第28話 ― 灯の継承 ―
朝の光が、調律所の奥まで届いていた。
棚の瓶たちは静かに光を反射し、
まるで旅立ちを知っているかのように淡く瞬いている。
リオルは旅支度を整え、
アウルは地図と記録をまとめていた。
そんな中、外から小さな足音が近づいてくる。
扉がきぃと音を立てて開いた。
そこに立っていたのはノアだった。
息を弾ませ、顔を真っすぐに上げて言った。
「……僕も、連れていってください。」
その声は小さく、けれど確かな強さを帯びていた。
アウルが思わず振り向き、
リオルは手を止めて静かに彼を見る。
「ノア。理由を聞いても?」
ノアは息を整え、胸を張った。
「だって……いろんな色を見てみたいんです。
リオルさんみたいに、音を“聴ける人”になりたい。
世界って、もっとたくさんの色でできてるんでしょう?
ここにいたら、それを知らないままになっちゃう気がして。」
その言葉はあどけない。
けれど、真っすぐだった。
アウルが眉を寄せ、思わず言葉を探す。
「ノア、この旅は……遊びじゃないんです。
危険な場所もある。
ただの“見学”では済まないですよ。」
ノアは首を横に振り、頬をふくらませる。
「知ってます! それでも行きたいんです。
知らないままの方が、怖いです!」
ノアは唇を噛み、
拳をぎゅっと握りしめたまま言葉を探していた。
そして、胸の奥からしぼり出すように口を開いた。
「……それに、僕、リオルさんみたいに“誰かを助ける音”を聴いてみたいんです。
いろんな色を知りたい。
リオルさんについていったら、少しだけ近づける気がして。」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
アウルは息を呑み、
リオルは少し目を細めて、その言葉を受け止める。
「ノア、この旅は簡単なものではありません。」
リオルはやわらかく言う。
「行けば、怖い色にも、苦しい音にも出会うでしょう。」
ノアは首を横に振った。
「それでも行きたいんです。
ここで見てるだけじゃ、何も変わらないから。」
リオルはしばしノアを見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……変えることは、簡単ではありません。
見ようとするだけでも、傷つくことがあります。
それでも、自分の目で“世界の色”を確かめたいなら――」
一瞬、彼女の声に小さな震えが混じった。
「その覚悟は、もうあなたの中にあるのかもしれませんね。」
アウルは静かに目を細め、
その横顔を見つめた。
リオルの言葉には、
どこか自分にも言い聞かせるような響きがあった。
そのとき、調律所の外から鋭い声が響いた。
「ノア!」
扉の前に立っていたのは、ノアの母だった。
朝の光の中、息を切らせ、
針山を巻いたままの腕で彼を掴む。
「あなた、何を言ってるの!」
震える声で言いながら、リオルとアウルに深く頭を下げた。
「ごめんなさい。この子、まだ何も知らないんです。」
ノアは俯き、唇を噛んだ。
「知らないけど、知りたいんだ。
僕にもできることがあるかもしれないって思ったんだ。」
母は息を呑み、言葉を失う。
「……世界は、そんなに優しくないのよ。」
その声には恐れと哀しみが滲んでいた。
「もう二度と、何も失いたくないの。」
部屋の空気が張り詰める。
リオルは静かに二人を見つめ、
やがてゆっくりと口を開いた。
「調律士の旅がどんなものか、あなたは知らないでしょう。
怪我をするかもしれない、二度と帰れないかもしれないのよ。」
ノアは黙ったまま、握られた手を見る。
その手は、縫い針の跡が無数に刻まれていた。
小さな頃から、その手が自分を守ってきたことを知っている。
「母さん……僕は、大丈夫だよ。」
ノアは静かに言った。
「僕、本当に行きたいんだ。
知らない色を、聴いてみたい。
どんな音で人が笑ってるのか、泣いてるのか――
この街にいるだけじゃ、わからないんだ。」
母は首を振る。
「知らなくていいこともあるの!」
声が裏返る。
「見なくていい場所だってある。
……あなたの父さんだって、そうやって――」
その先の言葉を、母は飲み込んだ。
唇が震え、目の奥に涙が溜まる。
ノアは小さく息をのんだ。
父の話を、母が口にしたのは初めてだった。
でも、その続きを聞くことはできなかった。
沈黙の中で、母はただ小さく震えていた。
「……母さん、怖いのはね、僕、何もできないまま大人になることなんだ。」
ノアの声は細く、それでもまっすぐだった。
「リオルさんは、人の心の音を聴ける。
アウルさんは、空を見上げて考えてる。
でも、僕は……まだ、何もない。
だから、行きたいんだ。
見たことのないものを見て、
聴いたことのない音を聴いてみたいんだ。」
母は言葉を失い、ノアを見つめた。
その顔に、幼い頃の面影が重なる。
初めて瓶を触ったときの笑顔。
夜、怖い夢を見て泣きながら抱きついてきた手。
そのすべてが今、遠くへ行こうとしている。
「……ノア。」
母は彼の手を取った。
その掌は小さく、けれど確かな温もりがあった。
「あなたが見たい世界は、きっと綺麗なんでしょうね。
でも、外の世界は光だけじゃない。
痛いほど冷たい夜もある。
それでも行くの?」
ノアは一瞬迷った。
けれど、やがて小さく頷いた。
「うん。
寒くても、光を見つけたい。
母さんにも、ちゃんと見せたい。」
母は息を詰めた。
そして、静かに目を伏せる。
涙が、針のように頬を伝って落ちた。
「……言っても、聞かないんでしょ。」
少し笑おうとしたけれど、声が震えた。
「ほんと、あなたの父さんに似てる。
似なくていいところまで。」
ノアは泣きそうになった顔を必死に隠し、
その手をもう一度強く握った。
「必ず、帰ってくる。」
母の目がわずかに揺れる。
ノアは顔を上げ、母の手を握った。
「大丈夫。僕、帰ってくるよ。」
その言葉に、母は唇を震わせながら、かすかに答えた。
母は目を閉じたまま、力を抜いた。
「……行きなさい。」
それは許しではなく、祈りのような言葉だった。
静かな風が調律所を通り抜け、
棚の瓶が一斉に微かな音を鳴らす。
その響きは、別れの涙を受け止めるように優しかった。
ノアはそっと母の手を離した。
母はただ、扉の影に立ち尽くし、
震える唇で小さく呟いた。
「……どうか、この子を、空が守ってくれますように。」
彼女の祈りが届いたかどうかは、
誰にもわからなかった。
けれどその瞬間、棚の瓶のひとつが――
小さく、澄んだ音を鳴らした。
リオルは静かに旅支度を背負い、扉の方を向く。
「行きましょう。」
ノアは最後にもう一度だけ振り返る。
母は何も言わず、
ただ震える指先で、息子の背を見送っていた。
外の光は柔らかく、
空の色はまだ眠たげに白んでいた。
その中を三人の影が並び、
ゆっくりと街の道を歩き出す。
✴︎リオルの独り言✴︎
街の中央に立つ〈クリスタルツリー〉は、
還雲祭の夜に人々の祈りを受け止め、
空へと送り出す“光の樹”。
枝に吊るされた瓶が一斉に輝くとき、
街はまるで空の一部になったように息づく。
その光がすべて空へ還ったあと、
ツリーは静かに立ちつづけ、
淡い余韻を街に残す。
その姿を見るたびに思う。
祈りは消えるのではなく、
世界のどこかで形を変えて息をしている。
だから私は、ツリーの下で風を聴く。
瓶がもうなくても、あの音は確かに残っている。
――それが、この街の“祈りの続き”だ。
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✴︎用語解説✴︎
【No.28】クリスタルツリー
王都オルセリアを囲む十の街にそれぞれ存在する、
祈りと封音の象徴。
還雲祭の夜、人々が一年をかけて集めた瓶飾りを吊るし、
女王の祈りの光によって空へ還す儀式の中心となる。
祭りの後もなおツリーは封音塔と共鳴し、
街に穏やかな響きを流しつづける。
それは“祈りのあとに残る音”と呼ばれ、
街の人々にとって心の拠り所となっている。




