第3話ー調律士の部屋ー
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朝の光は、まだ夜の名残を帯びていた。
街の屋根に薄い霧がかかり、
風の中には、
昨夜の封音の余韻がかすかに残っている。
リオルの調律室は、その静けさの中にあった。
壁一面の棚には大小さまざまな瓶が並び、
淡い光がゆっくりと揺れている。
机の上には、金縁の透視鏡と銀の環。
どちらも彼の手で磨かれた、
世界の“エモリアを視る”ための道具だった。
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扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、職人風の男。
手の節々は厚く、
笑みには疲れが滲んでいた。
「おはようございます。
……少し、胸が重くて。」
リオルは静かにうなずくと、
机の金縁の透視鏡を手に取った。
レンズ越しに、
男をとりまく空気がゆるやかに層を変える。
橙と黄が強く脈打ち、仕事への熱と誇りの色。
その底には、黒がわずかに沈んでいた。
リオルには数が見える。
橙140、黄130、紅110、緑120、白100、青90―
―均衡の範囲。
だが黒が50。
通常の人間なら20前後で安定している。
彼は透視鏡を置き、
掌に銀の環をのせた。
「……黒と橙、
そして黄を少しだけ抜きますね。」
輪の内側が静かに震え、
封音が澄んで鳴った。
音は玻璃の鈴のように細く、
空気がわずかに波打つ。
三色の雲片が重なりながら浮かび上がった。
黒は墨のように深く、
橙は熱を帯び、
黄は光の端で淡く瞬く。
三色は溶け合わずに揺れながら、
蛍の群れのようにリオルの掌へと集まった。
作業台の瓶を取り、
封蝋の資格印に指を当てて蓋を開ける。
短い開封音。
光の群れは自ら瓶へ吸い込まれ、
中で静まり返った。
リオルは黒が底に沈むのを確認して、蓋を閉じた。
「はい、これで大丈夫。器は千に戻りました。」
男はほっとしたように笑った。
「いつも助かります。
今週は忙しくなりそうで……」
「ええ。ですが、あまり無理をすると、
色のバランスが崩れます。」
リオルは棚から数本の瓶を選び出した。
青、白、そしてごく少量の金。
それらの光を調合皿に落とし、
指先でゆっくりと混ぜ合わせる。
淡い光は金平糖のように形をとり、
粒の中心で微かな封音が響いた。
「足りなかったのは“静”と“信”。
これを一晩にひとつ、口に含んでください。
少し金を加えてあります。
焦りが溶けるように。」
男は瓶を両手で受け取り、
中の光を見つめた。
「……光って、あたたかいですね。」
「ええ。光は人の心を照らしてくれます。」
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扉が閉まり、静けさが戻る。
棚の奥で、瓶がひとつだけ光を放った。
封音がやさしく鳴り、
リオルはその音に微笑みを返した。
今日もまた、世界は静かに息をしている。
✴︎リオルの独り言✴︎
エモリアを整えることを、私は調律と呼んでいる。
それは音を合わせることでも、
まして色を均一に塗りつぶすことでもない。
音も色も、エモリアの呼吸のようなものだ。
少し濃い日もあれば、薄い日もある。
けれど、どの色もどの音も、
その人の中でちゃんと意味を持っている。
私の役目は、
足りないエモリアを探して足すことじゃない。
まじりすぎた色を少しだけほどいて、
その人が自分のエモリアで
息ができるようにすることだ。
完璧な色も、完璧な音も存在しない。
けれど、ゆらいだ色と音が重なり合うとき、
世界は一瞬、静かに調和する。
それを、私は“美しい”と呼びたい。
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✴︎用語解説✴︎
【No.1】調律
エモリアの色と響きを視認・調整し、
心と世界の均衡を保つ技術。
調律士は、音を聴き、色を視、
人と世界のあいだにある“ずれ”を整える奏者。




