第25話―祈りの夢―
静寂が訪れてから、
どれほどの時が経ったのか。
祈祷の間を満たしていた金の奔流は鎮まり、
いまはただ、瓶の中でかすかな光が揺れている。
それは――
女王アリシアの夢の中で呼吸していた。
光の海は、
ゆるやかに波打ちながら彼女を包んでいる。
冷たくもなく、熱くもない。
懐かしい記憶に似た温度。
まるで世界そのものが、
彼女を抱きしめているようだった。
空も地も、音も時間もない。
ただ、無数の封音が金の粒となって漂っていた。
それは人々の祈りの残響。
かつて自分が空へと送り出した声たちが、
いま、彼女のもとへ帰ってきている。
次第に金の粒が波のように揺れ、
女王アリシアの、
肌も、衣も、髪も、光に溶けていく。
重さというものが存在しない。
彼女のまわりで、
十の色の影がゆるやかに脈を打っている
はずだったこの海を、
満たしているのはただ金だけ。
あたたかくて、やさしくて、
それなのに、少し痛い。
「……これは、私の祈りの残響……?」
呟いた声は泡のように消えた。
届けるはずの祈りも、空も、
ここにはない。
ただ光が流れ、息の代わりに
胸の奥が微かに脈を打っている。
彼女は思い出そうとする。
誰かの声。
自分を呼ぶ、確かな響き。
――銀の輪の音。
その音が届いた瞬間、
金の海が静かに揺れた。
遠くで、光の粒が一つ、弾ける。
そして、その中から“瓶”の形が
ひとつ、またひとつと、浮かび上がった。
浮かび上がった瓶の中には、
かすかに揺れる灯。
金のようで、白のようで――
目を凝らすと、それは人々の記憶だった。
笑う子ども。
誰かを見送る手。
雨の日の小さな傘の下。
それぞれの瞬間が、
瓶の中で淡く光を放っている。
アリシアは、その中のひとつ手に伸ばした。
指先が触れた瞬間、
音にならない声が胸の奥に流れ込んでくる。
「ありがとう」
「おかえり」
「また、明日も空を見ようね」
その言葉は、祈りでも願いでもなかった。
ただ、生きることの中に宿る“ささやかな灯”だった。
女王は目を閉じ、
胸の奥に波のような痛みを覚えた。
「私は……この光を空へ還すために祈っていたのに。」
けれど、どれだけ手を伸ばしても、瓶は増えていく。
「……こんなにも、多く。」
彼女の声に呼応するように、
遠くで封音のような低い響きが鳴った。
金の海がゆるやかに波打ち、
瓶の中の光たちがその震えに合わせて呼吸を始める。
アリシアはその一つひとつを
手のひらで受け止めながら、
胸の奥でかすかに微笑んだ。
「……これは、わたしが捧げた祈り。」
懺悔のようでもあり、再会のようでもあった。
祈りは確かに空へ届いていた。
けれど、その流れがいつの間にか滞り、
彼女自身の中に溜まっていたのだ。
空映晶の光、十の塔の響き、
人々の祈り、そして自らの願い――
それらすべてが彼女の中で循環し、
出口を見失っていた。
「……祈りを捧げるのに必死で、
世界の声を聴けなくなっていたのね。」
それは後悔ではなく、静かな悟りだった。
空と地上を繋ぐための祈りが、
いつしか“自分だけの声”に
なっていたことに気づいたのだ。
けれどその気づきは、痛みではなかった。
金の光は、あたたかく彼女の頬を撫で、
やさしく言葉の代わりに応える。
――だいじょうぶ。
アリシアの目の前に、
小さな瓶がひとつ浮かんでいた。
その中には、淡い金の粒が揺らいでいる。
まるで灯火のように、かすかに明滅していた。
その封音は、彼女の夢の中に直接届いた。
――やすんでください。
それは、リオルの声だった。
やさしく、深く、
世界の理そのものに似た音。
その響きが胸に落ちた瞬間、
金の光がやわらかく溶け、
瓶の中で十の色にほどけていった。
橙の“嬉”が胸を温め、
青の“悲”が頬を濡らし、
白の“信”が光を保ち、
黒の“虚”までも、やさしい陰として寄り添う。
桃の“恋”、緑の“尊”、紅の“怒”、黄の“誇”、紫の“嫉”――
そして、最後に白金の“愛”が静かに脈を打った。
十の色が交わり、
まるで心臓が再び動き出すように、
光の層が呼吸を取り戻していく。
アリシアは手を胸にあて、そっと目を閉じた。
祈りが再び、世界へ流れ出していくのを感じる。
遠くの封音塔が、低く、
ゆるやかに鳴りはじめていた。
「……ありがとう。」
その言葉は夢の中ではなく、
現実の祈祷の間で、かすかに唇からこぼれた。
彼女の身体を包む金の光が、
小さな波紋を描きながら瓶の中へ吸い込まれていく。
その光景を見つめていた神官たちは、
思わず膝をついて祈りの姿勢を取った。
アウルは胸に手を当て、
女王の顔を見守りながら、低く息をついた。
「……陛下の光が、穏やかになった。」
傍らで、リオルは封環を静かに下ろした。
銀の輪がかすかに震え、
最後の封音を残して静止する。
祈祷の間を満たしていた光が沈み、
空映晶はようやく透明さを取り戻していた。
残されたのは、ゆるやかに漂う金の粉。
それはまるで、
世界が再び呼吸を始めた証のようだった。
アリシアの胸が、ゆっくりと上下している。
その表情には深い安らぎが宿っていた。
リオルはその様子を見つめ、
静かに膝を折った。
「……祈りは、ようやく空へ帰った。」
アウルが振り向き、低く問う。
「陛下は、目を覚まされるでしょうか。」
リオルは小さく首を振った。
「しばらくは眠りにつかれるでしょう。
今必要なのは――“休息”です。」
封音石がその言葉に呼応するように、
微かな光を揺らめかせた。
それはまるで、王宮そのものが
安堵の息をついたかのようだった。
外では、夜明けが始まっていた。
十の塔が順に光を放ち、
青が空を染め、橙が街を照らす。
祈祷の間の窓からこぼれる光は、
淡い金と白のあいだで静かに呼吸していた。
アウルは振り返り、
ランタンのように輝く瓶の群れを見上げる。
「……まるで、空の星みたいだ。」
リオルはその隣で目を閉じ、
小さく頷いた。
「いいえ、これは人の祈りです。
きっとまた、空へ還ります。」
瓶たちはゆるやかに回転し床に着地する。
瓶に入りきれず行き場を失った金の粒が
舞い上がり、薄明の空へと溶けていくようだった。
静寂。
けれどその静けさの奥では、
確かに音が生まれ始めていた。
✴︎リオルの独り言✴︎
愛のエモリアは、白金。
祈りの金のエモリアともっとも近い色。
けれど、その光は空へ向かうのではなく、
人と人のあいだで静かに灯る。
金が“願いを届ける光”なら、
白金は“想いを受け取る光”。
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✴︎用語解説✴︎
【No.25】愛のエモリア ― 白金
人の心の“慈しみ”と“受容”を象徴するエモリア。
祈りの金に最も近い波長を持つ。
白金のエモリアが満ちているとき、
人は他者の想いをやわらかく受け入れ、
自分自身の祈りも穏やかに循環する。
過剰になると“献身”が“依存”へと変わり、
欠けると“孤独”が“祈りの断絶”を生む。
そのため白金は、調和の象徴であると同時に、
もっとも繊細な色とされている。




