第19話ー光の兆しー
朝の光が、
ゆるやかに瓶の列を照らしていた。
調律所の空気は、まだ少し冷たい。
窓をすべて開け放つと、
かすかな風が入り、硝子の音がいくつも重なった。
机の上には、淡く揺らめく瓶が並んでいる。
そのひとつに、リオルは静かに手を伸ばした。
瓶の奥に漂う雲は、昨日よりも明るい。
黒は確かに薄まり、
その隙間に青や白の粒が混ざり始めていた。
「……よく、呼吸していますね。」
リオルは記録帳に筆を走らせ、
ゆっくりと瓶を棚に戻した。
部屋の奥では、レイラが眠っている。
頬にはわずかに赤みが差し、
指先の震えも落ち着いてきた。
扉をノックする音。
リオルが顔を上げると、
瓶屋の青年・レネスが立っていた。
「おはようございます、リオルさん。
今日は瓶の納品に来ました。」
彼の手には、
木箱に詰められた透明な瓶がいくつも並んでいた。
リオルは頷き、箱の中を覗き込む。
「とてもいい仕上がりです。
以前よりも、色が柔らかい。」
「……色、ですか?」
「はい。瓶は、
作り手の感情〈エモリア〉の色が影響します。
作り手の心が穏やかだと、
瓶の色もどこかやさしくなるんです。」
レネスは少し照れたように笑った。
「妹のことで気が張っていたのかもしれません。
でも、あの子が少し良くなってきたと聞けて……
肩の力が抜けた気がします。」
「ええ。もう少しで、黒も安定するでしょう。
あの子の中には、
まだ柔らかな色が残っています。」
レネスは胸に手を当て、
安堵の息を吐いた。
「……本当に、ありがとうございます。」
リオルは小さく首を振った。
「私は導いただけです。
彼女が自分で、光を思い出したんですよ。」
静かな間。
そのあと、レネスはふと顔を上げた。
「…… 余計なお世話かもしれませんが、
最近ちゃんと食事を取っていますか?
あなたが倒れたら大変です。」
リオルは一瞬きょとんとしてから、
静かに微笑んだ。
「……そうですね。気をつけます。」
レネスは少し安心したように頷き、
包みから焼きたてのパンを取り出した。
「これ、よかったら食べてください。
さっき焼きたてを買ってきました。」
リオルはその包みを受け取り、
「ありがとうございます」と静かに答えた。
日が傾きはじめたころ、
レイラの部屋からかすかな寝息が聴こえてきた。
光の粒が黒い陰を漂い、
あんなに多かった黒のエモリアが
正常値まで溶けかけている。
「……もう少しですね。」
その時、扉が小さく叩かれた。
こん、こん、と控えめに二度。
リオルが開けると、
そこには見覚えのある少年――ノアが立っていた。
以前よりも少し背が伸び、
瞳に柔らかな光が宿っている。
「……この前のキャンディ、おいしかった。
ありがとう。」
リオルは驚いたように目を瞬かせ、
やがて静かに微笑んだ。
「そう。なら、もう少し甘いのをあげましょう。」
ノアは小さく頷いた。
夕日の光が瓶を透かし、
二人のあいだに橙色の粒が舞った。
リオルはそれを見つめながら思う。
人はこうした小さな出来事の積み重ねで
“光の味”を思い出すのかもしれない。
✴︎リオルの独り言✴︎
焼きたてのパンを受け取ったとき、
かすかに“橙の光”が手のひらに宿った気がした。
レネスさんが買ってきてくれたそのパンは、
ブランシェベーカリーのものだという。
ノアがかつて、その香りに足を止めた店。
香ばしい匂いの奥には、
“誰かを想って焼く”という想いが息づいている。
きっとそれが、パンという形のエモリアなのだろう。
火と粉と優しさが混ざると、
世界は少しだけ橙を増やしていく。
人の温度は、こうして巡っているのかもしれない。
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✴︎用語解説✴︎
【No.19】ブランシェベーカリー
王都南通りにある老夫婦の営むパン屋。
名物は、雲の形をした“エモリアパン”。
香ばしい生地の中に、ほんのり甘い香りが混ざる。
その匂いは“嬉〈うれ〉のエモリア”の色にも近く、
人々の心をそっと温めると言われている。
ノアがかつてその香りに惹かれ、
「おいしい」と言葉をこぼしたのもこの店だった。
日々の小さな光を焼き上げるように、
今日も橙の香りが街を包んでいる。




