第27話―眠れる色たち―
丘の坂道をのぼると、風が止んだ。
空気が薄い膜のように張りつめ、音が遠くで折り返している。
その向こう――王都の空に、
淡い十の光の筋が立ちのぼっていた。
あれは封音塔。
空と地上をつなぐ十の柱。
王都から遠く離れたこの丘からでも、
その響きだけはかすかに届いていた。
封音塔の光は、今朝はいつもより弱く見えた。
青の筋は細く、橙の光も霞んでいる。
十の塔が奏でるはずの調和の音色が、
どこか遠くで揺らいでいるように感じられた。
坂道の両脇には、小さな瓶飾りを吊るした家々が並んでいる。
それはこの国ではどこにでも見られる光景――
人々が日々の想いを込めてつくる“祈りの飾り”だ。
小瓶の中には、色とりどりのガラス玉やビーズが入っている。
喜びは橙に、悲しみは青に、願いは白に。
それぞれが自分の感情〈エモリア〉の色を選び、
窓辺に吊るして光にかざす。
朝は太陽の光を受けて、
夜は月の明かりを映して――
人々はその瞬きに、今日の無事と明日の希望を重ねていた。
けれど、その朝は少し違っていた。
風が吹いても、瓶の鳴る音が弱い。
ガラス同士が触れ合っても、
澄んだ音ではなく、どこか遠くの響きのように聞こえた。
アウルは足を止め、耳を澄ます。
街はいつも通りに目を覚まし、人々は穏やかに行き交っている。
子どもの笑い声も聞こえる。
けれど――どこかで音が抜け落ちている。
世界の呼吸が、少し浅くなっているように感じた。
観測院では、まだ“異常値”として報告されるほどではない。
だがアウルにはわかっていた。
これは数値では測れない“静けさ”だ。
誰も気づかぬほどゆっくりと、
空と地上の響きがずれていっている。
その沈黙の外側――
丘の上だけは、変わらぬ空気が流れていた。
風は透明で、音が澄んでいる。
まるでこの場所だけ、
まだ“空と呼吸を合わせている”かのように。
リオルの調律所。
かつて訪れたときと同じ白い屋根が見えてきた。
窓辺には、淡い光を宿した瓶飾りが揺れている。
ビーズのひとつひとつが光を反射し、
風もないのに、
まるで誰かを迎えるように震えていた。
アウルは扉の前で立ち止まり、深く息を吸う。
指先で軽く叩くと、すぐに内側から声が返ってくる。
「いらっしゃい。」
柔らかな声。
音そのものが、
部屋から外へ漏れ出してくるようだった。
扉がゆっくりと開き、光が外へこぼれる。
リオルが姿を現す。
淡い衣の裾が揺れ、瞳には窓辺の瓶飾りの光が映っている。
「お待ちしていました、アウルさん。」
調律所の中は、穏やかな光に満ちていた。
壁一面の棚には無数の瓶が並び、
それぞれが微かな封音を放ちながら揺れている。
橙、青、白、緑、紫――
色の呼吸が重なり合い、
まるで生きた心臓の中に立っているようだった。
アウルは息を呑んだ。
「……ここが、あなたの世界なのですね。」
リオルは静かに笑う。
「ええ。けれど、
今日お見せしたいのは“もう一つの方”です。」
言って、彼女は奥の扉へと歩いていった。
アウルがその背を追うと、
奥には石造りの螺旋階段があり、下方へ続いている。
降りるごとに、空気が変わっていく。
光は薄れ、音は沈み、
瓶たちの揺らぎも遠のいていく。
やがて――静寂が訪れた。
しかし、その沈黙の奥には、かすかな“息”があった。
階段を降りきると、広い地下の部屋が広がっていた。
壁一面に瓶が並んでいる。
だがそれらはすべて、黒だった。
闇そのものを閉じ込めたような色。
瓶の中には何も映らず、
ただ沈黙だけが凝縮していた。
「……これは……」
アウルの声がかすれる。
「黒のエモリアです。」
リオルの声が、灯りのようにやわらかく響いた。
「還雲祭の夜に空へ還れなかった祈り。
行き場を失い、瓶ごとのこってしまったもの。
私は、ここでそれを保管しています。」
「これほどの量を……一人で?」
アウルは息をのんだ。
「誰も聴こうとしなかった音たちですから。」
リオルはひとつの瓶に指先をかざす。
その瞬間、かすかな封音が鳴った。
音ではなく、呼吸のような――
心臓の鼓動のような震え。
「……生きている。」
アウルが呟く。
リオルは静かに頷いた。
「ええ。黒は死ではありません。
“沈黙”は、息を潜めているだけ。
ただ、帰る場所を失ったのです。」
机の上に置かれた金の瓶が、淡く光を放つ。
その光が、黒の瓶たちをわずかに照らした。
「暴走のとき、陛下からこぼれ落ちた祈り。
空と地上の境で、まだ役割を探している光。
私はこれを使って、
黒の声を導けるかもしれないと思っています。」
アウルは瓶の群れを見つめた。
黒の中に、ほんのかすかに青や紫の揺らぎが見える。
それは、他の色が沈み込んで眠っている証だった。
「……まるで、夜の海のようですね。」
リオルは小さく笑みを浮かべた。
「夜がなければ、朝もありません。
黒は、終わりではなく、
再生のはじまりなんです。」
そう言って、金の瓶の封をわずかに緩めた。
淡い光がひとすじ、闇の中に流れ出す。
その瞬間――黒の瓶たちが、かすかに鳴いた。
悲鳴ではない。
祈りのような、懐かしい響き。
まるで遠い場所から「まだここにいる」と
伝えているようだった。
アウルは、目を見開いた。
「……音が、返ってきた。」
リオルは封を閉じ、瓶を抱くように手を添えた。
「ええ。ほんのわずかですが。」
「黒は、癒すことではなく、
“聴くこと”から始まります。
沈黙を壊すのではなく、
もう一度、世界とつなぐ糸を探すんです。」
静寂の中で、封環がかすかに揺れた。
銀の輪が鳴らす微音が、黒の海にゆるやかに広がる。
瓶の奥で、かすかな光が点滅した。
アウルはその光を見つめながら、
胸の奥で小さく呟いた。
「……あなたとなら、
沈黙の意味を知れる気がします。」
リオルは応えるように目を閉じ、
静かに、黒の瓶たちの声に耳を澄ませた。
――その時だった。
上階の扉が、控えめにノックされた。
二人が顔を上げる。
「リオルさん、本当に戻ってたんだ!」
ノアが立っていた。
息を弾ませ、手には一通の封筒を握りしめている。
「どうしたんです?」
リオルが尋ねると、ノアは封筒を差し出した。
「これ……知らない男の人に渡してほしいって
頼まれたんです。
“リオル調律師に”って。」
アウルが眉をひそめる。
「差出人は?」
「名前は、聞いてません。
でも――リオルさんとおなじ
調律士だって言ってました。」
リオルは封筒を受け取り、指先で封をなぞった。
中には、整った筆跡で書かれた短い文。
“診てほしい人がいる。”
“あなたでなければならない。”
その文の下に、見覚えのある署名。
――学友の名があった。
リオルは少し目を伏せ、
淡く微笑んで封筒を閉じた。
「……この手紙の差出人に、会いに行きます。」
少し間をおいて、アウルを見つめる。
「アウルさん。まずは――
隣町からでも、いいでしょうか?」
アウルは息をのみ、
やがてゆるやかに微笑んで頷いた。
「もちろんです。
陛下のためにも、この国のためにも……
その旅が、きっと道を照らすはずです。」
リオルは静かに立ち上がり、
手の中の金の瓶を抱きしめるように持ち直した。
窓の外、丘の上の〈クリスタルツリー〉が
風を受けて淡くきらめく。
それは、夜明け前の空に浮かぶ
最初の祈りのように見えた。
✴︎リオルの独り言✴︎
王都オルセリアを囲むように、
十の街が環を描いて広がっている。
それぞれの街には、
十の封音塔と呼応する街のシンボル
〈クリスタルツリー〉が立っている。
ツリーは、すべての色を均等に受け入れる“中立の樹”。
どの街でも、その形は少しずつ異なるけれど、
どの枝にも、偏りのない光が宿る。
私が暮らす〈エルネア〉にも、ひとつのツリーがある。
その樹は夜になると空の光を集め、透明な葉をゆらす。
風が吹くたび、瓶飾りが小さく鳴り、
まるで空と地上が同じ呼吸をしているように聴こえる。
この街では、
どんな色も“祈りの証”として受け入れられる。
黒も、悲も、怒も、
どの色も“生きている”と知っているからだ。
人々は夜ごと、瓶を下げてツリーの根元で祈る。
色が混ざり合い、静けさの中で一晩眠る。
朝になると、光がゆっくりと目を覚ます。
それを見て、私はいつも思う。
――この世界は、まだ息をしている。
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✴︎用語解説✴︎
【No.27】リオルの街
王都オルセリアの北にある丘の街。
青の封音塔〈静〉と共鳴し、
「エモリアを聴く」調律士や瓶職人が多く暮らす。
街の中央には〈クリスタルツリー〉がそびえ、
夜になると封音の光を受けて透明に輝く。
ツリーはすべての色を受け入れ、
決して特定の色には染まらない。
それが、この世界の“均衡”を象徴する
存在となっている。




