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じゃあ見てて、これが私の幸せ

作者: Y.Itoda

挿絵(By みてみん)




「まあミレーヌ、あなたってばなんて可愛らしいの!」


 朝からエインズワース子爵家の応接室には、母の甲高い声が響いていた。今日の主役である次女ミレーヌは、真新しいクリーム色のドレスを身にまとい、鏡の前でくるりと一回転。ふわりと広がる裾が花びらのように舞い、その場の空気すら華やかに変えるようだった。


「お母様、仕立て屋さんが一晩かけて刺繍してくれたんですのよ。すごいでしょ?」


「ええ、とっても素敵。あなたが着ると、まるで春の妖精のようだわ」


 ミレーヌはにこにこしながら、母の腕に甘える。向かいのソファで紅茶を飲んでいた姉・シルヴィアは、そのやり取りを黙って見ていた。

 テーブルに置かれた彼女のカップは、湯気すらももう立っていない。


 ──私はこの家で“春の妖精”と呼ばれたことなんて、一度もない。


「ねえ、お姉様。どう思う?」


 急に話を振られ、シルヴィアはわずかに目を見開いた。


「え?」


「今日の私のドレスよ。ねえ、似合ってると思う?」


 わざとらしく身を乗り出してきた妹に、シルヴィアは作り笑いを浮かべる。


「ええ、とても似合ってるわ。ミレーヌは、いつも綺麗ね」


「やっぱりそう思う? お姉様の目は節穴じゃないのね」


 悪意のないフリをして、しっかりと刺してくる。ミレーヌのこの手には慣れていた。何を返しても、勝手に“上から目線”に変換される。だからシルヴィアは、もう何も反撃しない。そうすれば母の怒りも、後で浴びずに済む。


 彼女が着ているドレスは、三年前に親戚から送られてきたお下がりだった。色はグレイッシュブルー。元はきっと高価だったのだろうが、すでに袖口のレースは擦り切れ、裾にも小さな修繕跡がある。


「お姉様も、夜会に出るんですのよね?」


「ええ。一応、招待はされているから……」


「ふぅん。ま、目立ちたくても無理だと思うけれど? そのドレスじゃあね」


「ミレーヌ!」


 一応たしなめる母だったが、その頬には笑みが浮かんでいる。娘同士の“可愛らしいじゃれ合い”とでも思っているのだろう。


 ──この家では、私は透明人間のようなものだ。


 小さい頃は、母の愛情を一心に求めて泣きじゃくった夜もあった。だが、ミレーヌが生まれてからは、何もかもが変わった。両親の目は妹にしか向かなくなり、使用人たちですらそれに倣うようになった。


「さ、そろそろ馬車の準備が整いますわよ」


 執事の声が廊下から届いた。ミレーヌがウキウキと立ち上がり、パニエをふくらませながら部屋を出て行く。その背中は、まるで“王宮で主役になること”が当然であるかのような足取りだった。


 シルヴィアは、自分の膝に置いた手をそっと握りしめる。


 ──今日の夜会も、ただ妹の“背景”として立たされるだけ。


 そう思えば、胸の奥にじんと冷たいものが広がる。

 けれど、それを顔に出すことは許されない。

 自分の機嫌が、妹の不興に繋がるから。


「……行きましょうか、お母様」


「ええ、遅れないようにね」


 冷たい紅茶の残りを飲み干して、シルヴィアも立ち上がった。



---


 王都北街の貴族公会堂。

 今宵は一月に一度の夜宴――名ばかりの社交訓練、けれど若い令嬢たちにとっては人生の岐路ともなる“品評会”の日だった。


 天井の装飾ガラスから、ぼんやりと灯る魔光燈。

 客間の壁にかかる音楽家の肖像。

 けれど誰もその絵など見ていない。誰もが、誰を見ているかだけを見ていた。


 その中心に立っていたのは、エインズワース子爵家の次女・ミレーヌ。

 明るい花をそのまま形にしたような薄金のドレスに身を包み、顔には社交界特有の“つくられた無邪気”を貼りつけていた。


 そのすぐ傍、兄妹のように寄り添って立つ女がいた。

 灰青のドレスに、手袋の縫い目がわずかに浮く。

 シルヴィア――ミレーヌの姉であり、母にとって“もう片方の娘”だった。


「……表情が硬いわよ、シルヴィア」


 そう言ったのはミレーヌではなく、彼女たちの母――子爵夫人だった。

 扇を仰ぎながら、視線も合わせずに口だけを動かす。


「まさか、本気で“目立ちたい”なんて思っていないでしょうね?」


「そんなこと……思っていません」


 か細く返した声は、たぶん誰の耳にも届いていなかった。


「せめて笑っていてちょうだい。“平気そう”な顔で黙って立っていれば、あなたの役目は果たせるのだから」


 淡々とした口調には、情のかけらもなかった。

 だがそれが“当たり前”だった。


 次の瞬間、ミレーヌが扇の端を胸元にあててくすくすと笑った。


「うちの姉って、不思議でしょう? いるのかいないのか、境界線のような人で」


「……ミレーヌ」


 声をかけたつもりだったが、それは何かを止める力にはならなかった。


「お顔も地味、会話も鈍い。社交は苦手、気の利いた返事もできない。あ、でも唯一得意なことがありましたわ」


 ミレーヌが扇で自らを指し示す。


「“引き立てること”だけは、よくできるの。……ねえお母様?」


「そうね。いなくては困るもの。……あなたが、輝くためには」


 その会話は、まるで誰かの噂話のように、シルヴィアの“すぐ隣”で繰り広げられた。


 けれど、目の前の貴族たちは、笑わなかった。

 むしろ息を呑んでいた。

 あまりにも平然と――公然と、姉を踏み台にする母娘の姿に。


「ねえ皆さま、どう思います? こういう子って、どうすれば少しは“まし”になるのかしら。どんなドレスを着せても、まるで壁。せめて、言葉くらい贅沢に飾って差し上げたほうがいいかしらね?」


 その声に、会場の空気が凍る。


 シルヴィアは、まるで水の中に沈んだような感覚の中、ただ息を呑んでいた。

 足元が遠く、視線は霞んでいく。


 それでも、口元だけは微かに震えていた。

 ――逃げ出さないように、唇を噛むことで保っていた。


 その時だった。


「……ずいぶん、感性が鋭いんですね。嘲りだけで空気を制圧できるとは」


 男の声が、遠くから届いた。


 音楽が止まったわけでもないのに、会場全体の視線が、そちらに集まっていく。


 公会堂の片隅、柱の陰から歩み出た男の姿があった。


 夜の帳に似た黒髪、整った軍服のような正装。

 彼の視線は誰にも媚びず、ただ一直線に、シルヴィアの立つ場所を見つめていた。


「どちら様?」


 ミレーヌが目元を引きつらせながら問いかける。

 だがその声は、さっきまでのような自信に満ちてはいなかった。


「ヴァルシオン公爵家の次男、ノア・リースと申します」


 その名が響いた瞬間、数人の貴族が肩をすくめた。

 名前が知られているからではない。

 その“態度”が、あまりに規格外だから。


 ノアは礼を取ることもなく、シルヴィアへと歩み寄った。


「先ほどの会話……耳にしたわけではありません。目に入ったのです。あなたの震えと、それを喜ぶような人たちの顔が」


 シルヴィアは、一歩も動けなかった。

 まるで夢の中のように、彼の言葉だけが鮮明に届く。


「このまま立ち尽くしていたら、夜が終わる頃には何かが壊れてしまう。……だから、ほんの少しだけでも距離を取れませんか?」


 ノアの声は静かだった。

 けれど、まるで手を差し出されたような感覚があった。


 それは形式でも礼儀でもなかった。

 ただ、ここにいてはいけない、と思ってくれた者の言葉だった。


「ノア様、いきなりそのような……!」


 ミレーヌが口を挟んだが、すぐにノアは返す。


「失礼、令嬢。……ところで、あなたは人を指さして笑うことを、“貴族の嗜み”とお考えですか?」


「……っ」


 その言葉で、ミレーヌの背筋がぴんと伸びた。

 その視線が揺れ、扇を持つ手が震えたのを、誰もが見ていた。


 ノアは視線を戻し、再びシルヴィアに向かって、右手を差し出す。


「あなたが、シルヴィア・エインズワース嬢ですね?」


「……はい」


 息が浅くなるのを、自分でどうすることもできなかった。

 それでも、彼の手のひらのあたたかさが、言葉の代わりになっていた。


「では、少し外へ。……ここは、呼吸には向きませんから」


 その言葉に、シルヴィアはゆっくりと頷いた。


 歩き出した二人の背に、誰一人声をかけなかった。

 会場の空気は、先ほどまでとはまるで違っていた。


 まるで、騒がしさの底で静かに芽を出した何かが、ようやく誰かの目に触れたような、そんな夜のはじまりだった。


 中庭へ続く回廊には、冷えた夜気が満ちていた。


 灯籠が点々と足元を照らし、遠くでは噴水の音がかすかに響いている。

 社交のざわめきから切り離されたこの場所は、まるで別の世界だった。


「……申し訳ありません。あんな場所で、醜態を晒して」


 沈黙を破ったのはシルヴィアの方だった。


 ノアは立ち止まり、少しだけ首を傾けた。


「醜態、とは思っていませんよ。……“耐えていた”のだと、見えました」


 その言葉は、慰めでも共感でもなく、ただの事実のように響いた。

 だからこそ、シルヴィアの胸にすとんと落ちた。


「……昔から、ああなんです。妹は“華”で、私は“影”。それが家の“方針”でした」


「家というより、“母上の方針”では?」


 その問いに、彼女は小さく笑った。


「ええ、そうかもしれません。……でも、逆らえなかった。ずっと。黙っていれば、物事が穏やかに流れると、そう信じ込んでいたんです」


 ノアはその言葉に、すぐには返さなかった。


 風が通り抜け、植え込みの葉がさわさわと揺れる。

 空には雲が流れ、月の光が時折差し込んでは消えた。


「……今日、はっきりわかりました。私は、あの家に“いない方が便利”な存在だったんだと」


 シルヴィアは、声を張り上げることもなく、ただ静かに言った。


「それでも、出る場所も、行く場所もありません。勘当されることも許されない。誰の目にもつかず、使える限りは“手元”に置いておく――それが私の“価値”なんです」


 その言葉に、ノアはふ、と息を吐いた。


「なら、仮に“縁談”が決まったとしたら? 家の外に出る名目が立つとしたら?」


 突然の問いに、シルヴィアは驚いたように顔を上げた。


「……そんな話、現実的にあるわけが」


「仮定の話ではありません」


 ノアは言いながら、ゆっくりとシルヴィアの正面に立った。


「――俺と、“婚約したことにする”というのは、どうですか?」


 その言葉に、彼女は息を呑んだ。


「え……?」


「形式上だけです。俺にとっても、都合がいい。公爵家の“次男”という立場は、いかに身軽に見えても、周囲からは縁談の標的になります。断っても断っても、形を変えて持ち込まれる」


 ノアは指を折るようにして、淡々と続ける。


「“既に婚約者がいる”という事実があれば、断る理由に説得力が出る。……あなたにとっては、“家を出る建前”ができる。損得は等価です」


「でも……私は、そんな……」


 シルヴィアは戸惑ったまま言葉を探す。

 それでも、彼は淡々とした口調を崩さなかった。


「あなたが不利になるようなことはしません。名前も傷つけない。実際の結婚を前提にする必要もない」


 シルヴィアは、しばらく口を閉じていた。


 けれど、その静けさは、拒絶ではなかった。

 ただ、自分が“選んでいい立場にある”ことが信じられず、迷っているだけだった。


「……それが、ノア様にとっても“損ではない”のなら」


 言葉を選ぶように、シルヴィアはゆっくりと答えた。


「私でよければ、その……お願いします」


 口にした瞬間、自分の声が少しだけ震えていたのを感じた。

 けれど、それでも下を向かずにいられたのは――ノアが、じっとこちらを見つめていたからだ。


 彼は言葉を返す代わりに、ほんの僅かに口角を上げた。


 それは、たぶん彼にとって最大限の“肯定”だった。


 夜風が一度、強く吹いた。

 ふたりの間に流れる空気が、それによって少しだけ緩む。


「明朝には、俺の名で手配書を出します。“婚約者を迎えるため”という名目で、あなたを迎えに行く」


「……ありがとうございます」


「そのあとは、しばらく“俺の家”で過ごしてもらいます。公爵家なら、誰も簡単には手を出せない」


 言葉は端的だが、そこに“逃げ場をつくる”という明確な意思があった。

 シルヴィアは、深く一礼した。


「……では、そういうことで」


 ノアが背を向けようとした、その時。


「……あの、ノア様」


 その名を呼ぶのが、初めてだった。


 ノアは立ち止まり、半分だけ振り返った。


「今日、助けてくださって……本当に、ありがとうございました」


 シルヴィアの声は小さかったが、確かだった。


 ノアは目を伏せ、それからひとつだけ息を吐いた。


「……ああいう場面、俺は黙って見ていられないんです」


 それだけを言い残して、ノアは歩き出した。

 その背を見送りながら、シルヴィアは胸に手を添えた。


 鼓動が、少しだけ速かった。


 冷たい空気の中、それは確かに“自分で選んだ”最初の一歩だった。



---



 朝の厨房には、スープの煮える音と、まだ白い息が混じっていた。


 ヴァルシオン公爵家の一日は早い。

 石造りの床の上を、黒靴を履いた使用人たちが静かに行き交い、薄明かりのランプがゆらりと揺れている。


 その片隅。煮込み用の野菜を切り分けているひとりの女性の姿があった。


 シルヴィアは、皮むきナイフを手に、かすかに肩をすくめている。

 寒さというよりは、まだこの“穏やかさ”に身体が慣れていないのだった。


 窓の外には薄く霜が降りている。暖炉の中で薪がはぜる音が、小さく規則正しく響いている。

 誰からも声を荒げられず、否定もされず、ただ「一人前の人」として扱われている――それだけで、胃のあたりが温かくなるような気がした。


「……人参の切り方、変えたのね」


 ふいに声がして振り向くと、公爵夫人が立っていた。


「えっ……あの、すみません。自己流に……」


「謝らなくていいわ。味は変わらないもの」


 そう言って、夫人はシルヴィアの隣に腰を下ろすと、まるで当たり前のようにエプロンを広げて手伝い始めた。


「今日の昼食は、根菜のスープと胡桃パン。それと、貴女の好きな林檎のタルト」


「……私、好きって言ってました?」


「顔に書いてあったわよ」


 にっこりと笑う夫人に、シルヴィアは思わず言葉を失った。


 この屋敷に来てから、ずっと“何かを教わる”毎日だった。

 でも今日のそれは、ただ一緒に“暮らしている”というだけの行動で――それがどこまでも、嬉しかった。


 使用人たちも慣れた手つきで鍋を運び、テーブルに並べる。

 朝のざわめきは穏やかで、誰も誰かを急かす声など出さない。


 皿を拭きながらふと振り向くと、庭へと続くドアが開いた。


「……あれ? まだ野菜の皮が髪についてますよ」


 通りかかったノアがそう言った。

 彼は庭の方から戻ってきたところで、手には小さな籠を持っていた。


「えっ……どこ……?」


 シルヴィアが慌てて手鏡を探そうとすると、ノアはためらいなく彼女の耳元に手を伸ばし、髪に付いた皮をひょいと摘まんだ。


「ここ」


 それだけ言って、ふらりと歩き去っていく。


 何でもないやり取りだったはずなのに、手がまだ温かさを覚えていた。

 気づけば、夫人がくすりと笑っていた。


「わかりやすい男の子よね、あの子。……貴女のこと、気にしてるわ」


「え……?」


「いえ、なんでもないわ。スープ、味見してみる?」


 さじを差し出されたシルヴィアは、こくんと頷いた。


 “居場所”は、いつだって大きな屋敷や格式の中にあるわけじゃない。

 こうして誰かと一緒に、静かに笑える朝にこそ、育っていくのかもしれない。


 日が傾くと、公爵家の敷地は銀色の静けさに包まれる。


 草の上に広がる影は長く、建物の影に鳥たちが羽を休める頃。

 ノアは書庫の窓辺で、本を片手にうとうとしていた。


 扉の外から、控えめなノックの音がした。


「……失礼します。ノア様、こちらにいらっしゃると伺って」


 顔を上げると、シルヴィアが立っていた。


「ああ。ごめん、読書中だったんだけど、寝落ちしかけてた」


 彼は、額にかかる前髪をかき上げながら笑った。

 その表情に、シルヴィアは自然と肩の力を抜く。


「……邪魔でしたか?」


「いや。むしろ助かった。夢の中では、文字が全部ひっくり返ってた」


 シルヴィアは思わずくすっと笑い、彼の前にそっと腰かける。

 机の上には、果物のかごと、冷ました紅茶が置かれていた。


「お茶を、と思って。厨房で少し余ったので」


「気が利くな、さすがだ」


 何気ないやり取り。けれど、それがどこまでも心地よかった。


 二人きりで話す時間が増えたのは、ほんの一月ほど前から。

 散歩の途中に目が合ったことがきっかけだった。


「今朝、庭の小径に新芽が出ていました」


 シルヴィアは窓の外を見ながら言う。


「去年、落ちた種からですか?」


「たぶん。世話なんてしてないのに、勝手に育ってる。……強い」


「……強いのは、環境に甘えられないから、かもしれませんね」


 その言葉に、ノアは少しだけ沈黙した。


 そして、ふと机の引き出しから小さな帳面を取り出す。

 粗末な表紙の、書きかけのメモ帳。


「君の筆跡、これに似てるなと思って」


 差し出された紙には、整った文字でレシピが書き込まれていた。

 果物の砂糖煮、蜂蜜入りパン、花茶の分量。


「あ……それ、私が厨房に置いていたものです」


「面白いと思った。材料も書き方も丁寧で、優しい字だった」


 顔が熱くなるのを感じながら、シルヴィアはそっと帳面を受け取る。


 彼の中にある優しさは、決して口先では語られない。

 でもこうして、そっと差し出される気遣いが、何よりも胸に残る。


「……あの」


「うん?」


「私たち、仮の婚約、でしたよね」


「うん。それが?」


「もし、いま改めて提案されたら……たぶん、断りません」


 言葉を繋ぐ勇気が、ようやく持てた。

 ノアは目を瞬かせ、それから椅子にもたれて、腕を組んだ。


「……それは、今この場で“仮”を外してもいいって意味かな?」


「……もし、それがノア様の望みなら」


 彼は一瞬、唇の端を持ち上げた。


「それはずるいな。“俺の望み”のせいにされるのは」


 そう言いながら、でも、目は笑っていた。


「じゃあ、こうしよう。君が“ここで生きていく”と決めたら、その時に聞く。……その時が来たら、もう一度」


 言いながら、ノアは紅茶を手に取り、シルヴィアに視線を投げる。


「名前で呼んでも、いい?」


「その時が来たら、ぜひ。……それまでは、“シルヴィア嬢”で」


 二人のあいだにあった距離が、ひとつ、静かに縮まった瞬間だった。


 庭園には白い花が咲き誇り、風がスカートの裾を軽く揺らしていた。

 ヴァルシオン公爵家の畑の一角。果樹とハーブに囲まれた私的な式場は、上流貴族の婚礼には珍しいほどに、素朴で温かかった。


 祝辞と音楽、そして祝福の拍手に包まれて、式は恙なく終わる。

 白のマーメイドドレスに身を包んだシルヴィアは、今、堂々とヴァルシオン家の娘となった。


「よく似合っている。まるで、最初からこの家の人間だったようだ」


 ノアの父、公爵が微笑む。

 夫人は手を握り、「これからもよろしくね」と優しく囁いた。


 祝福の拍手が鳴り響くなかで、シルヴィアは夫人の手をそっと握り返した。

 すぐそばでノアが立っている。けれどその姿は、かつて誰かの背後に隠れていた自分が思い描いていた“未来”とはまるで違っていた。


「さあ、宴の準備が整ったようよ」


 夫人が微笑み、ふわりとスカートを揺らして先を歩く。

 使用人たちは手際よく庭園を整え、来賓たちは陽光の下で談笑していた。

 シルヴィアはその空間に立ち、ようやく“ここに居ていい”という静かな実感を噛みしめていた。


「……おめでとうございます、シルヴィア様」


 厨房から出てきたミーナが、小さな花束を差し出す。

 それは菜の花やタイム、春の香りを抱いた束だった。


「これ、私が庭で摘んだんですよ。お嬢様にぴったりだと思って」


「ありがとう……本当に、ありがとう」


 受け取った瞬間、胸がふっとあたたかくなった。

 この家では、自分の存在が誰かに“思い出されるもの”ではなく、“最初からそこにあるもの”として扱われている。

 そのちいさな違いが、こんなにも救いになるとは思わなかった。


 けれど――


(……いいの? 本当に、もう終わったの?)


 ふと、そんな声が胸の奥でささやいた。

 まるであまりに穏やかすぎる空気が、かえって何かを呼び寄せそうで。


 視線を感じて顔を上げると、ノアがこちらを見ていた。


「泣いてる?」


「え……泣いてません」


 慌てて否定すると、彼は少しだけ笑った。


「そっか。じゃあ、安心した。……これで、君はほんとうに自由になったんだな」


 その言葉に、思わず言葉が詰まる。

 “自由”――ずっと求めていたはずなのに、その重みにわずかに足がすくむ。


「……はい、たぶん」


 そう答えた自分の声が、ほんの少しだけ頼りなかったことに、気づいてしまった。


 日が少し傾き始めた頃、庭園の端にわずかなざわめきが走った。


 会場の空気がかすかに揺れる。

 それは、楽団の音の隙間にまぎれこんだ、まるで“間違った招待客”が紛れ込んだような気配だった。


「……あれは」


 先に気づいたのはミーナだった。

 彼女の手にした水差しが、わずかに震える。


 シルヴィアが振り向いた先にいたのは、見間違えるはずもない顔ぶれだった。

 金糸のドレスをまとい、派手な羽飾りを髪に揺らす妹・ミレーヌ。

 その後ろには、憔悴を装った父と、取り繕うような母。

 エインズワース子爵家の人々が、晴れやかな顔をしてそこに立っていた。


「……招いていませんよね?」


 ノアの問いに、公爵夫人は小さく頷いた。


「もちろん。出してもいないし、届いてもいません」


 その声は静かだったが、どこか氷のように澄んでいた。


 ミレーヌが一歩前に出る。

 その笑顔は、明らかに作り物だった。


「まあ、お姉様……いえ、“公爵夫人様”と呼ぶべきかしら? 素敵な式ね。来てよかったわ」


 声は柔らかいのに、その眼差しはどこまでも見下ろすようだった。

 まるでここに立っていることすら“借り物”だと告げるような――。


「どうかしら。ほんの少しだけ、お話の時間をもらえない?」


 シルヴィアは、黙ってその視線を受け止めた。


 ミレーヌの口元が、ふっと上がる。


「ねえ、お姉様。私、あなたに聞きたいことがあるの」


 控室へと続く扉を目で示す。

 式の空気を壊したくないという気遣いを装って。


「少しだけ。……ほんの少しでいいのよ」


 その言葉の“裏”を、シルヴィアはすぐに察した。

 ミレーヌの“目的”は、祝福ではない。


 それでも、逃げることはしなかった。


「わかりました。少しだけなら」


 返事をしてから、ノアの視線を感じた。

 何も言わないけれど、彼のまなざしが「無理はするな」と告げていた。


 けれど、これは今の自分にしかできない対話だ。

 過去と向き合うために――シルヴィアは、静かに歩き出した。


 控室の扉が閉まると同時に、空気が一変した。

 庭園の柔らかなざわめきは届かず、そこには冷えた沈黙だけが満ちていた。


 ミレーヌは部屋の中央に立ち、誰に促されるでもなく椅子に腰を下ろす。

 そのまま、足を組み、スカートの裾をひらりと揺らした。


「ふうん……。こういう部屋にいると、やっぱり“主役”って気分になるわね」


 何も答えず、シルヴィアは向かいの席に座る。

 わざと無表情でいると、ミレーヌの笑みがさらに深くなった。


「相変わらずね。昔から、感情を隠すのは得意だったもの」


 視線を合わせずに続けられる言葉は、どれも鋭い針のようだった。


「そういえば覚えてる? あなたが初めて舞踏会に出た日。靴が片方だけ古びてて、皆が笑ってたの。……気づいてなかったの? 本当に?」


「……靴のことなら、知ってたわ」


 シルヴィアがぽつりと返すと、ミレーヌは目を見開いて、すぐに嘲笑を漏らした。


「まあ。じゃあ、わざと無視したの? “恥”っていう感情、ほんとに持ってる?」


「あなたが何を言いたいのか、分かってるつもりよ」


「それなら早いわね」


 ミレーヌは扇子を閉じ、ぴたりと膝に置く。

 その声が、急に真っ直ぐになった。


「あなた、ここに似合ってないの。……公爵家の名も、ドレスも、その椅子も。全部、まるで“借り物”みたい」


 静かな言葉ほど、深く突き刺さるものだった。


「ねえ、もしこの人たちが“あなたの過去”を知ったら、どうするかしら。お針子の部屋に出入りしてたこと、料理番の息子と仲良くしてたこと、古いドレスを縫い直して使ってたこと――」


「それが、あなたの言う“恥”なの?」


 遮ったシルヴィアの声は低く、しかし揺らがなかった。


「私は、誰の名前も踏み台にしていないわ。……あなたはどう?」


 一瞬、ミレーヌの顔から笑みが消えた。


 そのとき――控室の扉がノックもなく静かに開いた。


「失礼。話は、これくらいで」


 立っていたのはノアだった。

 その声は静かだが、有無を言わせぬ力を持っていた。


「ここは、僕の家です。……居心地が悪ければ、すぐに退出なさってください」


 ミレーヌは立ち上がると、ふてぶてしく笑いながらドレスの裾を払った。


「ええ、もちろん。……でも、ご忠告はしたつもりよ。どうぞ、ご自由に」


 そう残して、ヒールの音を響かせながら控室を去っていく。

 シルヴィアはその背を見送ることなく、ただノアの方へと振り返った。


 彼のまなざしが「大丈夫」と語っていた。

 それだけで、もう十分だった。


 控室を出たとき、すでに空は少し赤みを帯び始めていた。

 祝宴はまだ続いている。だが、何かが静かに変わろうとしていた。


 シルヴィアとノアが歩いて戻ると、庭園の一角で人だかりができていた。

 その中心には――再び現れたミレーヌの姿があった。


「ねえ皆さま、ご存知? 私たち姉妹、昔は本当に仲が良かったんですのよ」


 杯を手にしながら、まるで旧友に語るような調子で言葉を紡ぐ。


「でも、ある日を境に変わったの。……お姉様は家の中で目立たなくなって、静かに隅に座るようになって。わたくしのドレスのお下がりを着るのが日課になってしまって」


 笑いを誘うように言った声に、誰ひとり笑わなかった。

 その空気を無視するように、彼女は続ける。


「それなのに突然、公爵家の方と婚約して、お嫁に来て……まあ、立派なことですわ。ねえ、お母様?」


 母が曖昧な笑みを浮かべたその時。

 シルヴィアは一歩、前に出た。


「それは、私の“恥”話として、皆様に披露されているのかしら?」


 ミレーヌがぴたりと動きを止めた。


「ええ、たしかにそういう時期もありました。姉として期待されたこともなければ、家の誰にも好かれていなかった。……でも、それがどうしたというの?」


 その声は震えていない。

 むしろ、澄んだ夕空のように静かだった。


「誰かの後ろにいた時間も、影として過ごした日々も、全部、今の私を作ってくれた。……それを“みっともない”と思うのは、あなたの自由。でも私は、誇りに思ってる」


 会場の空気が、はっきりと変わる。

 そして、その静寂のなかで――公爵夫人が立ち上がった。


「ええ、私たちも誇りに思ってるわ。シルヴィアは、ヴァルシオン家にとって、なくてはならない娘よ」


 その言葉に、父親が息を飲んだ。

 ノアは隣で、黙って頷いていた。


 誰の肩書きも、誰の血も借りずに、シルヴィアは今、確かにここに立っていた。

 過去のどんな名前でもない、自分の名で。


「あなた……何様のつもりなの?」


 ミレーヌの声が、わずかに震えていた。

 けれどそれは羞恥でも、後悔でもなかった。

 ただ、自分が中心でない場に立たされたことへの、純然たる怒り。


「私がどれだけ我慢してきたか、知らないくせに……! ずっと、お母様にも、お父様にも比べられて……“妹らしくしていなさい”って言われて、努力して……!」


 その瞳に、涙がにじんでいた。

 けれどそれは、誰かの痛みに寄り添うものではなかった。


「それなのに! あなたが……あなたなんかが、公爵家の娘になるなんて!」


 その叫びに、誰かが息を呑んだ。

 風が止み、鳥の声すら遠ざかった気がした。


 シルヴィアは、ただ黙ってその言葉を受け止めた。


「ねえ、お父様! こんなの、許せるはずがないでしょう? 私のほうが、もっとふさわしいのに!」


 だがそのとき、父――エインズワース子爵が、ぎり、と歯を食いしばりながら娘を見据えた。


「いい加減にしろ。……これ以上、無様な真似をするな」


 はた、と音がして、ミレーヌの肩から扇が落ちた。


「おまえがどんなにわめいても、現実は変わらん。公爵家が選んだのはシルヴィアだ。……我が家が口を出す立場ではない」


「お父様まで……!」


 ミレーヌは震える声でにらみつけたが、子爵はもはや視線を合わせようともしなかった。


 そのとき、公爵が静かに立ち上がる。


「お集まりの皆さま。少々、式の空気を乱してしまいました。申し訳ありません。……エインズワース家の皆さまには、そろそろお帰りいただきましょう」


 数人の使用人がすぐに動き、無言で一礼する。


 母は何かを言いかけて、けれど口を閉じたまま目を伏せた。


「シルヴィア……」


 ミレーヌが名前を呼ぶ。だが、それに答えは返らない。


 彼女はただ、黙って頭を下げた。

 その仕草には、憐れみでも、勝利でもない――別れの静けさがあった。


 ミレーヌの泣き顔を背に、シルヴィアは再びまっすぐ前を向く。


 もう、戻る理由はない。

 名を呼ばれなかった日々にも、居場所のなかった家にも。


 式の終わり、庭には再びあたたかな風が戻っていた。

 色とりどりの花が揺れ、鳥たちが枝先でさえずっている。

 誰もがその静けさを、祝福の余韻として受け止めていた。


 シルヴィアは、一人で少し離れた並木道を歩いていた。

 さっきまでの喧騒が、まるで夢のように思える。

 そのとき、足音が近づき、隣にノアが並んだ。


「……疲れた?」


「いえ。少し、風にあたりたくて」


 嘘ではなかった。けれどそれだけではない。

 胸の奥がまだほんの少し、軋んでいた。

 それは、何かを完全に捨て去る時にだけ訪れる痛み。


「怒ってるかと思った」


 ノアの声に、シルヴィアはふと笑う。


「怒っても、変えられないことってあるでしょう? だったら私は……変えられるものを大切にしたい」


「例えば?」


「例えば、“これからの暮らし”。あなたとの時間。……この家族」


 その言葉に、ノアは小さく頷いた。


「……なら、俺からも一つだけ」


 彼は立ち止まり、まっすぐシルヴィアを見つめる。


「ここで生きていく。そう君が決めたなら――もう一度、聞かせてほしい」


 夕陽が彼の肩を照らし、金色の光が二人を包んだ。


 シルヴィアは少し息を整えてから、口を開いた。


「私はここに、“居場所”をいただきました。誰かの後ろではなく、隣に立つ場所を」


「ですから――ここで生きていきます。……その隣に、あなたがいてくださるのなら」


 数秒の沈黙。

 けれど、それはもう迷いではなかった。


「……結婚してくださいますか?」


 その声は小さかったが、誰の耳にも確かに届いていた。


 ノアは、目を細めて一歩近づくと、

 ゆっくりと手を取り、ほんの僅かに微笑んだ。


「もちろん」


 その一言に、シルヴィアの胸の奥が、ようやくほどけていくのを感じた。



---



 三年が経った。


 公爵家の庭の果樹は、あの年からさらに枝を伸ばし、いまでは子どもの背丈を越えるまでになっていた。

 畑の向こうでは、春野菜が青々と葉をひろげ、白い花々が風に揺れている。


 シルヴィアは、風よけのスカーフを巻いて、籠いっぱいのハーブを両腕に抱えていた。


「こっち、見てーっ!」


 少し離れた丘の上で、小さな男の子が手を振っていた。

 おぼつかない足取りで、草の中を駆けてくる。


「お父様! 見てー!」


「はいはい、ちゃんと見てるよ」


 ノアが、後ろから笑いながら追いかけてくる。

 首にかけたタオルは土で汚れ、袖口には摘みたての葉がついていた。


「また野菜抱えてるの?」


 シルヴィアは苦笑しながら、腕の中の籠を置く。


「朝市で分けてきた分を干してるの。あなたは?」


「……見ての通り。今日も“やりすぎ”だって、ミーナに怒られた」


 肩をすくめる彼に、シルヴィアはふっと笑う。


「仕方ないわよ。あなた、育てる才能はあるもの」


「じゃあ君は、“生かす”才能があるな」


 目が合って、ふたりして笑う。

 小さな掌が、間に割り込むようにしてシルヴィアの裾を引いた。


「おかあさまー、いたー!」


「ここよ。いっぱい走ったのね、えらいえらい」


 しゃがんで抱き上げたとき、腕のなかの子どもがふわりと笑った。

 柔らかな頬、日焼けした鼻、ころころと転がる声。


 過去のすべてが、この笑顔を迎えるための序章だったのだと、ようやく思えるようになっていた。


 青い空の下、ノアが草の上に座り込む。

 シルヴィアも隣に腰を下ろし、腕のなかの子どもをそっと寝かせる。


 風が草を撫で、光が頬に落ちた。


 その時、ふと、胸の奥に過去の声が蘇った。


『お姉様なんか、幸せになれるわけがない』


 あれほど鋭く、冷たく、傷つけた言葉だったのに――

 いまではもう、痛みすら遠く霞んでいる。


 だって、答えはここにある。


(……じゃあ見てて。これが、私の幸せ)


 もう誰の影でもない。

 誰かの補佐役でも、引き立て役でもない。


 名を呼ばれ、愛され、守られ、そして自分の意志で歩く。


 この草原に、小さな未来が眠っている。

 それは、かつての少女が一番欲しかったものだった。

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実家滅びてそう
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