ナガレ
川の流れと時間の流れは、反比例する。
これは私が編み出した非公式な公式であって、誰かに公開などしたことは無いのだが、恐らく真理なのだろうと思っている。
公式と言えば、木から林檎が落ちるのを見て、重力に気づいた稀代の天才がいたというのは有名だ。ただ、それならなぜ、会社であれほどの重圧を受けている私の頭が、ほっそい頚椎に引っ付いていられようか。私の頭は、いつ「落ちる」やもしれぬ。
まあ、項垂れるのも大概にして、今日くらいゆっくり休むか。私は脱衣所で、温泉への最後の砦を目の前にして、自らの豊満なナイスボディから目を逸らし、裸一貫になろうとしている。今どき、イカですら二貫で提供されるというのに、私は未だ「一貫」の高級品である。
そんな私に相応しく、ガラリと戸を開けた先にあったのは、貸切の風呂と、そして大滝である。
勝ったな、ガハハ。浸って、ほおと息を吐く。
待てよ、この広さ、泳げる。私が温泉文化の禁忌を犯そうとしたときだった。
「奇遇じゃな。」
見慣れた裸が、私の横に並んできた。
まさかの、親父だった。
「おい、ちょいと昔みたいに背中でも流してくれんか。」
平気でこんなことを依頼してくるわけだから困りものである。むしろ流して欲しいのは私の方なのに。
嫌だね。
「いいよ。」
思考とは反対の言葉を口走りやがった私の口を、二度と開けないようにしたいと思った。でも、この風呂の後に待っている、旅館の夕食のときだけは許してやろうと思った。
「ありがとう。」
「今日は妙に、しおらしいじゃないか、親父。いつもは礼なんて俺に言わないだろ。」
親父はしばらく黙っていて、やっと口を開いた。
「まあ、背中流してくれりゃあ、いいんだ。」
この図々しさは、やはり親父だなと思った。
「ああぁ、気持ちええ。」
懐かしい背中を擦る。昔に比べて、割と綺麗だった。
「上手になったな、お前。」
まあ、喜んでくれているのは悪くない。
「そういえば、お前、最近どうだ。なんかいい話でもないのか。」
いい話と言われても、特にないので、私は「流れの公式」について語ってやることにする。
「なに?川の流れの早いところの方が、時間の流れが遅ぇって?お前そりゃ当たり前だ。」
背中は語り続ける。
「街はな、海に近ぇところにできるんだ。だから、急な川なんて、山がある田舎にしかねぇの。」
そういえば親父は、地理の教師だった。俺のタオルは背中の河口部に差し掛かる。
「でもよ、当たり前のことに気づけるってのも大事なんだ。」
親父が言う。
「ワシはな、ずっと憧れてたよ。父と息子ってやつに。」
私は黙って聞いていた。
「だからな、お前が産まれてくれたとき、そりゃもう嬉しかったんだ。どうか、それを忘れんでくれや。」
「何言ってんだいきなり、気持ち悪ぃな。」
また口が勝手に言いやがる。ちょっとは、礼くらい言いたかったのに。
「気持ち悪ぃついでに、今日はワシがお前の背中流してやるよ。」
「どうしちまったんだ親父。」
「まあ、黙って後ろ向け。」
ゴシゴシと背中を擦ってくる剛腕である。
「お前汚ぇな、なかなか流れねぇじゃねぇか。」
「うるせえ。」
私の背中には、全てが「垢土」ばかりのエアーズロックが積み上げられていたらしい。背中を擦り続けること五分くらいだろうか、やっと目処がついたのか、親父がその手を緩めながら、私にまた話しかけてくる。
「お前さ、いま彼女とか、いないのか?」
「いないね。男一貫だね。」
「いたじゃねぇかついこないだまで、ほらお前が熱のときなんか持ってきてくれた子、いたろ?」
「親父いつの話してんだよ、それ小学校ん時だし。それに彼女じゃねえし。」
「でも、好きだっただろ。赤くなってやがった。」
「熱のせいにきまってら。」
気を許すとすぐこれなので面倒くさい。ただ、不思議と悪くない時間だった。
「まあ、いいか。よし、あと少しだ。」
そう言われて、もう少し「地層」を重ねておけばよかったと思った。
「よーし、綺麗になったな。じゃあ、ワシは行くからな。達者にやれよ。応援してる。負けんなよ、絶対。」
(だからよ、まだこっちに来るなよ。ちゃんと、帰れよ。)
親父の声が、どこか違うところから聞こえた気がして振り向くと、そこには誰もいなかった。
「親父……?」
気づけば私は、ただ裸で座っていた。ふと目を上げると、その一瞬、本当に一瞬だけ、私には眼前の滝の水が、止まっているように見えた。
「お……」
呟いた私の声に呼応するように、また滝は流れを作り始める。
どうやら「落ちる」には、まだ早いらしい。
「俺さ、ちゃんともう一回、やり直してみるよ。そしたらまたさ、いっぱい垢まみれになるだろうからさ、また流してくれねぇかな。きっと、きっとまたここに来るから。絶対。」
聞こえやしないか。でも、これでいいのだと思う。
「親父、ありがとう。」
今度はちゃんと、声に出ていますように。
川の流れと時間の流れは、反比例する。
少なくとも、俺たち親子の間では、きっと。