表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Emoria-雲を空に返す夜に  作者: ume.


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/39

第28話 ― 灯の継承 ―

朝の光が、調律所の奥まで届いていた。

棚の瓶たちは静かに光を反射し、

まるで旅立ちを知っているかのように淡く瞬いている。


リオルは旅支度を整え、

アウルは地図と記録をまとめていた。

そんな中、外から小さな足音が近づいてくる。


扉がきぃと音を立てて開いた。

そこに立っていたのはノアだった。

息を弾ませ、顔を真っすぐに上げて言った。


「……僕も、連れていってください。」


その声は小さく、けれど確かな強さを帯びていた。

アウルが思わず振り向き、

リオルは手を止めて静かに彼を見る。


「ノア。理由を聞いても?」


ノアは息を整え、胸を張った。

「だって……いろんな色を見てみたいんです。

 リオルさんみたいに、音を“聴ける人”になりたい。

 世界って、もっとたくさんの色でできてるんでしょう?

 ここにいたら、それを知らないままになっちゃう気がして。」


その言葉はあどけない。

けれど、真っすぐだった。

アウルが眉を寄せ、思わず言葉を探す。


「ノア、この旅は……遊びじゃないんです。

 危険な場所もある。

 ただの“見学”では済まないですよ。」


ノアは首を横に振り、頬をふくらませる。

「知ってます! それでも行きたいんです。

 知らないままの方が、怖いです!」


ノアは唇を噛み、

拳をぎゅっと握りしめたまま言葉を探していた。

そして、胸の奥からしぼり出すように口を開いた。


「……それに、僕、リオルさんみたいに“誰かを助ける音”を聴いてみたいんです。

 いろんな色を知りたい。

 リオルさんについていったら、少しだけ近づける気がして。」


その声は震えていたが、迷いはなかった。

アウルは息を呑み、

リオルは少し目を細めて、その言葉を受け止める。


「ノア、この旅は簡単なものではありません。」

リオルはやわらかく言う。

「行けば、怖い色にも、苦しい音にも出会うでしょう。」


ノアは首を横に振った。

「それでも行きたいんです。

 ここで見てるだけじゃ、何も変わらないから。」


リオルはしばしノアを見つめていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。


「……変えることは、簡単ではありません。

 見ようとするだけでも、傷つくことがあります。

 それでも、自分の目で“世界の色”を確かめたいなら――」


一瞬、彼女の声に小さな震えが混じった。


「その覚悟は、もうあなたの中にあるのかもしれませんね。」


アウルは静かに目を細め、

その横顔を見つめた。

リオルの言葉には、

どこか自分にも言い聞かせるような響きがあった。


そのとき、調律所の外から鋭い声が響いた。


「ノア!」


扉の前に立っていたのは、ノアの母だった。

朝の光の中、息を切らせ、

針山を巻いたままの腕で彼を掴む。


「あなた、何を言ってるの!」

震える声で言いながら、リオルとアウルに深く頭を下げた。

「ごめんなさい。この子、まだ何も知らないんです。」


ノアは俯き、唇を噛んだ。

「知らないけど、知りたいんだ。

 僕にもできることがあるかもしれないって思ったんだ。」


母は息を呑み、言葉を失う。

「……世界は、そんなに優しくないのよ。」

その声には恐れと哀しみが滲んでいた。

「もう二度と、何も失いたくないの。」


部屋の空気が張り詰める。

リオルは静かに二人を見つめ、

やがてゆっくりと口を開いた。


「調律士の旅がどんなものか、あなたは知らないでしょう。

 怪我をするかもしれない、二度と帰れないかもしれないのよ。」


ノアは黙ったまま、握られた手を見る。

その手は、縫い針の跡が無数に刻まれていた。

小さな頃から、その手が自分を守ってきたことを知っている。


「母さん……僕は、大丈夫だよ。」

ノアは静かに言った。

「僕、本当に行きたいんだ。

 知らない色を、聴いてみたい。

 どんな音で人が笑ってるのか、泣いてるのか――

 この街にいるだけじゃ、わからないんだ。」


母は首を振る。

「知らなくていいこともあるの!」

声が裏返る。

「見なくていい場所だってある。

 ……あなたの父さんだって、そうやって――」


その先の言葉を、母は飲み込んだ。

唇が震え、目の奥に涙が溜まる。


ノアは小さく息をのんだ。

父の話を、母が口にしたのは初めてだった。

でも、その続きを聞くことはできなかった。

沈黙の中で、母はただ小さく震えていた。


「……母さん、怖いのはね、僕、何もできないまま大人になることなんだ。」

ノアの声は細く、それでもまっすぐだった。

「リオルさんは、人の心の音を聴ける。

 アウルさんは、空を見上げて考えてる。

 でも、僕は……まだ、何もない。

 だから、行きたいんだ。

 見たことのないものを見て、

 聴いたことのない音を聴いてみたいんだ。」


母は言葉を失い、ノアを見つめた。

その顔に、幼い頃の面影が重なる。

初めて瓶を触ったときの笑顔。

夜、怖い夢を見て泣きながら抱きついてきた手。

そのすべてが今、遠くへ行こうとしている。


「……ノア。」

母は彼の手を取った。

その掌は小さく、けれど確かな温もりがあった。


「あなたが見たい世界は、きっと綺麗なんでしょうね。

 でも、外の世界は光だけじゃない。

 痛いほど冷たい夜もある。

 それでも行くの?」


ノアは一瞬迷った。

けれど、やがて小さく頷いた。


「うん。

 寒くても、光を見つけたい。

 母さんにも、ちゃんと見せたい。」


母は息を詰めた。

そして、静かに目を伏せる。

涙が、針のように頬を伝って落ちた。


「……言っても、聞かないんでしょ。」

少し笑おうとしたけれど、声が震えた。

「ほんと、あなたの父さんに似てる。

 似なくていいところまで。」


ノアは泣きそうになった顔を必死に隠し、

その手をもう一度強く握った。


「必ず、帰ってくる。」


母の目がわずかに揺れる。

ノアは顔を上げ、母の手を握った。


「大丈夫。僕、帰ってくるよ。」


その言葉に、母は唇を震わせながら、かすかに答えた。


母は目を閉じたまま、力を抜いた。


「……行きなさい。」

それは許しではなく、祈りのような言葉だった。


静かな風が調律所を通り抜け、

棚の瓶が一斉に微かな音を鳴らす。

その響きは、別れの涙を受け止めるように優しかった。


ノアはそっと母の手を離した。

母はただ、扉の影に立ち尽くし、

震える唇で小さく呟いた。


「……どうか、この子を、空が守ってくれますように。」


彼女の祈りが届いたかどうかは、

誰にもわからなかった。

けれどその瞬間、棚の瓶のひとつが――

小さく、澄んだ音を鳴らした。


リオルは静かに旅支度を背負い、扉の方を向く。

「行きましょう。」


ノアは最後にもう一度だけ振り返る。

母は何も言わず、

ただ震える指先で、息子の背を見送っていた。


外の光は柔らかく、

空の色はまだ眠たげに白んでいた。

その中を三人の影が並び、

ゆっくりと街の道を歩き出す。

✴︎リオルの独り言✴︎


街の中央に立つ〈クリスタルツリー〉は、

還雲祭の夜に人々の祈りを受け止め、

空へと送り出す“光の樹”。


枝に吊るされた瓶が一斉に輝くとき、

街はまるで空の一部になったように息づく。

その光がすべて空へ還ったあと、

ツリーは静かに立ちつづけ、

淡い余韻を街に残す。


その姿を見るたびに思う。

祈りは消えるのではなく、

世界のどこかで形を変えて息をしている。


だから私は、ツリーの下で風を聴く。

瓶がもうなくても、あの音は確かに残っている。


――それが、この街の“祈りの続き”だ。



✴︎用語解説✴︎


【No.28】クリスタルツリー

王都オルセリアを囲む十の街にそれぞれ存在する、

祈りと封音の象徴。

還雲祭の夜、人々が一年をかけて集めた瓶飾りを吊るし、

女王の祈りの光によって空へ還す儀式の中心となる。


祭りの後もなおツリーは封音塔と共鳴し、

街に穏やかな響きを流しつづける。

それは“祈りのあとに残る音”と呼ばれ、

街の人々にとって心の拠り所となっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ