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後編

漸く甘くなってきました。

お楽しみいただけると良いのですが。


よろしくお願いいたします。


誤字など編集しました。申し訳ありません。<(__)>


「サーシャ、お願いがあるんだ」


猫撫で声で話しかけられ、背筋にぞわぞわと嫌な感覚が走る。


「メリック伯爵令息さま、気軽に名前を呼ぶことはお控えください。貴方さまからお願いされることなどあるとは思えません」

「そんなに冷たいこと云うなよ。婚約していた仲じゃないか」


つまり、現在は赤の他人だ。

サーシャは、ついそう云いそうになるのをぐっと堪える。

昼休み中の中庭は案外人が多い。

異様な雰囲気を感じ取り、周りの人たちの注目を集め始めていた。


願いも何も聞く気はさらさらないけれど、このまま大人しく立ち去ってはくれそうもない。

黙ったままのサーシャに焦れたのか、トレバーが少しずつ距離を詰めてきた。

少しずつ、サーシャたちも後ろに下がる。


「こちらの非は認めたんだ、許してくれたっていいだろう。それなのに、君の父親が責め立てるから、父上も廃嫡すると云いだすし…。君には申し訳ないと思うけど、僕は真実の愛に出会ったんだ。仕方ないだろう?」


———この人は何を云ってるの?


今話していることが、自分とどう関係するのかさっぱり判らない。

トレバーはなおも言い募る。


「僕が廃嫡になんかなったら……シビルとも結婚できないし、そんなの困るじゃないか。だからさ、サーシャが父上に許すと云ってとりなしてくれたら、ね? いいだろう?」


サーシャは、目の前の男が話していることを半ば呆然と聞いていた。

あれだけ放っておかれて名ばかりの婚約者だったのに、なぜその私が彼のためにそこまですると考えられるのだろう。

自分本位の考えに、呆れを通り越して気持ち悪くなる———


それでも何も云わないサーシャに、トレバーは「ね? いいだろう?」となおも距離を縮めてくる。

サーシャは、リリアに気づかれないないように身構えた。

女官の制服は、かっちりした型のモスグリーンのドレスだ。

ドレスは裾捌きが面倒だけど、通常、貴族女性たちが着るようなドレスよりは動き易い。

いざとなったら、リリアにも危害が及ばないようにしなければいけない。


と———

サーシャの視界に、濃紺の騎士服が広がった。

サーシャを背に庇うように、トレバーとの間に身体を割り入れ、静かな声が「これは何の騒ぎかな?」と問う。


「リックさま…」


思わずサーシャの口から溢れた言葉に、彼女の前に立つ騎士は一瞬目線を送り、微かに頷いた。

トレバーはびくりと身体を揺らし、突然現れた人物に目を瞠った。

しかし怯んだのは一瞬で、騎士に向かって噛み付くように云う。


「これは僕と彼女の話だ、口を挟まないでもらおう。そこをどいてくれ!」


その頃にはさらに数人の騎士が到着し、距離を取って状況を見守る。

その中にイアンの姿を認め、彼女は兄に向かって感謝の視線を送った。


「…と、云っているが?」


振り返ったリックは、そうサーシャに問いかけた。

サーシャはリリアに頷いて見せ、凛とした声で応える。


「私の方からは何も話はございません。突然呼び止められ、なぜ呼び止められたかも判らず困惑していたところです」


サーシャの声はトレバーにも聞こえていただろうに、わざわざリックはトレバーに向き直って告げた。


「だとさ」


リックは見守っていた騎士たちに頷き、素早く近づいた騎士たちがトレバーを両側から捉える。


「何をっ…! 放せ!」


抵抗しようとするトレバーに、イアンがそっと耳打ちした。

彼以外には聞こえない音量で。


「これ以上暴れたら、本気で廃嫡は免れないよ」


ぐっと声を上げ、そのまま黙り込んだトレバーは、大人しく騎士たちに連れられて行く。

イアンもリックに軽く頭を下げて去って行った。


おおっ…! と遠巻きに見ていた人々から声が上がり、遠くできゃーっという女性たちの声も聞こえる。

騎士に連行されるトレバーを見送り、サーシャは改めてリックに淑女の礼をとった。


「リックさま、本当に有難うございました」


こちらを振り返ったリックを見上げると、微笑んだ顔が見下ろしてきて、サーシャは顔を俯けた。

頬に熱が上がってくるのが判ったからだ。


「大事なくて良かった。サーシャ嬢と…?」

「リリア・ドルトンと申します」


リリアもカーテシーをして、リックに感謝の意を示す。

俯けた顔にふと気配を感じ、サーシャが視線を上げると、すぐ近くにリックの顔があった。

驚いて固まっていると、耳元で彼の声がする。


「助けはいらなかったかもしれないが、俺が助けたくて来てしまった……許してくれ」

「いいえ…! そんなこと…」


ありません、と云おうとして、言葉は口から出ないまま固まってしまった。

リックの榛色の瞳が、サーシャのエメラルドの瞳を見つめて笑ったからだ。


心臓が止まるかと思った———

リックの笑顔を間近で見た時、サーシャは本気でそう思った。

何より、リックの笑顔に甘さが感じられて、サーシャの頬に熱が上がってくる。

遠くで、黄色い女性たちの声が上がっていたことなど気づくはずもなかった。


「部屋まで送ろう」というリックの提案は、丁寧にお断りした。

白昼に王城の中庭で繰り広げられた出来事は、巻き込まれた形ではあるけれど充分に注目を集めてしまった。

我に返ったサーシャはそう気づいて、これ以上他人の耳目を集めることはしたくなかったからだ。

人々が散っていく中、サーシャたちはリックに一礼して歩き出した。

背中に視線を感じて、引いていた熱が戻ってくる。


「ねえ…」


だいぶ歩いたころ、ひょい、とサーシャの顔を覗き込んでリリアが声をかけた。


「あの騎士さまとお知り合いなの? リックさま…だったかしら」


サーシャの頬が赤らんでいることに気づいているだろうに、リリアは楽しそうにふふふっ…と笑った。


「何度か…お目にかかったことがあるだけです」


そう云いつつ、サーシャは先ほどの場面を思い返していた。

恐らく、サーシャが身構えていたことはリックにも判っていたに違いない。

そうでなければあんな言葉を云うはずがない。

本当に、彼とは貴族令嬢らしからぬ時にばかり遭遇する…と気がついて、サーシャは密かに落ち込んだ。

けれど、実際はリックが来てくれて助かったのだ。

あのまま、引く気などなかったトレバーに相対するのがサーシャだけだったら、大立ち回りとなりかねない。

衆人環視の中、そんな事態となればサーシャ、引いてはレーニエ家のことを何と云われるか———

それにしても…。


と、サーシャはリックの広い背中を想い出してドキリとする。

騎士服の濃紺が目の前に広がった時、思わず縋り付いてしまいたくなった———


「素敵な方だったわね…」


そう云われてハッとなり、リリアの方を振り向くと、揶揄うような顔をした彼女がサーシャを見ていた。


「そう…ですね」


観念してサーシャも認める。

とくとく…と、心臓の音はまだ早い。

けれど、本当に何度か偶然に会っただけ。

知っているのはリック・トルーディという名の騎士、それだけだ。

それだけしか知らない、と云う事実に胸がずきり、と痛む。


「でも変ね…」


そう隣から声がする。

リリアを見ると、頬に指を当てて考えるような仕草をしていた。


「あの騎士さま、変わっていたわ」

「変わっていた…?」


意外な言葉に、サーシャは思わずリリアの言葉を繰り返す。


「だって…。イアンさまと同じ制服だったのに、イアンさまの上司みたいだったもの」

「あ……」


サーシャの兄のイアンは、リリアも何度か会ったことがあり、いつも騎士の制服を着ているから判ったのだろう。

確かにリックはイアンと同じ、襟と袖にグレーの線が入った騎士団隊長の制服を着ている。

騎士団の制服を見慣れているサーシャは、何の疑いもなくリックは隊長を務めているのだと思っていた。

けれど時々、何かがサーシャも引っかかってはいたのだ。

そういえば、先ほどもイアンは去り際にリックに礼をしていた。

階級が同等なら、兄のあの態度は少しおかしい。

それに、最初に会った時も、リックは父のことを「レーニエ殿」と呼んでいた。

父の部下である騎士であれば、「騎士団長」または「レーニエ騎士団長」と正式に呼ぶはずだ。

小さなことだが、重なっていくとおかしいことばかりのような気がしてくる……。


———あの方は一体誰……?


疑問は残るものの、父親にも兄のイアンにもその疑問をぶつけることはできなかった。

国を守る任務で忙しい父や兄に、そんな瑣末なことを聞いて良いものか迷い続けていたからだ。

聞いてみて、そして自分はどうしようというのか。

それならばいっそ、聞かずにおく方が良いのかもしれない…とも考える。


一方、あの昼間の出来事は、メリック伯爵令息の暴走……という形で人々には認識されたらしい。

間違いなくサーシャは巻き込まれただけなのだが、あの時周りにいた人々にどう捉えられたかは判らない。

レーニエ家の醜聞にはならなくて済みそうだと、とサーシャは安堵した。

その後、トレバーの父親のメリック伯爵は、財務省大臣の事務次官を辞職したと聞いた。

息子の責任を取った形で、領地に引っ込むことになったようだ。

その後、トレバーがどうなったかは聞こえてこない。

彼は嫡男で、メリック家唯一の子どもだったから、恐らく大事に育てられたのだろう。

サーシャと初めて会ったころは優しかったし、良い印象しかなかったのに。

どこでどうなってしまったのかは彼女には判らないが、もう彼とこの先二度と関わることはないということは判る。




良い天気の心地よい朝、先日と同じようにエリーに乗り、サーシャはあのお気に入りの場所へ走った。

辿り着いてみると、いつもエリーを繋ぐ木の側には立派な黒い馬が繋がれていて、すでに先客がいることを告げる。

どきん、とサーシャの心臓が大きく鳴った。


———もしかして…。


エリーを繋いで黒い馬に近づいてみると、馬はじっとサーシャを見つめていた。


「いい子ね…」


そう呟いて、すぐに触れたりせず、手を鼻先に持っていく。

馬が自分の匂いを嗅いで馴れるのを待ってから、ゆっくりと目を見ながら身体を撫でる。

暴れたりせず、サーシャのなすがままに撫でられ、馬は心なしか目を細めているようにも見えた。


「本当にいい子だわ」


にっこり馬に笑いかけ、改めて黒い馬の全体に視線を走らせる。

この国では見たことがない大きさの、立派な馬だ。

代々武官として王家に仕えるレーニエの家は、馬にも一家言あり、優秀な馬を育成している家としても有名だ。

そのわが家にも、このような種類の馬はいない。


この馬の持ち主があの人なら、本当に彼は誰なのだろう———


知るのが恐ろしいような気もするけれど、知らずにもやもやした気持ちを抱えているより、いっそ判ってしまった方がスッキリするに違いない……。

心を決めて、サーシャは馬たちから離れて少し登った丘の上に向かった。


「いい天気だな」


王都に視線を向けたままのその人は、振り返りもせずにそう云った。

気配で人がいることは判ったのだろう。

それが本当にサーシャに向けられているかは、ともかく。


「…あの馬は、貴方さまの馬でしょうか」


サーシャは彼に近づきながら、一番聴きたかったことをまず聞いてみる。


「馬…ああ、トールのことか。大きな馬だろう」


サーシャの声だと判っているだろうに驚かないところを見ると、彼女と判っていて声をかけたのか。

彼女が隣に立つまで、彼は振り返らなかった。


「澄んだ目をした、いい子ですね。断りもなく、撫でさせていただきました…すみません」


そう頭を下げるサーシャに、彼は軽く目を見開く。


「そうか…いや、構わない」

「あの馬はどちらの馬でしょう?」


見上げてきたサーシャの視線を受けた榛色の瞳が、すっと細められた。


「それを聞いてどうする」

「いえ…わが家も馬に関しては詳しいと自負しておりますが、初めてお目にかかる種類かと思いましたので」


落ち着いて答えるサーシャに、相手は視線を逸らせて短く溜息を吐く。


「デビアナの馬だ」

「デビアナ…」


サーシャも話には聞いたことがある。

ここから北にある国で遊牧の民が多く、他国の王侯貴族も欲しがるような名馬を輩出する国だと。

そんな馬を持っているなど、一介の騎士であるはずがない。


「———貴方さまは一体、どなたなのでしょう」

「リック・トルーディと名乗ったはずだが」


真っ直ぐに見つめてくるサーシャのエメラルド色の瞳を、相手の榛色の瞳が受け止める。


「それは…本当の貴方さまではないのでしょう?」


重ねてサーシャが問えば、先に目を逸らせたリックは、視線を遠くに送って少し考えているようだった。

半分は当てずっぽうだ。

しかし、こうして彼が逡巡しているということは、もしかして———

戻ってきた彼の視線に強い意志のようなものを感じて、サーシャは一瞬たじろぐ。

やはり、聞かなかったことに……と、喉まで出かかった言葉より先に、リックが口を開いた。


「俺が何者か知ったあとでも、俺から逃げないと約束してくれ」

「……それは…」


何故か今、全力で逃げた方がいいような気がする。

云い澱んだサーシャに、逃さないとばかりに一歩近づいたリックが云い放った。


「もう遅い。先に聞いたのは君だ」


不敵に笑ったリックの笑顔は、やはり一介の騎士のもののようには思えない威厳を感じる。

サーシャの返事を待たずに、リックは袖のカフスに手を触れた。

途端に彼に薄い靄のようなものがかかり、それも一瞬で霧散した。


「!」


そこには、今までいた暗い茶色の髪と榛色の瞳の男は消え、眩しい金色の髪に碧の瞳をした人物が立っていた。

金色の髪は王家縁の者に多く、碧色の瞳も王家代々に引き継がれる瞳の色だ。

そういえば以前に、王家の者は髪と瞳の色を変える魔道具を持っていると、どこかで聞いたことがある。

まさか———

驚きに目を瞠り、言葉を失うサーシャの手を取り、リックは跪いた。


「私の名はケイン・フレデリク・トレメント。サーシャ・レーニエ伯爵令嬢、以降お見知りおきを」


そのまま、サーシャの指先に口づける。

この国の第三王子の名を聞いて、彼女は思わず自分の手を引いた。


「殿下……いけません!」

「なぜ?」


立ち上がったリックは、面白そうにサーシャを見下ろしていた。

———なぜ? ダメに決まってるわ!

王家の者が、その臣下の貴族の家の娘に跪くなどあり得ない。

混乱したサーシャはそのまま後退り、できることならそのまま逃げ出してしまいたかった。

しかし、目の前いるのは国の第三王子だ。

彼の許可を得ずに去ることなど考えられない、と根が真面目なサーシャは思わず踏みとどまってしまう。

片方の口の端を上げて微笑ったリックは、ずいっとサーシャに近づいた。


「こうなることは予想できたから、まだ姿を晒すのは早いと思っていたが…。まあ、こうなった方が俺もやり易い。これから全力で口説くから覚悟して」


すごいことを聞いた気がしたが、じりじりと後退るサーシャは後ろが気になり、リックの言葉は頭に入ってこない。

淡々とリックは距離を詰めてくる。

彼女の背に何かが当たった。

感触から、木の幹だと判る。

自分の頭上に手を突かれ、リックに囲い込まれたようになったサーシャは、視線を上げられないまま必死に考えを巡らせた。

第三王子は遊学中だと聞いていた。

王子の帰国の予定までは知らされていないが、来月に開かれる王城での舞踏会は、第三王子の帰国を祝うためのものということになっているのだ。


「殿下はご遊学中だとお聞きしていました…」

「もともと今月には帰国予定だったが、トールは思ったより足が早くてずいぶん早く帰り着いてしまった。すると、兄上が少し城下を見て来いと。だから騎士団に紛れさせてもらっていた」


トールって…あの馬?

馬を駆って、デビアナからこの国まで帰ってきたと…?

それに兄上って、皇太子さまのこと?

それとも第二王子のエイモスさまのこと…?

ああ、もちろん、父も兄のイアンも、彼のことは知っていたに違いない。

情報が多すぎて、サーシャは冷静に考えられなかった。

けれど、今の一番の気掛かりは———


「あの…殿下、近いです……」

「リックだ」

「え?」


思わずサーシャが顔を上げると、思ったよりずっとリックの顔が近い。

慌てて顔を俯けようとするも叶わなかった。

大きな手がサーシャの顎を掬い、強引に視線を上に固定する。


「そう呼ぶ約束だろう」

「でも…」

「これから全力で口説くと云ったはずだが?」

「!」


そういえば、さっきそんなことを云われた気も……。

しかし———


「殿下、わたくしは婚約破棄をした身です…」


例え自分に非はなくとも、婚約破棄となると世間の目はどう捉えるか判らない。

自分は目の前の王子様に好意を寄せているのだ、とこの時、サーシャは気がついてしまった。

危うい場面でも、自分はそれなりに乗り越えられるとサーシャは自覚している。

それでも、そんな時に颯爽と現れて救ってくれる人を好きにならないなんて無理だ———しかも、二度も。

気持ちに気づいたからこそ、一国の王子である目の前の相手の瑕疵にはなりたくない、と思っている気持ちも本当だった。

絞り出すような声になってしまった。

今まで感じたことがないほど、胸の中が軋む———


「…そんな顔をしているということは、俺のことを憎からず思っていると自惚れていいということか……?」


サーシャの顎を掬い上げていた手は頬を撫で、リックは眦を下げて彼女を見下ろしていた。

そんな顔って…?


「…?」

「泣きそうな顔をしている」


リックは額をコツンとサーシャの額に合わせた。


「サーシャ・レーニエ、愛している。どうかもう、素直に俺に口説かれてくれ」

「わ………わたくしで良いのでしょうか…」

「君がいい。君以外はいらない」


熱烈な口説き文句に、サーシャの頬が赤く染まる。

碧の瞳が嬉しそうに細められた。


「私も…お慕いしています…」


サーシャがそれだけやっと云うと、唇に柔らかいものが当たる。

ほんの一瞬触れただけで離れたリックの口づけに、サーシャは目を見開いた。

くすりと微笑ったリックの顔が、蕩けるような笑顔になる。


「サーシャ、目を閉じて」


云われるままに目を閉じると、再びリックの唇がサーシャのそれに触れた。

啄むようなキスを何度も受け、ふとサーシャの唇が緩んだ隙にリックの舌が侵入する。

柔らかく愛おしむような口づけは、リックの熱い舌がサーシャのそれを探し当てると、何度も角度を変えて深いものに変わっていった。

息をするのもままならない口づけが終わった時、サーシャの肺は空気を求めてはぁはぁと息を継ぐ。

精悍な顔立ちのリックが髪をかきあげる姿は艶っぽく、余裕があるように見えたサーシャは恨めしげに彼を見上げた。

その顔を見て、リックは苦笑する。


「そんな顔はしない方がいい。これでも節度を保とうと努力しているつもりだからな」


するりと、リックの手がサーシャの頬を撫でた。

そのまま彼の指がサーシャの唇の形をなぞる。

何度かサーシャの唇を撫であと、名残惜しげにリックの指が離れると、サーシャはふるりと震えた。

———離れた指が寂しいと思うなんて……。


「来月の———」

「…え?」


ふわふわした心地に浸って、リックが何か云いかけた言葉を聞き逃してしまったらしい。

サーシャは意識を引き戻してリックを見上げた。

照れたように微笑む碧の瞳が彼女を見下ろしている。


「来月の王家主催の舞踏会には、必ず来て欲しい」

「…はい」


第三王子の帰国を祝って開かれる夜会のことだ。

先日も、リリアとその話をしたばかりだった。

リックはサーシャの手を取り、指先に唇を落とす。


「ドレスを贈るから、それを着て来てくれ」

「…はい」

「ダンスも踊ってくれるだろう?」

「…はい」

「結婚してくれる?」

「…は…!」


肯定を口にしそうになり、サーシャは思わず目を見開く。

展開が早すぎる。

先ほど漸く気持ちを伝えたのだ。

行く行くはそうなるとしても、まだ心の準備が———


「殿下…!」


焦った様子のサーシャに、リックはクスリと笑った。


「惜しいな…。もっとゆっくり進めるつもりだったのに、俺は早く君に頷いて欲しいようだ」


それに、と彼は続けた。


「リックと呼ぶ約束だろう。今後、『殿下』と呼ぶ度にキスをしようか」

「リック……さま…」


片眉を上げて見下ろしてくる碧の瞳が艶っぽく、サーシャの心臓が早鐘のように鳴る。

ふっと大きな背が屈んでくる気配がして、サーシャは目を閉じた。




その夜、父親の執務室に呼ばれたサーシャは、第三王子、ケイン・フレデリク・トレメントから正式に婚約の申し込みがあった旨を伝えられた。

驚いたことに、申し込みはメリック伯爵令息との婚約解消が成立してすぐのことだったらしい。

兄のイアンがサーシャの送り迎えをしていたのも、彼自身が妹を心配していたこともあるが、リックから依頼されてのことだったという。


「ケイン殿下は、騎士団でスコットと同じ参謀室に入られるそうだ。そういえば、あのお方はスコットと騎士学校が同期だったな」

「そうなのですか…?」


上の兄の名前が出て、サーシャは目を瞬く。

知らない情報だ。

いや、リックのことでは、まだ知らない情報の方が多い。


レーニエ家の嫡男となるスコットは、先ごろめでたく結婚したばかりだ。

いずれは家督を継ぐ身であるが、新婚後暫くは二人だけの生活を楽しみたいと、彼らは自分たちでタウンハウスを購入してそこに住んでいる。

義姉となったのは辺境伯家の令嬢で、社交界の華と呼ばれた人らしい。

会ってみると思ったより気さくな女性で、サーシャもあっという間に仲良くなった。


「それで…」


珍しく父親のレーニエ伯爵が云い澱んだ。

コホン、と咳払いをすると、改めてサーシャを真っ直ぐに見つめて云う。


「この話は、お受けしていいのだね?」


第三王子からの申し出を断ることなどあり得ない。

それでも、やはり気がかりは———


「お父さま……あの…」

「何でも云ってみなさい」


云いにくそうに話そうとする娘に、父親は優しく促す。


「私はメリック伯爵令息と婚約解消をした身です。そんな私が、このお話をお受けしても良いのでしょうか…」


上目遣いに父親の様子を伺う娘に、レーニエ伯爵は声を上げて笑った。


「ははははっ! お前はそのことを気にしていたのか。そういえば、話していなかったな」

「…何をです?」


きょとんとした娘に、レーニエ伯爵は笑顔のまま続けた。


「メリック家との婚約は、実質、なかったことになっている。だから気にしなくて良い」

「っ! 何故!? どういうことでしょうか」


完全に淑女の仮面が剥がれているサーシャに、父親は真顔に戻り、静かに話し出した。


「まあ、聞きなさい…」


曰く、メリック家との婚約を結ぶ際に、サーシャが婚姻できる18歳になるまで婚約のことは公表しない、という条件を、レーニエ家側から付け加えていたという。

メリック伯爵は大分渋ったようだが、最終的にはこの条件を受け入れた。

もちろん、サーシャにはこのことは知らせていない。

娘の幸せを願っているサーシャの両親は、万が一の時のために保険をかけたのだ。


「だから、何も心配はいらない。メリックの倅のことは忘れろ、とは云わないが…サーシャ、気に病むことは何もないんだ」

「お父さま…」


父親の話を黙って聞いていたサーシャは、顔を上げて真っ直ぐに彼の顔を見た。

潤んだエメラルドの瞳から涙が溢れ落ち、そのままサーシャはにっこりと微笑む。


「有難うございます。ぜひ、お受けしたいです」


そう云って花のように微笑んだ娘に、伯爵は温かく微笑み返した。


「では、話を進めよう。幸せにおなり、サーシャ」




◆◆◆



第三王子帰国を祝う夜会には、サーシャは次兄のイアンと登城した。

サーシャにとっては、超が付くほど久しぶりの夜会だ。


「緊張してるかい?」


隣でエスコートしてくれる兄に声をかけられ、サーシャはかろうじて笑顔になる。


「少し…」

「大丈夫、サーシャはもともと美しい、自慢の妹だ。その上、今夜は格別に美しい。あの方も惚れ直すよ」

「そうかしら…」


サーシャのドレス姿を見直してベタ褒めする兄に、サーシャの笑顔が苦笑に変わる。

リックから贈られたのは、彼の瞳を思わせるターコイズのドレス。

すっきりとしたシンプルなデザインだが、同色のシフォンで繊細に作られた花が腰のあたりに飾られ、胸元と裾には金糸で刺繍がされているなかなか手の込んだドレスだ。

ドレスと共に贈られたイヤリングとネックレスのセットは、大振りで美しい透明感のある青緑のサファーリンを中心に、それよりやや小振りの金剛石があしらわれていて、一際輝くように研磨された滑らかなゴールドがその周りを取り巻いている。

着飾った経験の乏しいサーシャにとっては、あまりに豪奢なドレスと装身具で、自分がそれに相応しいか全く自信が持てない。


レーニエ家に届いたドレスと装身具は、たまたま届いたのが夕刻だったこともあり、家族の前で箱が開かれたのだが、中身を見た男性陣は固まり、にこにこと笑顔になったのは母親のフィオナだけだった。


「あらあら…サーシャはとても愛されているのね」


ふふふっと笑う母親に云われる前から、サーシャの頬も赤く染まっていた。

これではまるで———


「独占欲丸出しだな、あの方は」


呆れたように、イアンが呟く。

ふーっと大きく息を吐く父親の腕に、すっと母親の手が伸び、宥めるように父の名を呼ぶ。


「クリフォード」

「少し寂しいが…良いことなのだろうな…」


母の手を優しく叩き、父親は彼女に微笑みかけた。


リックの色を連想させるドレスと装身具を身につけるのは、リックに包まれているようで嬉しいけれど恥ずかしい…。

そんなサーシャの気持ちを知ってか知らずか、侍女のニーナは嬉々として、舞踏会のためにサーシャを磨き上げたのだった。




サーシャと兄のイアンが会場に入場してから、多くの人々の耳目を集めていることはサーシャも気がついていた。

もとより、騎士団隊長であり、甘い顔立ちのイアン・レーニエは、令嬢たちから人気が高い。

警護を理由に滅多に夜会には参加しないイアンが、女性を伴って夜会に参加してきたのだ。

令嬢たちはもちろん、彼の隣にいる、見かけない美しい令嬢に色めき立つ貴族令息も少なくなかった。

しかし、夜会慣れしていないサーシャは、滅多に夜会に出ない自分が珍しがられているのだろう…と呑気に思っていた。

イアンはそれどころではなかったが。

妹に近づこうとしてこちらをチラチラ見ている子息たちを、目線で牽制することに忙しい。

そうとは妹に気取られないように周りに睨みを利かせつつ、イアンは無邪気に笑顔を向けてくる妹を見下ろして、心の中で溜息を吐いた。

———悔しいが、殿下はサーシャに似合うものをよくご存知らしい。

それに、妹は綺麗になった。

もともと華奢な体型で、可憐な印象のサーシャは、トレバーと婚約解消したあと何故か綺麗になっていき、仄かな色気すら感じられるようになった。

暴漢騒ぎのあとでもあったので、サーシャの護衛を頼む、とケイン殿下から秘密裡に依頼されたのも、少々不思議に思わなくもなかったが、自分の望みでもあったので深く考えずに引き受けた。

名残惜しいが、その役目ももうすぐ終わるだろう。

イアンは隣の妹を目を細めて眺め、満足げに口の端を上げた。

———今後、殿下がそれを他人に委ねるのを潔しとしないのは明白だ。


そうしているうちにファンファーレが鳴り、王族が入場してきた。

がやがやしていた会場も静かになり、皆が一際高い玉座が据えられている場所に注目する。

登場した王と王妃、それに三人の王子たちも正装を纏っていた。

三人の王子はそれぞれ少し色味が違うものの、王家縁の金色の髪をしている。

遠目なので今ははっきりとは判らないが、三人とも濃さの違う碧の瞳をしていることはイアンも知っていた。

きゃーっという、密かな声が令嬢たちから上がっているのは、他の二人の王子たちより少し背が高い第三王子に向けられたものだろう。

皇太子である第一王子はすでに公爵家の令嬢を娶っており、彼の側には美しい妃が並び立っている。

第二王子は近々隣国の第一王女との婚姻が決まっていた。

三年ほどの遊学から帰ってきた第三王子には婚約者がおらず、虎視眈々と狙っている高位貴族の令嬢もいるはずだ。

だが。


「本日は、皆に三つの知らせがある」


王の朗々とした声が響いた。

王が頷くと、第三王子が一歩前に進み出る。


「まず、遊学に出ていた第三王子のケインが戻ってきた。これからは遊学の経験を生かして、国のために働いてくれるはずだ」


会場からは一斉に拍手が湧く。

さらに、さっきより大きなきゃーという声も響いた。

拍手が一旦収まってから、王が静かに口を開いた。


「二つ目は、ケインは臣下としてリンドベルグ公爵家に入り、リンドベルグの名を継ぐこととする」


おおーっ、と会場からは声が上がる。

リンドベルグ家は由緒ある公爵家で、先の王弟が現在の当主だ。

しかし公爵家は子宝に恵まれず、以前からリックを養子に…という話はあったとリック本人から婚約の話の中でサーシャも聞いていた。

その時、公爵家の奥方とは荷が重い…とサーシャが思ったことはつい顔に出てしまったらしい。


「まだ爵位を継ぐのは先のことだから、ゆっくり学べばいい。大叔父も大叔母も優しい人たちだ。心配はいらない」


そうリックに云われて微笑まれれば、サーシャも腹を括るしかない。

恐らく、王子妃教育よりも大変ではないのかもしれない……たぶん。


皆の声を鎮めるように王が手を前に出すと、ピタッと会場の声が止んだ。

満足気に口の端を上げた王が、再び口を開く。


「公爵家には入るが、ケインが公爵家を継ぐのはまだ先だ。まずは、騎士団参謀室と外交面で腕を振るってもらう。そして最後に———」


ここで王は少し間をおき、ちらりとすぐ後ろに控える第三王子に目をやった。

両手を後ろ手に組んで堂々とした立ち姿の王子を満足気に見つめ、視線を正面に戻す。


「ケインの婚約が、この度恙なく整ったことを知らせよう。婚約を祝して、ファーストダンスをケインとその婚約者に踊ることを許す。ケイン」


王が名前を呼ぶと彼は一つ頷き、階段を降りて会場へと足を踏み入れてきた。

彼の歩く方向に自然と人波が割れ、彼は真っ直ぐにサーシャに向かって歩いてくる。

基調は白に金や銀が所々にあしらわれた正装を身につけたリックは、その鍛えられた体躯と精悍な顔立ちも相まって皆の目を釘付けにしながら悠然と歩いていく。

ドキドキと脈打つ胸の音を意識しながら、サーシャはリックが目の前に立つのを待った。

いつの間にか、兄のイアンは一歩離れた位置に移動している。


サーシャの前まで来ると、リックは少し前屈みになり、サーシャが差し出した手に軽く唇を寄せると彼女の目を覗き込んだ。


「サーシャ・レーニエ伯爵令嬢、私と踊っていただけますか」

「…はい」


仄かに頬を染めたサーシャに、リックは蕩けるような笑みを浮かべた。

音楽が始まるのを待って、二人はお辞儀をして踊り始める。

サーシャはリックが動く方向に合わせてステップを踏みながら、ここ二週間ばかり、父に云われてダンスをみっちり復習させられたことに感謝した。

父は恐らく、こうなることを見越していたのだろう。

人の視線に晒されながら踊ったことなどないサーシャは、笑顔を顔に貼り付けつつもかなり緊張していた。

そんなサーシャとは裏腹に、リックは大柄な体格を感じさせないほど、軽やかにサーシャをリードしていく。

見守る人々からは、ほうっ…という感嘆の溜息が漏れた。


「サーシャ」


リックから名前を呼ばれ、まだ彼と視線を合わせられずにいたサーシャは視線を上げた。

目元を綻ばせたリックが甘やかに見下ろしている。


「ようやく君と踊れた」

「殿下は…ダンスがお上手なのですね」

「ダンスはそう好きではなかったが…」

「?」

「君と踊れるなら舞踏会も悪くない」


途端に、サーシャの頬に赤みが差す。

リックの甘い視線に耐えきれなくなり、サーシャは一度視線を外した。

しかし、軽やかにリードするリックの腕の中で踊るうちに、気持ちが溢れそうになってしまった。


「わたくしも…」


リックを見上げたサーシャの視線の先には、リックの碧い瞳がとろりと甘く見下ろしていた。


「わたくしも、殿下と踊れて幸せです」


一瞬、目を軽く見開いたリックは、ターンの隙にわざとサーシャを引き寄せ、耳元に唇を寄せた。


「殿下と呼ぶ度にキス一つだ。あとで必ず。いいね?」


サーシャの首筋から熱が上がってくる。

だって…だって、この公衆の面前でいきなりリックさま、などと呼べはしない。

恐れ多いし、恥ずかしい。

そんなサーシャの気持ちを知っていて、リックは彼女にキスを強請る。


曲が途切れて二曲目となっても、リックはサーシャを離さずに踊り続けた。

二曲目からは誰でも踊って良いという慣例に従って、踊りたい紳士淑女がダンスを楽しむ中、リックは蕩けるような笑みを浮かべてサーシャをくるくると回す。

流石に三曲続けては無作法となるので踊りの輪から外れたが、その夜の舞踏会ではあとになって二人はもう一曲踊った。

もちろん、リックが望んだからだ。


ダンスを終えたあとも彼はサーシャの腰に回した手を離さず、イアンに代わってエスコートした彼女から決して離れなかった。

あまりにずっとリックが一緒にいるので、サーシャは気になっておずおずと切り出す。


「あの…よろしいのでしょうか。わたくしの側にばかりいらして……」


エスコートは兄のイアンに代わってもらっても…と続けようとして、そのまま固まった。

リックが人差し指をサーシャの唇に当て、彼女の言葉を止めたのだ。

片眉をあげ口の端を上げて、見下ろしてくる。


「陛下のお許しをいただいている。君が私のものだと、皆に知らせておきたい」


しれっと恥ずかしいことを云う。

目を見開いたサーシャに、微かにリックの眉根が寄った。


「…そうだろう?」

「で…リックさまのもの…私が…」


サーシャはリックの独占欲溢れる言葉に、そんな風に考えたことがなかった自分に気がついた。

好きな人になら、そんな風に思われたい……。

サーシャはそう考えてしまった自分に驚いて、暫し呆然とする。

しかしサーシャの態度に、リックは別なことを考えたらしい。

サーシャの耳元に唇を寄せて囁く。


「私はとうに君のものだ」


ぶわり、とサーシャの頬が赤くなる。

熱を持った瞳に見下ろされ、リックの手がサーシャの頬を撫でた。


「あんまり可愛い顔をしないでくれ。誰にも見せないように攫いたくなる」


その言葉に、ふと言葉がサーシャの口をついて出る。


「…御心のままに」

「え?」


リックが珍しく、驚いたように目を瞠った。


「攫ってくださるのでしょう?」


上目遣いに強請れば、目元を赤くしたリックが蕩けるように微笑んだ。


「君は…まったく」


差し出された手に、サーシャは自分の手を重ねる。

歩き出した先はどこか判らなくても、これから過ごす時間が甘いものになる予感にサーシャの胸が震えた。

———この人となら、どこまでも一緒に行きたい。

さりげなく耳元に寄せられたリックの唇から囁きが漏れた。


「愛しているよ」

「……わたくしも…」


頬が赤らんでいることに気がついているサーシャは、恥ずかしくて俯いたまま。

とろりと甘い笑顔で彼女を見つめるリックは、そのまま彼女の手を引いて進んでいく。

舞踏会の席から二つの影が消えていった。






お読みくださり、有難うございました。

本編はこれにて終了です。


ちなみに、この王国でのデビュタントは15歳。

サーシャはデビューしてすぐに婚約したことになります。

王城に勤め始めたのは17歳ころ(推定)。

トレバーとの仲が冷えてから1年くらいは耐えた…という設定です。

一つ年上の兄、イアンとはとても仲が良く、嫡男のスコットもサーシャを溺愛しています。

が、スコットは妻の辺境伯令嬢にベタ惚れなので、妹に向かうベクトルは少し緩くなりました。^-^



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