再びリオルへ視線を戻した。
「なるほど。普通の瓶じゃ足りませんね。」
リオルは小さく頷く。
「“響きを乱さず”、
“衝撃や色の揺れを吸収する”瓶が必要なんです。」
レネスの目がわずかに輝いた。
「……深層焼きか。」
「お願いできますか。」
レネスは少し考え、工房の奥の棚に歩み寄った。
取り出したのは、小さな灰色の石。
掌にのせると、周囲の音がふっとやわらぐ。
「静玻璃石。
海底で“音が全部吸われた場所”から採れる石です。
これを粉にして、ガラスに混ぜる。」
ノアが目を丸くする。
「こんなの、初めて見た……!」
アウルも息を呑んだ。
「これが……音を吸う……?」
「はい。」
レネスは石をそっと撫でた。
「ただし、この石は“脆い”。
そのままでは割れてしまうから、
七日七晩、炉の火を止めずに焼く“深層焼き”が必要なんです。」
ノアの声が上ずる。
「な、七日七晩……!」
「俺は慣れてますから。」
レネスは軽く肩をすくめた。
リオルは静かに言う。
「レネスさんにしか頼めません。」
短い沈黙のあと、レネスは微笑んだ。
その眼差しは、炎のようにまっすぐで温かい。
「……いいですよ。作ります。
ただし、一つだけ約束してください。」
「なんでしょう?」
「この瓶で……
“色を閉じ込めるためだけには使わないでください。”」
リオルはその意味を理解して頷いた。
「色は、生きています。
守るために使います。」
レネスは満足そうに笑い、炉の方に向き直った。
レネスは静かに金の瓶へ視線を落とし、
深く息を吸ったあと、覚悟を帯びた声で言った。
「……この瓶、仕上げには二週間ほどかかります。
“深層焼き”は炎が嘘をつけない工程ですから。」
レネスはすぐに続けた。
「ですが──待つ必要はありません。」
アウルが瞬きをする。
「……どういうことです?」
「完成したら、
あなた方が向かう“旅先の町”にお送りします。」
レネスは静かに頷き、説明を加える。
「王都から各地へ向かう配達馬車があります。
職人や瓶商たちがよく使う便でしてね。
行き先さえ教えていただければ、
必ず手元まで届くように手配します。
旅の歩みを止める必要はありません。」
レネスはやわらかく微笑んだ。
「あなたたちの旅を止める権利なんて、私にはありませんから。
私にできるのは、進む先で必要になる“器”を整えることだけです。」
リオルは胸の前で金の瓶を抱き直し、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます。
あなたの火が、きっと多くの光を守るでしょう。」
レネスは照れ隠しのように肩をすくめ、炉へ目を向ける。
「さあ。七日七晩、火を絶やすわけにはいきませんので。
あなた方も……どうか、道中に気を付けて。」
三人が工房を出ると、
扉の向こうから再び鈴の音がやさしく響いた。
それはまるで、
「必ず届ける」と約束する
職人の火の音色のようだった。
ノアが前に出た。
「レネスさん!あの……レイラは元気になってますか?」
レネスは少し驚いたように瞬きをし、
ふっと表情を緩めた。
「ええ。あなたがくれた瓶、まだ大事にしてますよ。」
ノアの顔がぱっと明るくなり、
アウルはその横顔を見て小さく息をついた。
リオルは金の瓶を胸に抱き直し、
静かに工房の出口を見つめた。
「……行きましょう。」
三人が扉を開けると、朝の光がふわりと差し込む。
工房の中から残った熱が追いかけるように流れ出た。
外の風は、旅立ちを告げるように
ほんの少しだけ暖かかった。
✴︎リオルの独り言✴︎
レネスさんの瓶は、火と向き合う時間そのものだ。
一つの瓶が生まれるまでに、
どれだけの想いと静けさが積み重なっているのか――
触れるだけで伝わってくる。
瓶は、色を押し込めるための牢ではない。
暴れそうな光を落ち着かせる“揺りかご”だ。
冷たさで閉ざすのではなく、
熱で包み、呼吸を整える。
深層焼きの瓶は、きっと多くの光を守ってくれる。
暴走した色でさえ、
もう一度世界と繋がる道を探せるように。
色も、瓶も、人の心も。
どれも“扱い方ひとつ”で壊れてしまうけれど、
正しく寄り添えば、必ず形を取り戻す。
旅立つ前にそのことを思い出せたのは、
この上ない幸運だった。
✴︎用語解説✴︎
【No.28】深層焼き瓶
静玻璃石を混ぜて七日七晩焼き続けた特殊な瓶。
外部の衝撃や色の圧を吸収し、
内部のエモリアの響きを保つことができる。
暴走の封じ込みや、調律前の仮置場として使われる。




