表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

Side: リック

少し長くなりましたが、このまま投稿します。

どうぞよろしくお願いいたします。



ケイン・フレデリク・トレメントは、トレメント王国の第三王子として生を受けた。

彼を含め三人の王子はいずれも王と王妃との間の子どもだ。

この国では、基本的に長子が家督を継ぐ習慣があり、王太子となった第一王子のロイドも聡明に育ったため、第三王子の彼は比較的自由に育った。

公の場では王は彼を「ケイン」と呼ぶが、私的な家族の間ではミドルネームであるフレデリクの愛称「リック」と呼んでいる。

しかし最初に彼をリックと呼んだのは、先の王弟リンドベルグ公爵で、リックの大叔父に当たる人物だった。

というのも、フレデリクはその大叔父の名を頂いたもので、彼は大層リックを可愛がった。


リンドベルグ公爵はかつては騎士団に所属しており、王子としての剣の稽古の他に、よくリックの剣の相手をしてやっていた。

その影響からか、リックも剣の腕を磨くことに夢中になり、他の王子二人とは違う騎士になる道を選んだのだった。


他の貴族の子息たちと同じように、寮生活を送りながらリックも騎士学校で剣の腕を磨いた。

体格に恵まれ、剣の筋も良かったリックはメキメキと上達していき、上級生ですら彼と互角に戦える者がいない中、レーニエ伯爵家のスコットだけは彼の良きライバルとなった。

スコットの父である、レーニエ騎士団長とはリックも面識がある。

しかしスコットは父親よりも優美な見目をしており、一見したところ剣士には見えない。

それが一度剣を握るとその剣は重く、動きも俊敏だ。

さすが武門の誉高いレーニエの子息、よほど鍛錬を積んできたのだろうと、リックはスコットと剣を交えて鍛錬に励むのが楽しかった。

またスコットとは自然と親交を深め、気の置けない友人となっていった。



それは、王太子の成婚パレードの時のことだった。

街中の警護のために騎士学校の最上級生も駆り出され、リックもスコットと共に貸し出された騎士の制服に身を包み、持ち場を与えられて警護に当たっていた。

が、隣のスコットの様子がおかしい。

向かいにある、高級レストランの二階にちらちらと視線を投げているのだ。

兄の王太子と妃となった公爵令嬢の乗った馬車が通る沿道には、一目見ようと大勢の人がひしめいているが、貴族たちは皆人混みを避け、贔屓のレストランや宿に席を設けて見物する。

誰がいるのだろう、とリックがスコットの視線の先を辿ると、見覚えのある顔があった。

あれは確か、今年騎士学校に入ってきたスコットの弟のはずだ。

その隣に、愛らしい少女が身を乗り出すようにしてパレードの到着を待っている。

少女と弟の横では、美しい婦人が二人に何か話しかけながら微笑んでいた。


「スコット、ご家族か?」

「そうです…殿下」


リックを振り返り、スコットが照れたように笑った。


「ここで殿下はやめてくれ。リックでいい」

「判りました。それではリック、弟のイアンと妹のサーシャです。イアンは今年、騎士学校に入ったのでご存じでしょう」

「ああ、知っている。可愛いらしい妹君だな」


リックからしたら何気ない言葉だったのだが、スコットは嬉しげな笑顔になった。


「身内自慢になりますが、サーシャは本当に可愛い妹です。ああ見えて、あの子はなかなか強いのですよ」

「…強い、とは?」

「言葉の通りです。わが家では、男女の別なく剣術も体術も訓練を受けるので」

「まさか」


リックはもう一度、レストランの二階にいる華奢な体つきの可憐な少女に目をやり、首を振った。

あんなに細い体で剣術と体術だと?

スコットに担がれたに違いない。

リックの知っている貴族令嬢はみな権力欲が強く、笑顔の下に何を隠しているか判らない、そのくせ何かあるとすぐに泣くものだ。

だが、スコットが妹を溺愛しているだろうことはよく理解できた。

彼の意外な一面を知り、リックは微笑ましい気持ちになる。


しかしそのことは、それきり忘れてしまっていた。

リックが騎士学校を卒業するのを見計ったように、国の西側にある隣国から縁談が舞い込んだからだ。

国の東側の隣国とは友好関係を保っているものの、西側の隣国は時折、無理難題を押し付けてくる厄介な国だった。

今回も、どこかでリックを見染めた隣国の第二王女が希望しての縁談らしい。

リックも一国の王子なので、公務がある時は騎士学校を休み、国際的な催しに出席することもある。

西の隣国の第二王女は確かに面識があるが、綺麗な顔立ちはしているものの、王が可愛がっているのを良いことに我儘な王女だと聞く。

それは王家の影からも報告されており、確かな情報だった。

王子として生まれた以上、国の益になる政略結婚ならリックは受け入れるつもりだった。

しかし、何を見込まれたのかは知らないが、そんな王女のお守りは国の益になどなるはずがない。

もとより、西の隣国とは適度な距離を保つのが得策で、王族を配偶者として受け入れてしまえばさらに厄介なことになりかねない。

とはいえ、一国の王子として正式に申し込まれた縁談を、正当な理由もないまま断るわけにもいかない。


父である国王や宰相、兄たちとも話し合いをしたものの、これといった決め手がないまま、どうにか回避できないかと返事を引き伸ばしていたところ、救いの手が差し延べられた。

東の隣国から遊学の招待が来たのだ。

恐らく水面下で王家の影が大いに働いた結果なのだが、両国の絆をより深めるため、隣国からも第一王女が遊学に訪れるという念の入れようだった。

その結果として、第二王子エイモスと第一王女が婚約する、という運びになり、両国にとって文字通り絆を深めることとなったのは喜ばしい。


当初定められていた遊学期間は二年だったものの、リックはそこからさらに別の国々にも足を伸ばした。

実は、西の隣国にも秘密裏に足を踏み入れたが、豊かとはいい難い人々の生活を目の当たりにしてリックは苦々しく思ったものだ。

東の隣国のほぼ真上にあるデビアナでは、身分を隠して遊牧民に混じって生活し、彼らに気に入られてトールを貰い受けた。

リックが遊学している間に、漸く西の隣国の第二王女は、南にある大国に嫁いだという知らせが彼にも届く。


そろそろ遊学も引き上げて帰るという知らせをトレメントの王城宛に送り、トールに跨ってリックが帰ってくるのに三年の月日が流れていた。

王城の予想より遥かに早く帰国したリックに、王太子であるロイドは、暫く王都の様子を見てくるといいと云った。

もちろん身分は隠し、リック・トルーディという名の騎士の身分証と、髪と目の色を変える魔道具を兄から直接渡されたのだ。


騎士団長はもとより、ほんの一握りの人々だけがリックの正体を知っていた。

イアンもその一人で、この三年の間に騎士団の隊長に出世していたことにリックは驚いた。

いや、レーニエ家の者なら当然か、と思い直す。

スコットは参謀室に引き抜かれた、とリックはイアンから聞いた。

辺境伯令嬢と結婚したことも。

武門のレーニエならさもありなん、と思っていたが、意外なことにお互いに思い合っての婚姻だという。

国際事情に詳しい自分が関わるなら参謀室だろうと考えていたリックは、スコットにはいずれ会えることは判っていた。

それならば当面は兄の言葉通り、市井を見ておくのも悪くない、と考える。

イアンと共に騎士団の仕事を熟している時に、それは起こった。



その日は夜勤で、これから王都の見回りに出るため騎士団の詰め所に向かっていたリックは、城門に向かっている人影を認めて首を傾げた。

こんな時間に誰だ…?

女だということは判る。

それがさらに不可思議だ。

陽もとっぷりくれたこの時間に歩き回る女など、非常識も甚だしい。

それでも何か目的を持って城を出るなら、確かめておいた方が良いと判断し、リックは距離をおいて女のあとを追った。

自分が彼女を追っていることは、自分に付いている影が騎士団に知らせていることだろう。



街中の所々に設置されている街灯に映し出される彼女の後ろ姿に、服装から王城の女官だと判る。

女官は基本が通いだ。

恐らく彼女は家に向かっているのだろう。

そう判断したリックは嘆息した。

不穏な行動をとっている者だとしたら、と考えてあとをつけて来たが、杞憂だったらしい。

だとしたら、この女はとんでもなく向こうみずか、あまりにも愚かだ。

最近、夜の街中では、金品を狙って襲われたという話が多発していた。

それを知っていて彼女を見過ごすこともできず、何が悲しくて彼女の護衛役をしなければならないのか。


案の定、彼女の後ろを人相の良くない男が二人歩き出した。

あからさまに靴音を響かせて、つけていることを隠す様子がないのは、彼女を怯えさせようとしているからか。


と———

彼女は急に立ち止まって振り返り、後ろの男たちに声をかける。

距離をとって彼女の後を追っていたことを後悔したリックは、一気に彼女の方へ駆け寄っていった。

———間に合ってくれればいいが…!


予想外の行動に出た彼女を忌々しく思いながら近づいたリックは、思いがけないものを見て一瞬立ち止まる。


飛びかかってきた男たちを躱し、身を沈めた彼女は、一人をきれいに繰り出した足で道端に蹴り飛ばしたのだ。

そのまま間髪入れず、もう一人の男の鳩尾に何かを突き入れる。

ほんの数秒間の出来事だった。


リックは彼女たちの近くの物陰で、ナイフがキラリと光るのに気が付いた。

———仲間がいたのか。

素早くそちらに忍び寄り、男を捕縛する。

彼女に目を遣ると、男二人を難なく転がした彼女は、その男たちをどうしたものか逡巡している様子だった。


自分が捕縛した男が身を捩ったので、きつめに腕を締め上げると声を上げた。

その声に彼女が気がついたので、リックは姿を現す。

どのみち、一言云ってやらねば、と思っていたのだ。

こんな夜道を女一人で歩くなど無謀も甚だしい———例え、あの鮮やかな蹴りに目を奪われたとしても。


しかし、彼女はしおらしく反省している様子だった。

そして一歩近づき、街灯が照らした彼女の顔に、リックは見覚えがあるような気がした。

———そんなはずはない。

気を取り直して、名を検める。


「大変失礼いたしました。レーニエ家のサーシャと申します。お助けいただいて有難うございました」


そう云って、彼女は美しいカーテシーをして見せた。

そこでリックは、彼女がスコットの妹で、あの王太子の成婚パレードで見た少女だったと知る。

思わず「レーニエ殿の」という言葉が口をついて出て、サーシャが怪訝そうな顔をした。

「いや…」と言葉を濁し、別の話題に切り替える。


「さっきは、なかなかいいものを見せてもらった」


本心からそう云えば、サーシャは何のことだか判らない、という顔から、困惑したような表情になった。


「あの……見ました?」


恐る恐る、といった様子で聞いてくるサーシャに、リックは力強く頷いた。

あんなに見事で思い切りの良い蹴りは、なかなか見られるものではない。

そう云えば、スコットも妹は強い、と云っていたのを思い出した。

あの時はあの華奢な少女が強いはずがない、スコットが冗談を云っているのだと思い込んでいたリックは、彼がごく真面目に真実を述べていたことを理解した。

目の前の嫋やかな女性が、あれほど鮮やかに男二人を撃退する様を見たのだ、信じない訳にはいかない。


リックは、少し高揚している自分を自覚していた。

貴族令嬢といえば、甘えた声を出して媚びるか、美しい笑顔の陰で虎視眈々と自分より高位の男を狙う者ばかりだと思っていたが、これは———

ふとリックはまだ名乗っていないことに気がついて、名乗りついでに彼女の父親に助力を乞うのが最善だと伝えた。

もちろん、本当の名を明かす訳にはいかない。

目に見えて嘆息したサーシャに、リックは彼女の考えていることが手に取るように判り、レーニエ殿にはしっかり叱っておいてもらわないと、と思う。


タイミングよくレーニエ家の従者が現れたので、リックはこの場は自分が引き取り、サーシャをレーニエの家に帰した。

程なくして、レーニエ騎士団長本人が姿を見せたので、影を王城に送って騎士を呼び出させ、賊の仲間が他にいないかを探索させる。


指示を飛ばす騎士団長の隣で状況を説明し、探索箇所などの相談をしていると、帰らせたはずのサーシャがリックの前に現れた。

供をしてきた侍女が持つバスケットを目の前に差し出された時は、リックは正直面食らった———表情には出さなかったが。

一介の騎士に、貴族令嬢が夕食の代わりとなるバスケットを差し入れるなど、まずないことだ。

リックの正体を知っているレーニエ騎士団長は、娘の行動に困惑しているようだったが、おずおずとバスケットを差し出すサーシャの頬には赤みが差し、今にもバスケットを下げそうになるのを見て、リックは迷わずバスケットを受け取った。

確かに、夕食をまだ摂っていないリックは空腹だった。

だがそれ以上に、彼女の心遣いを好もしく感じたのだ。


サーシャが立ち去ったあと、父親の騎士団長が囁き声で云う。


「殿下、無理に食べずとも…」


王子であるリックは、基本的に毒味が入るか、決まりきった安全なものしか口にしない。

デビアナで遊牧の民と過ごした時も、張り付いている影が必ず食べ物の出所を一々確認していたのだ。

身分を隠して騎士となっている今は、リックを王子と知っている者は限られるものの、彼も口にするものには気をつけていることを騎士団長であるレーニエ伯は知っている。

だがその言葉に、リックはにっこり笑った。


「せっかくのご令嬢の心尽くしだ、遠慮なくいただこう」

「痛み入ります」


街灯の下のベンチに移動し、バスケットの中身を平らげながら、リックは暫しレーニエ伯爵と家族の話題で談笑した。

スコットのことはもちろん、サーシャのこともそれとなく話題に振ると、娘の話に目元を緩める伯爵は、条件付きで婚約者がいると話した。

「条件?」と反射的に聞き返すと、「殿下、これ以上は」とやんわり制される。

リックの脳裏には、目の醒めるような蹴りを決めた凛としたサーシャと、恥ずかしそうにバスケットを差し出す彼女が蘇り、既に他人のものと聞いて残念に思う自分に驚くのだった。


婚約者がいるのであれば、レーニエ伯爵令嬢にはこれ以上関わらない方が良い。

理性ではそう思うのに、あの夜のサーシャの姿が幾度も蘇り、リックはそれを振り払うのに思いの外苦労していた。





それから暫く、リックはやり残していた遊学に関する書類仕事を急かされ、騎士団には顔を出さない日が続いた。

指示を受けて探索に出ている…とか、その理由についてはイアンが上手く取り繕ってくれているはずだ。

リックも日がな一日、書類に没頭していた方が余計なことを考えずに済むので有難い。

それでも流石にそんな日が続くと体を動かしたくなり、リックは朝駆けに出かけた。

昔から気に入っている場所があり、そういえば国に戻ってからはまだ一度も訪れていなかったのだ。

王都を見下ろす小高い丘は、リックがまだ子どもだった頃、兄王子たちと馬に乗る練習がてら遠出をして逸れてしまった時に偶然に見つけた場所だ。

愛馬のトールを駆って辿り着いてみると、白い馬が木に繋がれている。

どうやら先客がいるらしい。

こんな場所に先客も珍しい、と思いながら自身もトールを繋いで王都を見下ろす丘へ出ると、思いがけない人物の後ろ姿を認めた。


「先客がいたか…」


努めて何でもないことのように、リックは声を出す。

振り向いたサーシャは驚いた顔をしていた。

ここで人に会うとは思っていなかったのだろう。

彼女の服装を見れば想像はついたが、一応確認する。


「あの白い馬は貴女の馬かな?」

「はい…エリーといいます…」


それにしても、乗馬服の女性は見たことがなく、リックは思わず視線を彼女の上から下へ走らせた。

恐らく、乗馬服は自分用に誂えたに違いない。

体の線に沿ったシャツとベストに、ドレスの時には見えない長くすらりと伸びた足。


「馬に乗るのだな……レーニエ家の令嬢なら、当然か…」


リックがそう呟くと、サーシャは両腕で自分の体を抱くようにして、サッと彼から身体を背けた。

首筋まで朱が上り、恥ずかしがっている様子のサーシャに、訳もなく抱きしめたくなる衝動が湧き上がる…。


気づかれないように一つ息を吐き、リックは上着を脱いで彼女の肩にかけた。

そのまま、王都に目を遣る。

サーシャが自分を見上げているのは判っていたが、敢えて目を合わせないまま着ているように伝えた。

衝動を抑えつけ、気を落ち着けているうちに、心地よい沈黙が流れた。


その沈黙を破ってサーシャが口を開き、他愛もないことを話していると、彼女が気になることを云う。


「……わたくしも、ここに来ると嫌なことを忘れられる気がします……」


彼女の口調には、思わず漏らしてしまった本音、と云う響きがあった。

何か嫌なことがあった、ということだ。

聞いてもいいのだろうか、と少し考えたあと、結局リックは口にした。

聞かずにはいられなかったのだ。


「…嫌なことがあったのか」

「ええ、まあ……」


だが、彼女は云い澱んだ。

それはそうだ。

リックはまだ会って間もない、ほとんど知らないような相手なのだから。

———聞いてどうする。

リックは心の中で自嘲した。

どうする訳でもないことを、悪戯に問い糺して良いことはない。

しかし、もどかしい思いは胸の中に燻り続けて消えなかった。

その気持ちに気が付きつつも、リックはそれに名をつけることを拒んだ。


本当に、これ以上サーシャに近づいてはいけない。

「帰るか」と声をかけて歩き始めたリックに、背後からサーシャが呼び止めた。

振り返ると、一瞬言葉に詰まったものの、彼女はそのあと一気に云う。


「今日ここでトルーディさまとお会いしたことは、他言無標にお願いいたします」


予想外の言葉に目を見開くと、サーシャはさらに続けた。


「本来ならば、どなたにもお会いすることはないはずでした。偶然だったとはいえ、殿方と二人きりで会っていたと知られる訳にはまいりません」


真剣な表情のサーシャに、リックは今まで感じたことのない、鈍い胸の痛みを覚えた。

ここで会ったことなど誰も知らず、いわばなかったことと同じだ。

だが生真面目な彼女は、婚約者に誤解されることを恐れているのだろう。

そう考えると、鈍い痛みは胸を焦がすほどの衝動に変わる。

流石に、リックももう湧き上がってくる感情を無視できなかった。

自分は、強烈にこの女性に惹かれているのだと———


時間を稼ぐように、考える仕草をした。

すんなり同意することは、何故だか癪に感じる。

彼女の婚約者という、見えない相手に嫉妬したのかもしれなかった。

とはいえ、彼女を困らせるつもりもない。

するりと、口から答えが出ていた。


「…リック、と」

「え?」

「今後は、リックと呼ぶのが条件だ」


驚いたように目を瞠った彼女が愛らしい。

そうだ、自分は彼女に名を呼んで欲しいのだ、と今更ながら自覚する。


「もうお会いすることはないかもしれないのに……?」


そう口にするサーシャに、リックは思わず破顔した。

まさにその通りかもしれない。

しかし、それを口にするところがまた彼女らしいという気がした。


「ああ、そうだな。だが、またここで偶然に会うこともあるかもしれないだろう?」


「またここで偶然に」———あり得ないことではない。

彼女に近づいてはいけない、と思う半面、リックは偶然ならば許されるのでは、と自分に苦しい言い訳をする。

さっと頬を染めるサーシャに昂る感情が込み上げ、ぐっと両手を握り込んでそれを抑え込んだ。

嫌われている訳ではないようだと知るだけで、心が浮き立つようだ。

だが、未練がましくこれ以上話をしてはいけない、とリックは踵を返して足を踏み出した。


「あ…上着……」


後ろでサーシャの声がした。

今ここで振り返ったら、彼女に駆け寄り抱きしめてしまいそうだ。

リックは頑なに振り向かないまま、咄嗟に答える。


「次に会う時まで貸しておこう」


———いや、返さなくていい。

そう心の中で付け加える。

そのまま右手をあげ、前だけを見てリックは歩み去った。




書類仕事を漸く終えて、リックが再び騎士団に顔を見せると、周りの騎士たちからは「お疲れさま」と労いの言葉をかけられた。

騎士の仕事は気密性が高いこともあり、深くは内容を聞いてくる者もなく、リックは曖昧に頷いて彼らを躱す。

「変わりはなかったか」と二人になった時に社交辞令のつもりでイアンに問えば、「特にありません」と返すものの、彼にしてはどこか歯切れが悪い。

なかなか口を割らないイアンに根気強く問えば、大きな溜息とともに「妹が…婚約解消となりました」と思いがけないことを云い出した。


「そうか………え?」


聞いたはずの言葉は、しかし自分の都合の良い空耳が聞こえたのかと、リックは思わず聞き返した。

だが一度口にしたら、思うことが色々とあったのだろう、イアンは饒舌になった。


「婚約解消自体は…良いのです。あの男は、そもそも妹を大事にしていなかった。父も私も、いずれ婚約は解消に持っていくつもりでしたから」


あの男、とはサーシャの婚約者のメリック伯爵令息のことだろう。

リックもそこまでは確認していた。

だが、彼がサーシャを大事にせず、婚約解消にまでなろうとは———

無言のままのリックに、イアンは続ける。


「許せないのは、あの男はこの王城で浮気相手と逢引きしていたのです。しかも、その場を妹が目にしてしまった…! 最低の男です、あいつは!」

「それは酷いな…」


リックは顔を顰め、つい言葉が口をついて出た。

サーシャがどれだけ傷ついたか…と想像すると、腹の底から怒りが湧いてくる。


「そうでしょう! いくら妹にも気持ちがなかったとはいえ、酷い男です…!」

「———え?」

「えっ?」


あまりに意外そうなリックの反応に、気持ちが盛り上がっていたイアンはふと言葉を止めた。


「…サーシャ嬢は、メリック伯爵令息に想いを寄せていた訳ではない…?」


リックの強い口調に。イアンは気圧されたように頷いた。


「え…ええ、妹は淡々と婚約を受け入れていただけです」

「本当に?」

「殿下?」

「あ…いや、いい」


不謹慎だと思いつつ、リックの顔に笑みが溢れる。


「では、遠慮しなくて良いのだな」


そう独言た言葉は、リックの口の中に消え、イアンの耳には届かなかった。





リックはすぐに父親である国王に、かねてから話のあったリンドベルグ公爵家に降る話をしつつ、レーニエ伯爵令嬢との婚約を望むことを伝えた。

大叔父の、現リンドベルグ公爵から王家に申し入れがあったが、リックが遊学することになり立ち消えていた話だ。

もちろん、大叔父にも事前に話をして、後押ししてもらうことは忘れない。

王国の騎士だった大叔父が、現騎士団長のレーニエ家の令嬢との婚姻を喜ばないはずがないのだ。

国王と大叔父からの内諾を取ると、レーニエ伯爵家へ正式に婚約の申し込みとなった。

この時点で、サーシャには王家の影を護衛につける指示を出す。


婚約申込みの書面は王命を避け、王国の第三王子からの求婚という形となったが、リックは直接、騎士団長の執務室へ出向き、人払いをした上でサーシャの父親に話をした。

曰く、大切にするので貴家の令嬢、サーシャとの婚約を認めて欲しいこと、自分からの申し出を断ることが難しいのは理解しているが、彼女の気持ちを得る努力をしたいこと、なので暫くは婚約の申込みのことは彼女に黙っていて欲しいこと———

突然のリックの訪問に僅かに目を見開いたレーニエ伯爵は、黙ったままリックの話を聞いていたが、聞き終えるとふっと笑みを漏らした。


「殿下、娘は幸せ者です。娘の心を得ようとしてくださるとは…」

「レーニエ団長、私は欲張りなのだ。王子に乞われたから嫁す、というだけで満足したくない。彼女も望んで、私の元に来て欲しいのだ。そのための努力は惜しまないつもりだ」

「努力…」

「平たくいうと、お嬢さんを口説かせてくれ、ということだ」

「殿下!」


つい大声になったレーニエ伯爵に、リックはニヤリと笑って見せる。


「困ったお方だ。娘の父親を前にして……これ以上は、ご勘弁ください」


眦を下げてそう云いつつも、レーニエ伯爵は、騎士団に託されてからのリックの立ち居振る舞いに少なからず好感を抱いていた。

その方がサーシャを望んでいるのだ、しかも騎士団長の娘だからとか、レーニエ家の令嬢だからではなく、サーシャだからこそ望んでいると云って憚らない。

メリックの倅とは雲泥の差だ、と嫌なことを思い出してレーニエ伯爵は苦々しく思った。

だが、それも一瞬だ。

メリックの倅は、追い詰めるだけ追い詰めた。

あとは、娘が幸せになるだけだ。

ならば、目の前の方にはあのことを話しておいても大丈夫だろう……。


「殿下、以前に娘の婚約のことをお話ししたのを覚えていらっしゃいますか」

「ああ…」


いきなり話題が変わったレーニエ伯爵に、リックはとりあえず相槌を打つ。


「あの時、娘の婚約は条件付きだとお話ししたと思います」

「そうだったな」

「その条件をお話ししましょう」

「良いのか?」

「殿下にこそ、聞いておいていただきたい」



◆◆◆



リックは、その時ほどサーシャに影を付けておいて良かったと思ったことはなかった。

昼休みの中庭でそれは起こった。


影から冷静に、だが至急の連絡が囁かれ、騎士団の休憩室に向かっていたリックはすぐに踵を返す。

前を歩いていたイアンが振り返り、彼に短く指示を飛ばすと、リックは走り出した。

回廊を走りながら下の中庭に目を遣ると、端の方でサーシャが男と対峙していた。

同僚なのだろう、もう一人、女官服の女性と一緒だった。

男はずい分と着崩れた格好をしていたが、メリック伯爵令息トレバーだろう。

サーシャは同僚の女性をさり気なく背に庇いながら、じりじりと後退している。

このままでは間に合わない。

リックはもどかしく思い、周りを見まわした。

———あそこなら!

回廊の端が彼女たちに一番近い。

リックはそこまで走って、一気に飛び降りた。

柔らかい草の上に着地し、すぐにサーシャのいる方を窺う。

それとなく身構えているサーシャに、リックは我知らず苦笑した。

いざとなったら、友を守って戦う覚悟なのだろう。

彼女が負けるとも思えなかったが、騒ぎに集まった人々の前で、あの美しい蹴りを披露させる訳にはいかない。

そっと彼らに近づいたリックは、サーシャとトレバーの間に体を滑り込ませた。

「これは何の騒ぎかな?」とリックが問えば、トレバーが体を揺らして一瞬怯む。


「リックさま…」


———もう大丈夫だ。

背後から聞こえた声に、リックは一瞬目線を送って頷いた。

しかし、トレバーは声を荒げてリックに云い放った。


「これは僕と彼女の話だ、口を挟まないでもらおう。そこをどいてくれ!」


リックは目の端に、加勢を連れて到着したイアンたちを認め、彼に目線を送った。

そして、サーシャに問いかける。


「…と、云っているが?」


間をおかず、サーシャからは凛とした声で応えがあった。


「私の方からは何も話はございません。突然呼び止められ、なぜ呼び止められたかも判らず困惑していたところです」


———なるほど。本当に彼女は、元婚約者に対して何も思うところはないらしい。手加減しなくて良さそうだ。

サーシャの声が聞こえていたことは判っていたが、リックもさらに駄目押しする。


「だとさ」


控えていたイアンたちにリックは頷き、素早く近づいた騎士たちがトレバーを両側から捉える。


「何をっ…! 放せ!」


暴れようとするトレバーに、イアンが耳元で何事かを囁いた。

途端に、悔しそうに唇を噛んだ彼は大人しくなった。

メリック家の嫡男は廃嫡になるらしい…という話はリックの耳にも届いている。

恐らく、イアンはその辺りの話でトレバーを黙らせたのだろう。

トレバーは騎士たちに連れられ、イアンも一礼して去って行く。


「リックさま、本当に有難うございました」


淑女の礼をとるサーシャに、今更ながら安堵したリックは自ずと笑顔になった。

彼女が律儀に、あの時の条件を履行してリックを名で呼ぶのも好ましい。

仄かに頬を染めて俯いたサーシャに、リックは心の中で独言る。

———これは、脈アリと見て良いかな?

自分は、男女の機微に疎い方ではない。

しかし努めて冷静に返答をする。


「大事なくて良かった。サーシャ嬢と…?」

「リリア・ドルトンと申します」


リリアもカーテシーをして、リックに感謝の意を示した。

それでもまだ顔を上げないサーシャの頸にも朱が上がっていることに気がつき、リックは堪らず彼女の耳元に顔を寄せた。


「助けはいらなかったかもしれないが、俺が助けたくて来てしまった……許してくれ」

「いいえ…! そんなこと…」


云いかけて固まったサーシャの初心な反応が、堪らなく愛おしい。

「部屋まで送ろう」と申し出ると、「いいえ、これ以上はご迷惑になるだけですので」と云いつつ、サーシャは周りに目を遣った。

そろそろ昼の休憩も終わるころだ。

集まっていた人々も散って行っていたが、まだこちらに目を向けている人もいることに気がつき、リックは彼女が考えていることに思い至った。

恐らく、これ以上人々の耳目を集めたくないに違いない。

———ここは、引くしかないか…。

「では、気をつけて」と云うと、彼女たちは一礼して歩き出して行った。

その後姿を見送り、立ち尽くしていると誰かが近づく気配がする。

不穏なものではないので放っておくと…。


「殿下、ひょっとして…」


振り返ると、声の主、イアンはリックの視線の先を辿り、彼に目線を戻した。

その先を口にせず、イアンは戸惑うようにリックを窺い見る。


「想像している通りだよ」


リックの言葉に、イアンの両目が見開かれた。

予想通りの反応に、リックの目元が緩む。


「これから全力で口説くつもりだ。協力は歓迎だが、邪魔はしてくれるなよ」

「殿下…」

「ん?」

「本気なのですね!」


ガバリと詰め寄ってきたイアンの目は真剣だった。

軽く目を瞠ったリックは、そのまま笑顔になる。


「これ以上なく本気だ。君たち兄弟が大切にしてきた妹を守る役目を、俺に譲ってくれないか」


真意を探るように、イアンはリックの目を暫く見つめていた。

目は離さないまま、真一文字に結んだイアンの唇から漸く言葉が漏れる。


「…判りました。お任せします。でも…」


キッと睨むように眼光を鋭くし、イアンは挑むように云った。


「サーシャ…妹を不幸にしたら、許しません。例え……貴方だとしても」

「もちろん。その気持ちは、肝に銘じておこう」


イアンの視線を正面から受け止め、リックは穏やかに微笑んだ。

イアンは視線を一度下に落とし、呟くように云う。


「なら…いいです…」


スコットもそうだが、年が近い分、イアンは間近でサーシャを見守ってきたのだろう。

父親が吟味して選んだはずのサーシャの婚約者は、蓋を開けてみれば何とも不甲斐ない男だったことに、彼女よりも憤っていたのかもしれない。

しかし、レーニエ兄弟と愚かなトレバー・メリックのお陰で、今や自分がサーシャ・レーニエ嬢を手に入れる機会を得たのだ。

これを僥倖と呼ばずして、何と呼べばいいのだろう。

リックはイアンの肩を叩き、彼と視線を合わせると力強く頷いた。





それから数日後の夜、リックの元にイアンから手紙が届いた。

思わぬ相手からの手紙を訝しみつつ、内容に目を通したリックは呟いた。


「これは…借りができたな」


協力は歓迎する、と云ったリックの言葉を覚えていたらしい。

ほんの数行、ほとんどメモのような手紙の内容を読み返し、リックはレーニエ家の紋章が入った便箋を執務机の上に置く。

そこにはこう書かれていた———


『彼女は明日、朝駆けに出かけるらしい。

行き先は判らないが、馬丁に伝言しているのを聞いた。

健闘を祈る。           —— I・R 』





ピンと張った朝の空気が、太陽の光で徐々に柔らかくなってくるのを感じながら、リックは眼下に広がる王都を見ていた。

そう遠くないところで馬の嘶きが聞こえる。

———来たか。

前回会った時は本当に偶然だったが、今朝は違う。

この場所を知っている人物は、自分の知る限り一人しかいない。

彼女が朝駆けをすると知って、目的地はここしかないだろうとリックは確信していた。

微かな足音に、自然と笑みが溢れる。


「いい天気だな」


振り返らないまま、リックはそう声をかけた。


「…あの馬は、貴方さまの馬でしょうか」


近づく足音と共に、彼女の声がした。

いきなり何を話すかと思えば、馬の話か、と思う。

そこでリックは、レーニエ家は良い馬を育てていることでも有名だということを思い出した。

サーシャもレーニエの娘だ、馬には並々ならぬ関心があるのだろう。

そう云えば前回は、彼女はトールに会うことがなかった。

あの馬が並の馬でないことに気がつくとは……。


「馬…ああ、トールのことか。大きな馬だろう」


しかし、リックは何食わぬ顔で答えた。

隣に並んだサーシャもまた、王都に目を向けたまま静かに続けた。


「澄んだ目をした、いい子ですね。断りもなく、撫でさせていただきました…すみません」


そう云って、頭を下げるサーシャに、リックは軽く目を見開く。

トールは気難しい馬で、触れさせる人間を選ぶ。

そもそもあの馬を貰い受けたのも、トールが珍しくリックに懐いたこともあったからだ。

連れ帰ったあとも、トールはごく限られた馬丁にしか手入れを許さない。

それが、初めて会ったサーシャに触れさせるなど———

———魔法でも使ったみたいだな。

内心で盛大に驚きながらも、リックは努めて平静を装った。


「そうか…いや、構わない」

「あの馬はどちらの馬でしょう?」


見上げてきたサーシャの視線を受けて、リックは漸く彼女の意図に気がついた。

トールが彼女に触れさせたことに驚いて、自分としたことが会話の流れに気づくのが遅れたらしい。

彼女は、トールが滅多に手に入らない種類の馬だと気がついているのだ。

サーシャを見下ろし、リックは警戒して目を細める。


「それを聞いてどうする」

「いえ…わが家も馬に関しては詳しいと自負しておりますが、初めてお目にかかる種類かと思いましたので」


落ち着いて答えるサーシャに、誤魔化せはしないな、とリックは瞬時に観念して短く溜息を吐いた。


「デビアナの馬だ」

「デビアナ…」


繰り返して呟いた彼女の口元を見つめ、リックは流石だ、知っているのだな、と思う。

デビアナ産の馬を、一介の騎士が所有しているはずがないことも。

———本当はもう少しゆっくり、騎士として彼女に近づき、心を許してもらってからと考えていたが……。


「———貴方さまは一体、どなたなのでしょう」

「リック・トルーディと名乗ったはずだが」


———やはり、そうきたか。

率直に問いただしてくるサーシャは好もしい。

だがリックとしても、問われたからと云って、はいそうですか、とそう簡単に素直に身分を明かす訳にはいかない。

いや、それとも———?

真っ直ぐに見つめてくるサーシャのエメラルド色の瞳を受けつつ、リックの頭の中を考えが巡る。


「それは…本当の貴方さまではないのでしょう?」


エメラルドの瞳が真摯に見上げてくるのを認め、リックはふと視線を外して考えに集中する。

自分が王子であることを打ち明けるのはやぶさかではない———少なくとも、いずれは。

サーシャが、自分が王子であることに魅力を感じるのなら、躊躇いはしないだろう。

しかしむしろ、リックが恐れているのは逆の場合だ。

今までの彼女の言動から考えて、彼が王子だと知ってサーシャが距離を置こうとすることだった。

とはいえ、このまま誤魔化すことも得策とは云えない。

だとすると、方法は一つ。

リックの肚は決まった。

視線を戻してサーシャに向けると、彼女は少したじろいだように見えた。

彼女が何か云う前に、リックが口を開く。


「俺が何者か知ったあとでも、俺から逃げないと約束してくれ」

「……それは…」


云い澱んだサーシャに一歩近づき、リックは云い放った。

自然と笑みが溢れる。


「もう遅い。先に聞いたのは君だ」


そのままリックは袖のカフスに手を触れた。

仕込んでおいた、髪と目の色を変える魔道具だ。

薄い靄がかかり、すぐに霧散する。


「!」


サーシャが息を呑んだ音がした。

リックは、視界に入る髪が金色に変わっていることを確認した。

魔道具は正確に動作したようだ。

恐らく目の色も、碧に戻っているだろう。

どちらも、王家縁の色だと彼女は気がついているはずだ。

驚きに目を瞠っているサーシャの手を取り、リックは跪いた。


「私の名はケイン・フレデリク・トレメント。サーシャ・レーニエ伯爵令嬢、以降お見知りおきを」


そのまま、サーシャの指先に口づける。

サーシャがあっという間に手を引いて、悲鳴のように声をあげた。


「殿下……いけません!」

「なぜ?」


立ち上がったリックは、漸く本来の自分のままでサーシャと向き合えることに一種の満足感を感じていた。

しかし、彼女はそうではないだろう。

一介の騎士でないとして、彼女はどこまで想像しただろうか。

———やはり、な。

自分の身分を知って、サーシャが今にも逃げ出しそうな様子を見せると、そうはさせないと彼女との距離を詰める。

彼女を逃す気などさらさらない。


「こうなることは予想できたから、まだ姿を晒すのは早いと思っていたが…。まあ、こうなった方が俺もやり易い。これから全力で口説くから覚悟して」


じりじりと後退るサーシャにそう告げて、リックは彼女が後退った分前へ足を進める。

ついに彼女の背に大きな木の幹が当たるとそのまま一気に距離を詰め、彼女の頭上に手を突いて、リックはサーシャを囲い込んだ。

俯いたままのサーシャの頬が赤いのは、男性との距離が近過ぎるせいだと察してはいたが、初心で愛らしい姿に抱きしめてしまいたくなる。

木に手を突いたのは、そんな自分を戒めるためでもあった。


「殿下はご遊学中だとお聞きしていました…」


顔を上げずにそう云うサーシャに、どうすれば顔を上げさせられるだろうか、と思いつつリックは答える。


「もともと今月には帰国予定だったが、トールは思ったより足が早くてずいぶん早く帰り着いてしまった。すると、兄上が少し城下を見て来いと。だから騎士団に紛れさせてもらっていた」


サーシャは、リックが云った言葉を頭の中で考えているのだろう。

彼女の理解が追いつくまで待とうと、リックはそのまま彼女を見下ろしていた。

ほんの短い間があき、彼女は躊躇いがちに口にする。


「あの…殿下、近いです……」


殿下、と再び呼ばれたことに、リックは自分でも驚くほどムッとした。

今まで徐々に縮めた距離が、一気に開いた気がしたのだ。


「リックだ」

「え?」


思わず見上げてきたサーシャのエメラルドの瞳が、驚いたように軽く見開かれていた。

やはり美しいな、とその瞳に見入ったのは一瞬で、慌てて俯けようとする彼女の顎をリックの大きな手が思わず掬っていた。

もっと、この瞳を見ていたい。

この瞳に自分の姿だけを映していたい。


「そう呼ぶ約束だろう」

「でも…」


サーシャの云いたいことも判るが、これは譲れない。

それに———


「これから全力で口説くと云ったはずだが?」

「!」


サーシャの目が見開かれ……それから、ゆっくりと眦を下げた彼女の表情に、リックは心持ち眉根を寄せた。


「殿下、わたくしは婚約破棄をした身です…」


はっきりした口調でそう云ったサーシャは、そのままくしゃっと顔を歪めた。

云ったあと唇を噛んでいることに、自分では気がついていないのだろう。

婚約破棄をした令嬢は、例え自分に非がなくとも敬遠されるものだ、ということを彼女もよく理解しているのだ。

その婚約は、レーニエ伯爵家からの条件で、サーシャが婚姻できる18歳になるまで公表しないことになっていた。

だが、彼女はまだそれを知らない。

知らないが故の彼女の表情に、不謹慎と思いつつリックの胸は踊る。


「…そんな顔をしているということは、俺のことを憎からず思っていると自惚れていいということか……?」


そう云って、リックはサーシャの頬を撫でた。

愛しさが込み上げてくる。

サーシャが、少し怪訝そうな顔になったので続けた。


「泣きそうな顔をしている」


リックはそのまま、額をコツンとサーシャの額に合わせた。

あんな男との婚約のことなど、もうどうでもいい。

大切なのは、今のサーシャがまだ誰のものでもないということだ。


「サーシャ・レーニエ、愛している。どうかもう、素直に俺に口説かれてくれ」

「わ………わたくしで良いのでしょうか…」

「君がいい。君以外はいらない」


これほど愛しいと思える相手に巡り会えるとは思わなかった。

他人のものだと、一度は感情を閉じ込めようとした。

一国の王子だとはいえ———いや、王子だからこそ、力を持ってして奪うことは許されない。

だが、そうでないと判った時点で、諦めるという選択肢はもうリックにはなかった。

ゆっくり、好きになってくれればいい。

いや、嫌いでさえなければ、それでも———

しかし、サーシャの次の言葉に、リックの心臓が止まりそうになる。


「私も…お慕いしています…」


考えるより先に、行動に出ていた。

リックの唇が、サーシャのそれに触れる。

我慢がきかない自分に心の中で苦笑しつつ、漸く求めるものが得られてリックは蕩けるような笑顔になった。

驚いたように目を瞠ったサーシャが愛らしい。


目を閉じるように伝えて、再び彼女に口付ける。

恐がらせないようにそっと何度も口付けていると、ふとサーシャの唇が緩み、我慢できずにリックは舌を差し入れた。

サーシャの舌を探し当て、絡めとる。

芳しい吐息さえも食べてしまいたくなり、リックは思わずサーシャの唇を夢中で貪った。

これ以上は…と、頭の隅で警鐘が鳴り、理性を総動員してリックはサーシャの唇から自分のそれを引き離す。

無意識に髪をかきあげると、息を整えていたサーシャが、上目遣いに見上げてきた。

睨んでいるつもりらしい。

そんな顔をされても、可愛いだけだ。

いや、むしろ———

リックはサーシャに苦笑を向ける。


「そんな顔はしない方がいい。これでも節度を保とうと努力しているつもりだからな」


リックの手が勝手に、するりとサーシャの頬を撫でた。

そのまま指がサーシャの唇の形をなぞる。

———恐がらせてはいけない。これ以上は……。

頭では判っているのに、指は名残惜しげにサーシャの唇を撫でた。


「…え?」


未だ放心しているサーシャに、自分は少し急ぎ過ぎているらしい。

リックは今、自分が云った言葉を聞き逃して見上げてきたサーシャに笑顔を向けた。

彼女がちゃんと意識を向けていることを確認して、もう一度彼女に告げる。


「来月の王家主催の舞踏会には、必ず来て欲しい」

「…はい」


来月開かれる、王家主催の舞踏会のことは彼女も知っているのだろう。

素直に頷いたサーシャに気を良くして、リックはサーシャの手を取り、指先に唇を落とす。


「ドレスを贈るから、それを着て来てくれ」

「…はい」

「ダンスも踊ってくれるだろう?」

「…はい」

「結婚してくれる?」

「…は…!」


はい、と云いかけて固まったサーシャに、リックは心の中で苦笑した。

———残念。


国の第三王子ケイン・フレデリク・トレメントと、レーニエ伯爵令嬢サーシャとの婚約はもう整ったも同然だ。

だから今更、求婚せずとも二人が婚姻することは必然と云える。

それでも、リックはサーシャから直接、同意の言葉を聞きたいと思ってしまった。


「殿下…!」


焦ったように云うサーシャに、リックもクスリと笑う。


「惜しいな…。もっとゆっくり進めるつもりだったのに、俺は早く君に頷いて欲しいようだ」


王族として幼少の頃からそう躾けられてきたこともあるが、リックは本来、自分の感情をコントロールすることは得意だった。

それなのに、サーシャのこととなると上手くいかず、つい本心が出てしまう。

だがそれは思いの外、心地良いことだった。

それにもう一つ。

譲れないことがあった、とリックは続けた。


「リックと呼ぶ約束だろう。今後、『殿下』と呼ぶ度にキスをしようか」

「リック……さま…」


———もう一度だけ…。

リックは心の中でそう言い訳をして、身を屈めると愛しい女性に口付けをした。




お読みくださり、どうも有難うございました。


リックサイドの内容ですが、本編で書けなかった部分を書くことができて良かったです。

お楽しみいただけましたら嬉しいです。


あと1話、スコットを絡めて書こうと思っておりますので、気長にお待ちくださると嬉しいです。^-^

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ