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Emoria-雲を空に返す夜に  作者: ume.


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第29話ー母の祈りー

朝の光が、ゆっくりと家の中を満たしていく。

針箱の上に置かれた糸巻きが、金の筋を帯びて輝いた。

いつもならノアの声が響く時間。

けれど今日は、家の中がどこまでも静かだった。


机の上には、ひとつの小瓶が残されている。

ノアが旅立つ朝、慌ただしさの中で置き忘れたもの。

中は空っぽで、封音も宿っていない。

ただの透明な器――それなのに、見ていると胸の奥が疼いた。


指先で瓶をそっとなぞる。

冷たい。

まるで、あの子のいない空気そのもののように。


「……行ってしまったのね。」


声に出してみると、それはため息のように小さかった。

昨日までは、すぐに帰ってくると思っていた。

けれど今はもう、玄関の向こうにあの足音はない。


窓の外では、風が瓶飾りを鳴らしている。

その音が、かつて夫の調律所で聴いた“封音”に似ていた。

祈りの音。

――けれど、私にはもうその響きが少し怖かった。


針を手に取る。

仕事に戻ろうとするが、針先が震えて糸が通らない。

思い出すたび、胸の奥に沈んだ音が目を覚ます。


「ノア……。」


息を吸い込むと、涙の味がした。

あの子の中には、あの人の音が残っている。

――だからこそ、怖い。

再び“祈り”にのまれてしまうのではないかと。


彼の父のように。


あの日のことは、空気の温度まで覚えている。

朝は静かで、針に通した糸がまっすぐ落ちるほど穏やかだった。

けれど、風の向きが一瞬変わった。

その瞬間、遠くで誰かの泣き声が重なった気がした。


「調律師を――呼んでくれ!」

外で誰かが叫んだ。

その声が、壁の中まで震わせた。


夫は黙って立ち上がった。

封環を首から外し、机に置いてあった古い調律器を手に取る。

私が止める前に、扉の向こうへ歩いていた。


「あなた……どこへ」

「大丈夫。いつもの診察だよ。」

笑いながら、そう言った。


でも――その笑顔は、

私の知っている笑顔じゃなかった。


夫が出ていったあと、

私はいつものように針を持った。

けれど、糸が通らなかった。

指が震えて、糸の先が穴を探せなかった。


しばらくして、外の空が変わった。

昼なのに、世界が青く染まった。

洗いざらしの布も、指先の肌も、

まるで深い海の底に沈んだような色になっていた。


外に出ると、青い霧が足元を流れていたという。

少女が広場の真ん中で泣き続けていたらしい。

恋人の船が嵐に呑まれ、戻らなかったと聞いた。

声を枯らして泣くうちに、封音石が共鳴し、

彼女の悲しみは“光”になって広がっていった。


青の暴走は、静かに始まる。

叫びもない。怒りもない。

ただ、世界が“泣く”のだ。


誰かが駆け込んできて叫んだ。

「広場へ! みんな、避難を!」


人の声が凍り、風の音が遠のいていく。

色が薄れ、すべてが淡い藍に沈んでいく。


夫は封環をかざし、光の層を切り裂こうとした。

けれど、悲しみは波のように戻ってくる。

何度封じても、少女の心が新しい波を生み出す。

封環がきしみ、光が軋む。

その音が、私の胸まで響いた。


そのとき、私の胸の奥で“音”が消えた。

針も、風も、何も聞こえなくなった。

ただ――

遠くで、あの人の封環が鳴った気がした。


一度だけ。

深くて、優しい音。


それが、最期の音だった。


その一瞬を最後に、

封環が砕け、光はふたりを包んだ。


気づけば、広場は青い結晶で覆われていた。

風が吹くと、どこかで小さな封音が鳴った。

それが夫の声なのか、少女の涙なのか――

いまでも、わからない。


あとで聞いた話では、

青の光が収まったあと、広場の中央に

砕けた封環の欠片が残されていたという。


誰も近づけなかった。

そこには焦げた大地と、

わずかに淡い光の残滓だけが揺れていた。


夜になって、私はひとりでその場所へ行った。

欠片を拾い上げると、冷たくて指先が痛んだ。

けれど、その中心には、

かすかな脈のような温もりが残っていた。


それ以来、封環の欠片は私の手元にある。

光はもう灯らない。

けれど、夜になると、ときどき――

微かに震える気がするのだ。

まるで、まだ“彼の音”がそこにいるように。



ただ、その日を境に、私は“静寂”を聴くようになった。

針の音にも、風の音にも、どこかに“青”が混じっている。


朝の光が、静かに部屋を満たしていた。

ノアの部屋は、昨夜のままだ。

窓辺に畳まれた上着。机の上には、

一枚の紙と、丁寧に包まれた針山。


「……まったく、置いていくなんて。」

母は苦笑した。

けれど、その声には少し誇らしさが混じっていた。


椅子の下に、小さな封環の欠片が落ちている。

拾い上げると、指先にかすかな温もりが残った。

昨日の朝、あの子に渡したはずのもの。

どうやら、出発のときに落としていったらしい。


胸の奥がちくりと痛んだ。

けれど、涙は出なかった。


――あの人も、そうやって出ていったのだ。


まだ夜が明けきらぬ頃、

「大丈夫、いつもの診察だよ」

そう言って、穏やかに笑って。


そして、二度と帰らなかった。


青の暴走。

あのとき見た光は、今も目に焼きついている。

美しく、冷たく、

まるで世界そのものが凍りついたようだった。


それでも、あの人の残した封環は、

いまもこの家に音を残している。


ときどき夜に、小さな響きがする。

まるで誰かが「ちゃんと聴いてるよ」と

囁いているみたいに。


母は窓を開けた。

外の空気は澄み、遠くの封音塔の鐘が微かに届く。

その音に合わせるように、

家の奥で瓶飾りが小さく揺れた。


光の粒が舞い、

部屋の中で静かな波紋を描く。


「……ノア。」


声に出してみる。

空気がわずかに震えた。


「どんな色を見てもいい。

 でも、帰る場所を忘れないでね。」


その言葉が空気に溶けていく。

彼の背を追うことはもうできない。

けれど、祈りは届く。

この家のどこかで、きっと響いている。


ふと、掌の封環の欠片がかすかに鳴った。

音ではなく、震え。

それは、遠くへ旅立った二人の“音”が

重なった瞬間のようだった。


母は微笑み、欠片を胸に当てた。


「……行ってらっしゃい、ノア。」


外では、朝の光が丘を照らしていた。

その光は青とも金ともつかず、

どこまでも優しく、透明だった。




✴︎リオルの独り言✴︎


青の暴走は、静かな嵐だ。

怒りの赤が燃えるなら、悲しみの青は凍てつく。

叫びではなく、沈黙の中で世界を止めてしまう。


悲しみは本来、他の色を包み、

痛みを癒やすために存在している。

けれど、それを抱えきれなくなったとき――

人の心は“受け皿”を失い、青は溢れ出す。


抑えきれぬほどの悲しみ。

言葉にできぬ喪失。

そうした感情は、いつしか世界の理をも凍らせる。

それが“青の暴走”だ。


暴走した青は、冷たくも美しい。

涙のように澄んでいて、

誰かを傷つけようとはしていない。

ただ、世界が静止するほどに“悲しみが純粋”なのだ。


だから、止めることはできない。

けれど、聴くことはできる。

沈黙の奥で凍った音を見つけ、

もう一度“流れ”を取り戻す。

それが、調律士の役目だ。



✴︎用語解説✴︎

【No.29】青の暴走〈悲の凍結〉


青のエモリアが過度に凝縮し、

周囲の感情の流れを止めてしまう現象。

悲しみを抑え込み続けた場合だけでなく、

人の心が“抱えきれないほどの喪失”に触れたときにも発生する。


この状態では、空との循環が絶たれ、

封音塔の響きすら途絶える。

世界は静止し、風も音も止まり、

悲しみだけが純粋な形で漂い続ける。


調律士は、この沈黙を壊すのではなく、

その奥に残る“声”を聴き取ることで

再び世界に流れを取り戻す。


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