第12話ー夕暮れの色ー
夕暮れの光が、街を淡く包んでいた。
白に溶けていた空は、
いまは橙と青のあいだをゆらいでいる。
ノアは扉の前に立っていた。
木の表面には、小さな傷がいくつも走っている。
そのひとつひとつが、
時間の形をしているように見えた。
「……ここです。」
リオルの声が静かに落ちた。
ノアはうなずいた。
けれど、手はなかなか動かなかった。
扉の向こうにいるひとを思い浮かべようとするたび、
胸の奥の光が揺れて、
言葉の形にならずに消えていく。
リオルは一歩下がり、
その背をそっと見守った。
ノアは深く息を吸い、
手のひらを扉にあてる。
木の温もりが掌にひろがり、
心臓の音がひとつだけ大きく響いた。
こん、こん、と二度。
扉を叩く音がした。
しばらくして、
内側で何かが動く小さな音。
戸が少しだけ軋み、
隙間からあたたかい空気がこぼれた。
セナが立っていた。
驚きと安堵が混ざった瞳。
けれど、その奥に、
言葉にならない影が揺れている。
ノアはゆっくりと顔を上げた。
「……ただいま。」
その胸の奥で、橙の灯がかすかに揺れている。
まだ頼りなく、息と一緒に消えそうな光。
「……ノア?」
その声には、
やさしさよりも確かめるような響きがあった。
セナは言葉を探すように、唇を動かした。
「どこに……」
その言葉の先が続く前に、
彼女の視線がリオルに触れた。
灰の衣の裾が、夕暮れの光を受けて淡く光る。
その姿を見た瞬間、
セナの胸の青が、少し濃くなった。
リオルは小さく頭を下げた。
「少しだけ、橙の光を拾ってきました。」
セナはうなずいた。
その瞬間、ノアの中の橙がゆらぎ、
セナの青と、かすかに重なった。
ふたつの色は混ざらず、
ただ、同じ呼吸をするように寄り添った。
青は橙のあたたかさを受けてやわいでいく
リオルは、それを見ていた。
空気の層が静かに溶け合い、
部屋の光がやわらかく変わっていく。
調律の音は鳴らない。
それでも世界は、確かに整い始めていた。
セナの唇が、かすかに動いた。
「……おかえり。」
ノアはうなずいた。
その仕草に、橙が少し濃く灯り、
青のなかに淡い白が差した。
リオルは小さく息を吐いた。
「……これでいい。
少しずつ、進んでいくんだ。」
もう言葉はいらなかった。
青と橙が寄り添う光を背に、
リオルは静かに通りへと歩き出した。
風が吹き、瓶飾りが鳴る。
その音は、どこか優しく、
色を越えて調和したひとつの響きのように聞こえた。
✴︎リオルの独り言✴︎
瓶飾りは、ただの飾りではない。
人は、心のかたちを目に見えるものにしたがる。
それは弱さではなく、
自分の中に灯る“なにか”を確かめるための、
小さな祈りのようなものだ。
風が吹くたびに、瓶は鳴る。
その音は、街の心が呼吸する音。
泣いている人も、笑っている人も、
同じ風のなかで音を響かせている。
もし世界がひとつの瓶だとしたら、
私たちはみんな、その中の光の粒なのかもしれない。
⸻
✴︎用語解説✴︎
【No.12】瓶飾り(びんかざり)
街の屋根や通りに吊るされている装飾瓶。
調律士だけが扱える「本物のエモリア」に憧れ、
人々がガラスやビーズで模したものを作りはじめた。
中には願いや想いの欠片を込める風習があり、
風に鳴る音は“街の心の呼吸”とされている。
還雲祭では、祭壇にかけた瓶飾りが
夜の風とともに光を放つこともあるという。




