表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ナガレ

作者: 早田 サナカ

 川の流れと時間の流れは、反比例する。


 これは私が編み出した非公式な公式であって、誰かに公開などしたことは無いのだが、恐らく真理なのだろうと思っている。

 公式と言えば、木から林檎が落ちるのを見て、重力に気づいた稀代の天才がいたというのは有名だ。ただ、それならなぜ、会社であれほどの重圧を受けている私の頭が、ほっそい頚椎(けいつい)に引っ付いていられようか。私の頭は、いつ「落ちる」やもしれぬ。


 まあ、項垂(うなだ)れるのも大概にして、今日くらいゆっくり休むか。私は脱衣所で、温泉への最後の砦を目の前にして、自らの豊満なナイスボディから目を逸らし、裸一貫になろうとしている。今どき、イカですら二貫で提供されるというのに、私は未だ「一貫」の高級品である。


 そんな私に相応しく、ガラリと戸を開けた先にあったのは、貸切の風呂と、そして大滝である。

 勝ったな、ガハハ。浸って、ほおと息を吐く。


 待てよ、この広さ、泳げる。私が温泉文化の禁忌を犯そうとしたときだった。

「奇遇じゃな。」

 見慣れた裸が、私の横に並んできた。


 まさかの、親父だった。

「おい、ちょいと昔みたいに背中でも流してくれんか。」

 平気でこんなことを依頼してくるわけだから困りものである。むしろ流して欲しいのは私の方なのに。


 嫌だね。

「いいよ。」

 思考とは反対の言葉を口走りやがった私の口を、二度と開けないようにしたいと思った。でも、この風呂の後に待っている、旅館の夕食のときだけは許してやろうと思った。


「ありがとう。」

「今日は妙に、しおらしいじゃないか、親父。いつもは礼なんて俺に言わないだろ。」

 親父はしばらく黙っていて、やっと口を開いた。

「まあ、背中流してくれりゃあ、いいんだ。」

 この図々しさは、やはり親父だなと思った。



「ああぁ、気持ちええ。」

 懐かしい背中を擦る。昔に比べて、割と綺麗だった。


「上手になったな、お前。」

 まあ、喜んでくれているのは悪くない。

「そういえば、お前、最近どうだ。なんかいい話でもないのか。」

 いい話と言われても、特にないので、私は「流れの公式」について語ってやることにする。


「なに?川の流れの早いところの方が、時間の流れが遅ぇって?お前そりゃ当たり前だ。」

 背中は語り続ける。

「街はな、海に近ぇところにできるんだ。だから、急な川なんて、山がある田舎にしかねぇの。」

 そういえば親父は、地理の教師だった。俺のタオルは背中の()()()に差し掛かる。


「でもよ、当たり前のことに気づけるってのも大事なんだ。」

 親父が言う。

「ワシはな、ずっと憧れてたよ。父と息子ってやつに。」

 私は黙って聞いていた。

「だからな、お前が産まれてくれたとき、そりゃもう嬉しかったんだ。どうか、それを忘れんでくれや。」


「何言ってんだいきなり、気持ち悪ぃな。」

 また口が勝手に言いやがる。ちょっとは、礼くらい言いたかったのに。

「気持ち悪ぃついでに、今日はワシがお前の背中流してやるよ。」

「どうしちまったんだ親父。」

「まあ、黙って後ろ向け。」


 ゴシゴシと背中を擦ってくる剛腕である。

「お前汚ぇな、なかなか流れねぇじゃねぇか。」

「うるせえ。」

 私の背中には、全てが「垢土」ばかりのエアーズロックが積み上げられていたらしい。背中を擦り続けること五分くらいだろうか、やっと目処がついたのか、親父がその手を緩めながら、私にまた話しかけてくる。


「お前さ、いま彼女とか、いないのか?」

「いないね。男一貫だね。」

「いたじゃねぇかついこないだまで、ほらお前が熱のときなんか持ってきてくれた子、いたろ?」

「親父いつの話してんだよ、それ小学校ん時だし。それに彼女じゃねえし。」

「でも、好きだっただろ。赤くなってやがった。」

「熱のせいにきまってら。」


 気を許すとすぐこれなので面倒くさい。ただ、不思議と悪くない時間だった。

「まあ、いいか。よし、あと少しだ。」

 そう言われて、もう少し「地層」を重ねておけばよかったと思った。


「よーし、綺麗になったな。じゃあ、ワシは行くからな。達者にやれよ。応援してる。負けんなよ、絶対。」

(だからよ、まだこっちに来るなよ。ちゃんと、帰れよ。)


 親父の声が、どこか違うところから聞こえた気がして振り向くと、そこには誰もいなかった。

「親父……?」

 気づけば私は、ただ裸で座っていた。ふと目を上げると、その一瞬、本当に一瞬だけ、私には眼前の滝の水が、止まっているように見えた。

「お……」

 呟いた私の声に呼応するように、また滝は流れを作り始める。


 どうやら「落ちる」には、まだ早いらしい。

「俺さ、ちゃんともう一回、やり直してみるよ。そしたらまたさ、いっぱい垢まみれになるだろうからさ、また流してくれねぇかな。きっと、きっとまたここに来るから。絶対。」

 聞こえやしないか。でも、これでいいのだと思う。

「親父、ありがとう。」

 今度はちゃんと、声に出ていますように。


 川の流れと時間の流れは、反比例する。

 少なくとも、俺たち親子の間では、きっと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ