第10話ー白が溶ける朝にー
朝の光が、
調律室の窓からやわらかく差し込んでいた。
リオルは外に出て、石畳のすき間に小さな皿を置く。
少し温めたミルクが、湯気を立てていた。
このあたりに住みついている親猫が、
静かに足元へ近づいてくる。
続いて、細い影のような子猫が顔をのぞかせた。
親猫は皿を前足で押しやり、
子に鼻先を向ける。
けれど子猫は匂いを嗅いだだけで、
すぐに身を引いてしまった。
「……いらないの?」
リオルの声に、親猫が小さく鳴いた。
その声は、叱るでも、呼ぶでもない。
どうしていいのか分からないような、
小さな悲しみの音だった。
風が通り抜け、皿のミルクの表面がわずかに揺れる。
リオルはその光のゆらぎを見つめ、
胸の奥にかすかな痛みを覚えた。
「……まだ、時間が必要だね。」
猫たちはしばらく見つめ合い、
やがて親猫が子の隣に寄り添った。
ふたりの影が重なり、
朝の通りの上でゆっくりとひとつになった。
──そのとき、戸を叩く音がした。
軽やかだが、少しだけためらいを含んでいる。
「リオルさん……
またお願いしてもいいかしら。」
扉の向こうには、市場の常連の女性が立っていた。
かつてセナのことを気にかけ、
リオルのもとを訪ねてきたあの人だ。
リオルは柔らかく微笑んだ。
「おはようございます。どうかされましたか?」
「……あの親子、最近見ないの。
ノアくん、この前ひとりで歩いてるのを見たけど、
なんだか虚ろな感じだったのよ。」
彼女の声は心配よりも、
胸の奥に残った重さを確かめるようだった。
リオルは小さくうなずく。
「……そうですか。」
猫が足元を通り抜け、
外の通りへと出ていった。
風がそのあとを追うように吹き込み、
瓶棚の封音が、ひとつだけかすかに鳴った。
「少し、行ってきます。」
光を受けた衣の裾が、
一瞬だけ白く揺れた。
リオルは静かに扉を開けた。
外の光が差し込み、
猫の足跡と重なるように、
彼の影が伸びていった。
***
街はもう、還雲祭の賑わいを忘れかけていた。
飾りは片づけられ、通りにはいつもの穏やかな空気が流れている。
それでも、角を曲がるたびに、
どこかでまだ光の名残が瞬いていた。
リオルは歩きながら、
人々の声と足音の重なりを感じていた。
笑い声、呼び込みの声、靴音。
それらが街という“ひとつの旋律”をつくっている。
けれど、通りの先に差しかかったとき、
その旋律の中にひとつだけ“途切れ”があった。
そこだけ、音が吸いこまれたように、
世界が少しだけ沈んでいる。
リオルは足を止めた。
視線の先、石畳の隅に少年が立っていた。
ノアだった。
小さな影が陽の中に溶けそうなほど薄く、
空を見上げている。
何を見ているのか、
その瞳はどこにも焦点を結ばない。
リオルはゆっくりと近づいた。
通りの音が遠のき、
小鳥の声だけがかすかに響く。
「……また会いましたね。」
少年は少しだけ顔を向けた。
そして、ためらうように口をひらく。
「……こんにちは。」
リオルは微笑む。
「こんにちは。」
短い沈黙が落ちた。
けれど、その静けさはどこか優しい。
「……なにか、感じますか?」
ノアはうつむいたまま、
しばらく考えるように手を握った。
「……わかんない。
でも、ちょっと、ざわざわする。」
リオルは少しだけ目を細めた。
「……そう。」
それだけを言って、
ゆるやかに微笑んだ。
そして、衣の内側から小さな包みを取り出す。
光を透かす琥珀色の飴玉が、掌の上できらめいた。
「よかったら、どうぞ。」
ノアはためらいながら受け取り、
そっと口に含む。
「……あまい。」
リオルは何も言わなかった。
ただその表情に、
朝の光のような穏やかさが差していた。
ふと、ノアの肩に落ちた影が、
一瞬だけ白く透けた。
それは、名もなき小さな希望のかたちだった。
✴︎リオルの独り言✴︎
白のエモリアは、
信じる心と、希望の色だ。
人を赦すときも、
自分を赦すときも、
その光はそっと灯る。
言葉よりも静かに、
世界を少しだけあたためる。
✴︎用語解説✴︎
【No.10】信ー白のエモリア ―
白のエモリアは、信じる心と希望の色。
人々の中で静かにあらわれる光。
他のどの色とも争わず、
すべてを包み、やわらげる。
それはきっと人がもう一度、
世界を信じようとするときに宿る色。
白は導かず、ただ寄り添う。
その小さな灯りが、
心をそっと前へと照らす。




