前編
久しぶりに書きました。
楽しんでお読みくださると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
サーシャ・レーニエ伯爵令嬢の婚約解消は、粛々と行われた。
相手のトレバー・メリック伯爵令息には、他に真実の愛がいるらしい。
夜会の席での派手な演出で婚約破棄するほど、トレバーは愚かではなかったようだ。
だが、婚約者がいるにも関わらず、真実の愛を見つけたと云ってしまうあたり、彼は貴族としても男としても残念だと云わざるを得ない。
もちろん、メリック伯爵家側の落度での婚約解消となり、慰謝料のような金銭も発生する。
それはたまたま偶然、サーシャがトレバーとその真実の愛の相手らしいシビル・コペル男爵令嬢が逢瀬を楽しんでいる場に遭遇してしまい、弁解も言い訳も通じない状況となったからに他ならない。
◆◆◆
貴族間の結婚は政略が基本だ。
お互いに利害が一致した形で家の間で結ばれるのが常。
代々優秀な武官を輩出しているレーニエ伯爵家の現在の当主は、王国の騎士団長を務めている。
一方メリック伯爵家は文官の家柄で、現当主は財務大臣の事務次官を務めていた。
この婚約は、メリック家からの強い働きかけで成立したため、サーシャの両親は婚約を結ぶ際にある条件を密かに付け加えていた。
婚約したのは、トレバーが17歳、サーシャは15歳の時。
アッシュブラウン色の髪にエメラルドの瞳のサーシャは、身長こそ平均的なもののほっそりとした体つきで、伯爵令嬢らしい優雅さを備えた美しい令嬢だ。
ただ性格は見た目と違い、レーニエの家系らしく真っ直ぐでさっぱりとしていた。
初めて参加したお茶会で、思ったことをそのまま云ってしまったために浮いてしまった経験があり、それ以降、彼女は社交の場に出るのを避けるようになってしまった。
貴族令嬢らしく控えめに、発言も皆の空気を読んで…と心がけてはいるものの、ごく稀に本音がポロリと溢れてしまうことがある。
そのことをよく知っている父親の伯爵も二人の兄たちも、積極的に社交の場に出ていけ、とは彼女に云わなかった。
レーニエ家の男たちは、ただ単に、可愛いサーシャを思惑渦巻く社交界になど巻き込みたくなかっただけかもしれないが。
デビュタントの時も、一つ上の下の兄にエスコートされてほんの一瞬舞踏会に出たものの、彼と1曲だけ踊るとあっという間に姿を消したサーシャは、滅多に社交界に顔を出さない、美しくも奥床しい令嬢という認識がされたのだった。
だからその噂を当てにして、さらに武門の誉高いレーニエ家と縁を結べたら、という下心のある貴族たちからサーシャ宛の縁談話は引きも切らなかった。
その中でも熱心だったのが、メリック伯爵家だったのだ。
サーシャには、政略結婚は当たり前ですからお父様の良いと思う方とで結構です、とあっさり云われ、時間をかけて娘の相手を吟味しようと考えていた伯爵に何度も書面を送り、お嬢様を息子の嫁に…とメリック伯爵は大層熱心に働きかけていた。
もしよろしければ一度息子に会ってやって欲しい、とまで云われ、レーニエ伯爵はメリック伯爵家嫡男トレバーに会ったことがある。
琥珀色の瞳を持つ温和そうな少年は、レーニエ伯爵の質問にハキハキと答え、印象も好ましく映った。
文官の家の子息らしく体つきが少し細いのは気になったが、父親のように文官の道を歩むのならそこはそれで良いのかもしれない。
それに、とレーニエ伯爵は考えた。
これだけ望まれての婚約は、きっと娘を大切にしてくれるに違いない、と。
かくして、両家の思惑が折り合い、メリック伯爵家嫡男トレバーとレーニエ家令嬢サーシャとの婚約は整った。
トレバーは穏やかな少年で、にこやかにサーシャに接し、月に一度、親睦を深めるためという名目の二人でのお茶会は常に和やかな雰囲気で、交際は順調に進んだ。
事態が変わったのは、二人が交流を始めて一年ほど過ぎた頃だ。
レーニエ家は武門の家であることから、幼少の頃から男女の隔てなく剣技と体術を仕込まれる。
剣技と云っても、それぞれの体格に合った剣技なので、サーシャの場合は大刀より小ぶりな、いわゆる小太刀のものだ。
体術は護身目的の技を中心に、いざという時に有効な攻撃になる技も兄たちを相手に体得してきた。
とはいえ、女性騎士はこの国にはおらず、サーシャが得た剣技も体術も、どこかで披露したことも披露する機会もない。
定例のトレバーとのお茶会の席で、ふとした弾みでサーシャは兄と共に鍛錬を積んだ話を彼にしてしまった。
すると、トレバーはサーシャの華奢な体躯を眺めて「冗談でしょう」と笑ったのだ。
兄たちほどは鍛えていないけれど、それでもそれなりに技を会得している自覚のあるサーシャは、真顔で「それならば、いつでもかかっていらして大丈夫ですわ」とトレバーに云った。
笑われたことが悔しかった訳ではない。
ただ兄たちと精進した身だけに、そうそう負かされる気がしなかっただけだ。
あとから考えれば、そんなことは云わなければ良かったと思う。
サーシャも笑って「ふふ…どうでしょうね」とでも、曖昧に答えておけば済んだことだ。
サーシャに挑発されたとでも思ったのだろうか。
穏やかだと思っていたトレバーの顔が一瞬強張り、「それならば試してみましょう」とサーシャの利き手を引っ張った。
その拍子に、サーシャは反射的に彼を投げて地面に転がしてしまったのだ。
何が起こったのか判らないというように、目をパチパチ瞬いたトレバーは、自分を見下ろすサーシャが助け起こすのを手伝うように差し出した手を見て、顔色を変えた。
すまなそうに眦を下げるサーシャに、トレバーは無言のまま、踵を返して帰って行ったのだ。
それから、パッタリと二人でのお茶会はなくなった。
トレバー側から、何かしらの理由をつけて断りを入れてきたからだ。
あの日の一部始終を見ていたレーニエ家の召使から事情を聞いた父親のレーニエ伯は、「浅慮でした。申し訳ありません」と頭を下げる娘に、「なに、そんなに狭量な男なら結婚せずとも良い」と笑って云った。
娘が可愛いレーニエ伯からすれば、半分は本気である。
そうはいっても、メリック家から婚約解消の申し出がある訳ではなかった。
かといって、話が進むこともない。
半ば宙に浮いたままの形のサーシャの婚約だった。
もともと夜会にそう興味のないサーシャだったものの、王家主催の夜会ともなると参加しない訳にも行かない。
エスコートはいつも、どちらかの兄が務めてくれた。
婚約してからはトレバーがエスコートするものでは、と疑問を口にするサーシャに、二人の兄は揃って「可愛い妹をエスコートできる楽しみを奪わないでくれ」と悲しそうな顔になる。
そう云われてしまうと、それ以上強くは云えず、兄にエスコートされての参加となるのだが、その事件があってからはそれが返って有難いと感じるようになった。
一応そんな時には、トレバーからも手紙が届き、王城で会えることを楽しみしている、と認められた手紙が届くのだが、恐らく彼の父親から云われて仕方なく、といった雰囲気が感じられてどこか空々しい。
父や兄たちはその手紙に眉を顰めていたが、サーシャは淡々としたものだった。
もとより、貴族間の婚姻に愛など存在しない。
トレバーに対して多少は好印象を持っていたものの、ちょっと違う面を見ただけで態度がコロッと変わってしまった婚約者には今や何も感じない。
ただそれを教訓に、二度と人前では剣術も体術も使わないことにしよう、とサーシャは心に誓う。
とりあえず、緊急の場合を除いては。
とはいえ、サーシャ自身も、この婚約は解消されるかもしれない…という気が薄々はしてきていた。
決定打と云えるような、大きな落ち度はお互いにないものの、自分をぶん投げる女を嫁にはしたくない…というトレバー側の気持ちはひしひしと伝わってくる。
だけど考えてみて欲しい、貴族子息たるもの、騎士にはならずとも剣術や体術はそれなりに体得しているものではないのか。
ああも簡単に自分に投げられ、年にほんの数度会う夜会で、挨拶のために手を差し出すだけでビクッと身体を震わせるトレバーは、兄たちを見慣れているサーシャからしたら頼りない限りだ。
ただ彼女に投げられて醜態を晒したことを恥じたのか、はたまた父親に固く口止めされたのか、トレバーの口からは何も語られなかったらしく、サーシャに対して何も不穏な噂が立たなかったのは幸いだった。
万が一にも婚約が解消されるとなれば、どんな理由であれサーシャにとっては瑕疵となる。
貴族子女として政略結婚はやぶさかでないが、瑕疵が付いたとなると、年齢の釣り合った初婚の貴族男性は望めないかもしれない。
それならばいっそ、別の道を探ってみるのもいいのではないか。
レーニエ家は、武門の家だとはいえ、学問を疎かにする訳ではない。
いわゆる、文武両道の家だ。
レーニエ伯爵家では、いっそ徹底した男女平等の考えのもと、兄たちに引けを取らない学問を受け、それに加えて淑女教育も授けられたサーシャは、その経験を活かして働くのも悪くないと考えた。
父の前で、サーシャが王城の女官になりたい、と願い出た時は、流石に滅多なことでは動揺しない騎士団長である父親も、数秒間目を見開き、固まった。
こんなに真剣な表情の娘を見たことがない。
メリック伯爵令息との成り行きを聞き及んでいる彼は、それでも娘の心情を察し、それもいいかもしれないと思う。
必死な様子の娘に首を縦に振ると、娘は安堵の溜息をつき、「お父さま、有難うございます!」と幼い頃のように首に抱きついてきた。
淑女としてははしたない行為だがよほど思い詰めていたのだろう、娘の背に腕を回しながら、レーニエ伯爵は、ここまで娘を追い詰めてしまったのは自分だと嘆息した。
もちろん、娘に冷たく当たっているトレバー・メリックには思い知らせてやる所存だ。
ところで、王城に勤める女性には二種類ある。
侍女と女官だ。
侍女は王妃をはじめとする、やんごとない身分の女性たちに仕え、貴族の若い女性たちが花嫁修行や出会いを求めてなる者が多い。
一方、女官は王城の文官の仕事を補佐する役目だ。
こちらも貴族出身の女性が多いが、中には優秀な平民もいる。
どちらの仕事も結婚を機に退職する者が殆どだった。
実際、侍女は婚約者ができると結婚の準備のために早々に退職し、二十歳前後で辞めていく。
しかし、女官の中には仕事に誇りを持ち、生涯王城で身を捧げる者もいた。
また当たり前だが、王城に勤める者には厳しい身上調査が行われた。
王城に勤める者には、一片の曇りもあってはならないのだ。
サーシャも母方の伯父に当たる侯爵家から推薦をもらい、外交省に勤務することとなった。
トレバーやその父親の勤める財務省にならないよう、配慮してもらえたことにほっとした。
◆◆◆
「サーシャ、ごめんなさい、これ手伝ってくれる?」
そう声をかけられて、サーシャは書類から顔を上げた。
先輩のリリアが眦を下げて、サーシャの前で両手を合わせている。
リリアもサーシャも、他国の言語を翻訳する仕事をしていた。
サーシャは母国語の他に、隣国の言葉はすでに習得していた。
最近よく使われるようになった少し離れた国の言葉は、漸く最近ちゃんと使えるようになってきたところだ。
リリアも母国語以外に三種類の言語が操れるほど優秀なのだが、それは外交事務官をしていた両親について諸外国を転々としていたからで、話す方は得意だが、書面に順序立てて文章を作ることは苦手らしい。
サーシャは文章が美しいから、と持ち上げられて、よくリリアの手伝いをすることがあった。
「えっ、明日までですか?」
サーシャの驚きの声に、リリアがさらにすまなそうに眦を下げる。
「そうなの。隣国への大臣の訪問が急に早まったらしくて。手直しの時間を考えると明日の朝までに書類をあげて欲しいということなの」
それは、今進めている仕事を全て中断して、その作業に注心しないと終わらないことを意味する。
とはいえ、上からのお達しであれば拒否権はない。
溜息を一つ落とすと、サーシャはリリアと額を合わせて書類の作成に取りかかった。
「ふぅ〜……ようやくね」
二人がほっと息をつき、顔を上げたのは、もう陽もとっぷり暮れたころだった。
二人の作業に付き合って残っていてくれた、上司でもあるダン・クレリックがその声に顔を上げた。
彼も書類仕事を片付けつつ、二人のことを待っていたのだ。
ちなみに、彼は伯爵家の次男だ。
「リリア嬢、サーシャ嬢、もう遅い。わが家の馬車で送って行こう」
書類をまとめて横に積み上げつつ、ダンが二人に声をかける。
するとリリアの頬が仄かに赤くなった。
「有難うございます」
そうリリアがダンに向けた視線と、彼が彼女を見返した視線が絡まる。
前からそうではないかと思っていたけれど、やはりこの二人は相思相愛らしい。
時々リリアがダンに向ける視線と、リリアが自分を見ていない時に彼女に向けるダンの眼差しで、この部屋で働く人たちは、二人の気持ちをおおよそ察しているのだ。
察していて、二人の恋の行方を生温かく見守っている。
無粋だと判りつつ、リリアは少し大きめに咳払いをした。
我に返ったように、二人は視線を外す。
「私は大丈夫ですので、リリア様を送って差し上げてください」
リリアの家は王城から少し離れたところにある。
サーシャがそう云うと、二人の視線がさっと彼女に向けられた。
「大丈夫って…。もう外は暗いぞ」
「本当に大丈夫です。わが家のタウンハウスはすぐですので。夜道が危ないと思ったら、兄にお願いします。たぶん、今日は騎士団の詰め所に居ると思いますから」
たぶん本当に居るとは思うが、恐らく兄には声はかけない。
レーニエ家のタウンハウスは、とても王城から近いところにあるのだ。
「でも…」
「最近は、暴漢が出るという噂も聞くからな…」
躊躇う二人に、サーシャはにっこりと笑った。
このまま二人の恋路の邪魔はしたくない。
ここはさっさと退場するに限る。
「それでは、兄にお願いして参りますので、私は先に失礼させていただきます」
サーシャは丁寧にお辞儀をして、まだ何か云いたげな二人の方を見ずに部屋を出た。
そのまま騎士団の詰め所には向かわず、真っ直ぐ王城の門へ足を向ける。
王城に勤める侍女は寮に入る者も多いが、女官は通いが基本だ。
石畳の道を歩きながら、サーシャは残してきた二人に考えを巡らせる。
あの二人が見つめ合っていた時の甘い雰囲気———
二人が思い合って結婚するとしたら———
政略結婚は貴族令嬢として普通のこと、と思ってきたけれど、あの二人のように思い合って結ばれることもあるのかもしれない。
二人を祝福こそすれ、妬む気持ちは微塵もなかったが、それでもサーシャには少し羨ましい気持ちが湧いてきていた。
「他人を羨んでも、何も変わらないわ、サーシャ」
独り言のように呟いた声は、ひっそりと静まった町中に吸い込まれていった。
思考に沈んでいたサーシャは、そこで初めて後ろからつけてきているような足音に気づいた。
———一人……いえ、二人かしら。
気づかないふりをしつつ、耳を澄ませて足音を探る。
女一人だと向こうは油断しているのだろう、足音を忍ばせて歩くこともしない。
ひょっとしたら、恐がらせようとしているのかもしれない。
もうレーニエ家のタウンハウスはすぐそこだった。
しかし、足音はすぐ後ろに迫っている。
タウンハウスに着くまで見逃してもらえそうもない……。
覚悟を決めて、急に立ち止まったサーシャは、くるりと後ろを振り返った。
「わたくしに何かご用でしょうか」
凛と声を張る。
サーシャのすぐ後ろで足を止めた男たちは、その声に一瞬たじろいだ。
だが、ほんの一瞬だ。
「話が早いお嬢さんだ。あり金残らず出してもらおうか」
「へへっ、ついでに俺たちと遊んでもらってもいいぜ」
二人揃って下卑た笑みを浮かべて、サーシャに近づいてくる。
男たちは顔を見合わせると、同時に飛びかかってきた。
背後に回ろうとした一人を、サーシャは身を沈めて思い切り繰り出した足で蹴り飛ばす。
「グヘッ…」
変な声を出して男は道の際に吹っ飛んだ。
前から掴み掛かろうした男も、サーシャが身体を沈めたことで意表を突いたらしい。
そのまま護身用にいつも持ち歩いている小型のナイフを、鞘のついたまま男の鳩尾に沈める。
「ゔっ…」
男もその場に崩れ落ち、動かなくなった。
ほーっと長い息を吐いて、サーシャは気を鎮める。
今更ながら、護身用に習った体術が功を奏したことに感謝した。
二人の兄も、時間のある時にはよく訓練に付き合ってくれたものだ。
でも……この男たちをどうしよう…?
そこまでは考えていなかったことに気がつく。
このまま放置して帰ったら町のためにならない。
かといって、王城に引き返していたら、男たちは逃げてしまうかもしれない。
レーニエ家に人を呼びに行くことも思いついたが……父親の渋顔が眼に浮かぶ。
「いてててっ…離せよっ、おい!」
サーシャが逡巡していると、背後から声が聞こえた。
振り返ると、手を後ろで捻じ上げられた男と、その男をしっかり捉えたまま近寄ってくる騎士服の男がサーシャの目の前に現れた。
「離してくれよ! 俺は何も…」
「へえ……こんな物を持っていたのに、何もする気はなかったと?」
喚く男に、騎士服の男はキラリと光るナイフで男の頬を撫でる。
男はぐっ…と黙り込んだ。
捕えた男よりゆうに頭一つ分は背の高い騎士服の男は、暗がりでも判るくらい整った顔立ちをしていた。
彼は倒れて転がっている男たちをさっと眺めると、サーシャに咎めるような視線を向けた。
一片の笑みもない、冷たい視線だ。
「こんな夜に、女性の一人歩きは感心しない。襲ってくれといってるようなものだ」
彼女に向ける声色も冴え冴えとしてものだった。
もっともな云い分だ。
こうなることを予想できなかったのは、確かに軽はずみだったとサーシャも溜息をついて目を泳がせる。
「申し訳ございません……」
素直に謝ると、深い溜息が聞こえた。
だが、サーシャが一歩騎士に近づき、街灯が彼女の姿を照らすと、騎士が一瞬目を見開いた…ように見えた。
「どうかしましか…?」
首を傾げるサーシャに、騎士ははっきりと首を振った。
「…いや。名前を聞いても…?」
少し和らいだ声で尋ねられ、サーシャはまだ礼も伝えていないことに気がついた。
「大変失礼いたしました。レーニエ家のサーシャと申します。お助けいただいて有難うございました」
そう云って、騎士服の男に向かって美しいカーテシーをして見せた。
騎士であれば、騎士団長の父のことは知っているだろう。
しかも助けてもらった相手だ、名乗らないなどという無作法はできない。
「やはり…レーニエ殿の……」
「え?」
まるで父を見知っていて、しかも親しい間柄のような相手の言葉に、聞き違いかと思ってサーシャは聞き返した。
だが、相手の騎士は軽く首を振って「いや…」と濁したあと、意外なことにサーシャに笑顔を向けてきた。
「さっきは、なかなかいいものを見せてもらった」
何のことを云われているのか判らず、首を傾げたサーシャは、ふと道の端に転がったまま気を失っている賊に目がいき、途端にぶわりと頬に熱が上がってくるのを感じた。
「あの……見ました?」
聞かずにはいられず、サーシャはつい相手に確認する。
言葉が素に戻っていることにも気がついていなかった。
「ああ」
相手は、相変わらずいい笑顔のまま答えた。
「見事だった。だが、少しばかり詰めが甘い。三人目には気がつかなったようだからな」
そう云って、騎士服の男は捉えている男に視線を落とす。
観念したのか、不貞腐れているのか、彼に捉えられている賊はプイッと横を向いてこちらとは視線を合わせない。
褒められているのか、咎められているのか判らないような感想に、サーシャは曖昧に微笑んだ。
ふと気がついたように、騎士服の男がサーシャに向かって云った。
「ああ…まだ名乗っていなかったな。俺はリックだ。リック・トルーディ。ところで、この状況を考えると、お父上に助力を仰ぐのが最良だと思うが、どうかな?」
相手のもっとも過ぎる提案に、サーシャは天を仰いで大きく溜息をついた。
父か母か、その両方か、ともかくお小言決定だ。
「…お嬢さま…?」
その時、聞き慣れた声が近くで聞こえた。
レーニエ家の侍従、ワイアットだ。
帰りが遅くなることは伝えてあったものの、やはりサーシャの帰りが遅いことを心配され、さらに近くで何やら騒ぎがあった物音に、様子を見に来たのだという。
賊の見張りはリックが買って出たので、サーシャはワイアットと共に家に戻り、ざっと事情を聞いた父親は身支度をすぐに整え、ワイアットを従えて賊の捕縛に出て行った。
物云いたげな母親の視線をかいくぐって、サーシャは夕食の席につく。
お腹がぺこぺこだった。
すでに両親は夕食を済ませたあとだったが、まだ料理は温かく、サーシャは濃厚なクラムチャウダーもローストビーフと温野菜のサラダも美味しく口に運びながら、ふとあることに気がついた。
手早く夕食を済ませると、彼女はキッチンに向かった。
明日の朝食の仕込みで、まだシェフがいることにほっとする。
「……これを、俺に?」
目の前の騎士服の男———リック・トルーディと名乗ったか———は、サーシャが捧げ持ったバスケットに軽く目を瞠った。
王城から騎士も出張ってきたらしく、まだ一帯はざわざわしていた。
その中でも一際背の高いリックは、どこにいるかすぐに判った。
あちこちに指示を飛ばしている騎士団長の父親も立派な体格で目立つのだが、その横で父親と時々会話を交わしている彼は、父親に劣らず堂々と佇んでいる。
父親の側近ならサーシャも顔くらい見知っているものの、いずれも彼女より一回り以上は上だ。
しかも騎士団の頂点に立つ父親に遜る様子もなく、対等に話しているように見えた。
サーシャはその様子を不思議に思いつつ、侍女のニーナを従えて彼に近づいて行った。
父親とリックの前まで来ると、ニーナからバスケットを受け取り、捧げ持つようにリックの前に差し出す。
「……まだ、夕食は召し上がっていらっしゃらないでしょう?」
思ったよりも、サーシャの声は小さくなってしまった。
家を出るまでは、とびきり良いことを思いついたように思ったのだ。
ローストビーフと温野菜のサラダを、食べやすいようにパンで挟み、シェフ自慢のソースもたっぷり塗ってある。
クラムチャウダーは大きめのマグに入れて、溢れないように油紙で蓋をした。
助けてくれた騎士が、夕食もとらずに働いているのは申し訳ないと思ったのだ。
しかし、こうして持ってきてみると、これが本当に喜んでもらえることなのか自信がなくなる。
そこで先ほどのリックからの言葉だった。
「サーシャ、それは…」
父親が横から、止めに入るように彼女に声をかけた。
やはり、必要なかったかしら……。
だんだんと気持ちが萎んできたサーシャは俯きがちになる。
いよいよバスケットを下ろそうかと思い始めた時、急にサーシャの手の中の重みがなくなった。
「いただこう」
上から声が降ってきた。
サーシャが見上げると、軽々とバスケットを掴んだリックが、口の端を上げてこちらを見下ろしている。
自分を見下ろしている榛色の瞳に、何故だか急に恥ずかしくなってしまい、サーシャは「温かいうちにお召し上がりください」とだけ云って、そそくさと帰ってきてしまった。
後日、あの日の賊が捕縛されたことは城下の町にも周知されたが、捕縛は騎士団によって為されたことになっており、サーシャの名前が表に出ることはなかった。
恐らく、騎士団長の父親の計らいだろう。
あの日は、遅くに帰ってきた父と兄にもこっぴどく叱られた。
サーシャが男二人に蹴りと突きを入れたことも知られており、あのリックという騎士が二人に包み隠さず話したことは明白だ。
いや、云わないで欲しい、とも頼まなかったけれど———
そんな事件があってから数日後———
サーシャはリリアと二人、書類を抱えて財務省に向かっていた。
いつもは避けて通っている場所だったが、リリア一人では抱えきれない書類の量で、仕方なく付き合うことになったのだ。
書類を置いたらさっさと戻って来よう。
ちょうど昼を少し過ぎた時間だから、トレバーも彼の父親もいないかもしれない。
誰とも顔を合わさずに済めばいいけれど…。
想像通り、書類を置きに行った部屋にはほとんど人はいなかった。
ただ壮年の役人が書類を待っていて、重かったでしょう、と労ってくれた。
役目を終えてほっとし、二人でお昼の時間をどう過ごすか話しながら歩いていると…。
何処からか聞いたことのある声がする……。
気のせいかとも思ったが、声を顰めて話す声には確かに聞き覚えがあった。
「ここには来てはいけない、と云っただろう…」
「でも私、不安で不安で…。どうしてもお顔が見たくて……」
「それは僕もそうさ。愛してるよ」
「私も…」
声は、リリアにも聞こえているのだろう。
意味ありげにサーシャの方を見て、少し顔が赤くなっている。
サーシャは声のする方に足を進めた。
恋人たちの逢瀬を邪魔する気か…と、リリアは首を振って止めようとするが、サーシャはリリアに頷いて進んで行く。
仕方なくリリアはサーシャのあとを追った。
サーシャが先に立ち、二人で声のしていたあたり、低い茂みに隠れるように設えてあるベンチの前に立つと、若い男女が口付けをしている場面に遭遇した。
リリアの頬が赤く染まる。
彼女がサーシャを見ると、何の表情もなく、冷めた目で二人を見下ろしていた。
やがて口付けをしていた二人はサーシャとリリアに気付き、「えっ、何で?」と男が声を上げる。
「これは…違うんだ。……って、何で君がここにいるの?それにその服…えっ、どうして……」
焦って混乱しているのか、男は今まで握っていた女の手を離そうとするが、女の方は必死に男に縋りつく。
確かに、目の前の男には王城の女官として働いていることは知らせていない。
女官服姿のサーシャを見て、彼はとても焦っているのだろう。
「トレバーさま、このことは父上に報告します。こちらに証人もおりますので、云い逃れはできないとお思いください。それでは失礼」
サーシャはそれだけ云うと、さっと踵を返して二人の前から立ち去っていった。
リリアはサーシャの後を追おうとして、一度だけ後ろを振り返る。
男は呆然としていた。
女は甘えるように、男にしなだれかかっているが、顔は不安げにこちらに向けられていた。
リリアはサーシャに追いつき、声をかけた。
「知っている殿方なの…?」
サーシャは立ち止まって、リリアに向き直った。
「ええ。私の婚約者です」
「ええええ〜〜〜〜っ、サーシャ、あなた、婚約者がいたの?」
リリアは叫ぶような大声になった。
その言葉で、サーシャは婚約者がいることを話していなかったことに気がつく。
別に隠してもいなかったが、全く話が進まない、相手にその気が全く感じられない婚約の話を誰が好き好んで話すというのか。
リリアの顔を見て頷きつつ、サーシャは確認するように云った。
「まあ…でも、婚約は解消でしょうね。リリアさま、今見たことの証人になってくださいますか?」
「ええ! もちろんよ」
即座にリリアは頷いたが、すぐに心配顔になる。
「その………大丈夫?」
「ええ…まあ……」
そのまま会話は途切れ、押し黙ったまま二人は外交省の仕事部屋に帰ってきた。
時々、様子を伺うようにリリアが視線を向けることに気が付きつつも、サーシャはもう何も話す気にならなかった。
大丈夫かと聞かれたら、正直、あまり大丈夫ではない。
婚約解消はある程度想像していたこととはいえ、実際に目の前に現実を突きつけられてしまうと、サーシャは思っていたよりも動揺している自分に気がつく。
しかし、こうなってしまったからには、トレバーとの結婚はもう考えられない。
あとのことは追々考えるとして、彼との婚約は早々に解消しなければ。
サーシャの行動は早かった。
上司のダンに気分が優れないので帰りたい旨を申告すると、すぐに了承された。
あとできっと、リリアが事情を説明してくれるだろう。
彼女はそのまま王城にある、騎士団団長の執務室に向かった。
父親の仕事の邪魔はしたくないので滅多に来ることはなかったが、今回は仕方のないことと思う。
執務室前で控えていた衛兵に止められたが、すぐに中から父の腹心の副団長が顔を出して中へ通してくれた。
父親は部屋へ入ってきた娘に軽く目を瞠り、「どうした?」と短く声をかける。
父親の仕事を理解し配慮しているからこそ、滅多に仕事場に姿を見せない娘が、しかも勤務中に現れたのだ。
緊急事態だということは判ったのだろう、執務を中断し彼女の話を聞く体勢になった。
「お邪魔をして申し訳もございません」と断りを入れつつ、サーシャは父の隣に控える副団長に目を向けた。
父親が頷き、退出しようとする副団長に、サーシャは「いらしてくださって構いません」と声をかける。
この際、証人は多い方がいい。
サーシャはできるだけ冷静に、今見てきた光景を彼らに語ろうとしつつ、しかし時々声が震えてしまう。
二人が睦み合っている場面は言葉に詰まってしまったが、サーシャはどうにか婚約を解消したいというところまで伝えることができた。
内心驚いているだろうに、表情を動かさずにいる副団長はさすがだが、彼女の話を黙って聞いていた父親は、怒りを鎮めるように何度も溜息を吐く。
全て話し終えると、サーシャは父親からの言葉を待った。
暫くの沈黙のあと、父親は彼女の顔を見つめて云った。
「…わかった。早急に手配しよう。リリア・ドルトン子爵令嬢もその場にいたのだな」
サーシャがしっかり頷くのを見て、父親は唇を引き結んだ。
そして副団長に視線を移して頷いた。
「お前はもう帰りなさい。イアンに付き添わせよう」
副団長は、父親が云い終わらないうちに部屋を出ていった。
きっと彼を呼びに行ったのだろう。
下の兄の名前が出て、サーシャは一人で帰れると云おうと口を開いた。
だがその前に、父親が続ける。
「私が心配なのだ。云うことを聞いてくれ」
珍しく頼み込むような口調に、サーシャはもう頷くしかなかった。
すぐにやってきた兄のイアンは、馬車の中でも家についても余計なことは云わず、終始ただただ優しかった。
サーシャに何があったのか、すぐに家中の者が知るところとなったのだろうに、家の者たちの態度は何も変わらず、それが彼女にとっては有難かった。
婚約解消の話はそれからすぐに粛々と、父親同士の間で進められたらしい。
もうサーシャが直接関わることがないのは、心底有難かった。
トレバーの顔も見たくなかった———少なくとも当分は。
それから一週間もしないうちに、サーシャとトレバーの婚約解消が成立した、と事務的に父親から告げられ、彼女は安堵の溜息を吐いた。
職場でも何か聞かれるのではないか、噂になるのではないか……と警戒していたサーシャだったが、いつもと同じように接してくるダンやリリアや他の職員たちに、拍子抜けしつつも、ほっと胸を撫で下ろしたのだった。
仕事が休みの朝、窓いっぱいに差し込んでくる太陽の光に、サーシャは目を細めた。
明日も良い天気だろうと、侍従のワイアットが話していたのを聞いて、夜のうちに思い立ったことがあったのだ。
ぴったりした服を上下に着込んだサーシャは鏡の前に立ち、自分の姿を眺めてポツリと溢した。
「やっぱり、女性としての魅力はないかしら……」
豊満というほどではないけれど、それなりに出るところは出ていると思うのだけど…と、鏡の中の自分を見つめてみる。
ドレスよりも却って体の線が出てしまうけれど、これからの行動を考えるとこの服装しかない。
「そんなことありません!」
すぐに、後ろから声がする。
サーシャ付きの侍女のニーナだ。
「お嬢さまはお美しいです! メリック伯爵令息さま目がおかしいのです」
「ニーナ…侍女の欲目よ、それは」
「お嬢さま…」
力なく微笑ったサーシャに、ニーナの眦が下がる。
決してトレバーと結婚したかった訳ではないが、選ばれなかったという事実は、サーシャの女性としての自信を大きく削ぎ取ってしまったらしい。
「行ってくるわ」
わざと元気よくニーナに声をかけて、サーシャは部屋をあとにした。
「あー……やっぱり、気持ちいい…」
王都を見下ろす小高い丘の上で、サーシャは新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
レーニエ家の者は、全員が馬に乗れる。
もちろん、サーシャもだ。
サーシャの愛馬は、大人しい白い牝馬でエリーという名だった。
数年前に見つけたこの場所は、木々に囲まれていて、静かで、人が来ない。
彼女のお気に入りの場所だった。
馬丁のトマスに、「お嬢さま、またそんな格好をして…」と呆れられたが、どうせ誰にも会わないのだ、令嬢としてはしたないいでたちだとしても、馬に乗る時はこの格好が一番乗りやすいので今更ドレスを着る気もない。
エリーに乗って出かけるのも久しぶりで、サーシャは風を切って走る爽快感を満喫した。
エリーの上から一旦王都を眺め、少し離れたところの木に彼女を繋ぐ。
丘の上に戻ったサーシャは、改めて王都の街を見下ろした。
王城を取り囲んで、中央広場や市場、サーシャたち貴族のタウンハウスの一角や教会や病院や宿屋や……その全てが箱庭のように小さく見える。
あそこに居る人たち皆が泣いたり笑ったり———一生懸命に生きているのだ。
自分の身に起きたことなど、ちっぽけなことのように思える———
大きく伸びをして、両手を太陽にかざし、サーシャはそんなことを考えていた。
と……。
不意に背後から聞いたことのある声がした。
「先客がいたか…」
驚いて振り返ると、先日の夜、助けてもらった騎士さまがいた。
今日は非番なのか、騎士服ではなく、乗馬用の服を着ている。
今までここで人に会ったことがないので、サーシャは誰かが来るということを考えていなかった。
だが彼は、ゆっくりとサーシャに近づいてくる。
「あの白い馬は貴女の馬かな?」
「はい…エリーといいます…」
驚きが去らないまま、反射的にサーシャは答えていた。
乗馬服を着ているということは、彼も今日は馬でここまで来たのだろう。
「馬に乗るのだな……レーニエ家の令嬢なら、当然か…」
頭のてっぺんから足の先までサーシャに視線を走らせて、リック・トルーディは呟くように云った。
「あ……」
誰にも会わないと思ったから、サーシャも自分用に仕立てた乗馬服を着ているけれど、普通の貴族の令嬢は恐らく乗馬服など持っていない。
暑くなったので、上着は脱いでエリーの蔵に引っ掛けてきた。
身体に沿ったシャツとベスト、下はズボンなので裾捌きは良いものの、いつもはドレスで隠れている足が見えてしまうのも恥ずかしい……。
サーシャは両腕で自分の体を抱くようにして、サッとリックから身体を背けた。
羞恥に頬が赤くなっているのが判る———
バサリ、とサーシャの肩に大きな上着がかけられた。
「!」
隣に立ったリックを見上げると、彼の視線は王都の街を見下ろしていた。
「着ているといい」
視線は動かさず、リックの声だけ降ってくる。
サーシャの顔がさらに赤くなり、かけられた上着をキュッと掴む。
「有難うございます……」
消えそうな声で、サーシャはそれだけやっと云った。
リックは横目でちらりと彼女に目をやり、片頬だけで微笑んだ。
そのまま無言で二人は王都の街を見下ろした。
心地よい風が吹いていて、どこかで雲雀が囀っている……。
「…ここにはよくいらっしゃるのですか?」
気持ちが落ち着いたサーシャは、思い切ってリックに話しかけた。
だがまだ、視線を合わせる勇気はない。
顔は王都に向けたまま。
隣で、身じろぎする気配がした。
「そうだな…初めて来たのはまだ子どもの頃だ」
「えっ? そんなに昔から…?」
驚いて、サーシャは思わずリックの方を見上げた。
彼女を見下ろし、ふっと微笑った榛色の瞳から目が離せなくなって、サーシャの頬が再び赤く染まる。
先に視線を外したのはリックの方だった。
もう一度視線を王都に向け、口をひらく。
「ここに立つと、何事も瑣末なことのように思える」
ついさっき、サーシャも似たようなことを考えた。
「……わたくしも、ここに来ると嫌なことを忘れられる気がします……」
云ってしまってから、ほとんど知らない人に個人的なことを話してしまった、とサーシャは気がついた。
とはいえ、見知らぬに等しい相手だ。
こちらの事情など関心がないに違いない。
だが、少し間をおいてリックの声が降ってきた。
「…嫌なことがあったのか」
「ええ、まあ……」
サーシャは曖昧に濁す。
貴族令嬢の受け答えとしては、はしたない言葉遣いだと思う。
とはいえ、出会った時に貴族令嬢らしからぬ行いを見られているのだ、今更取り繕っても……とサーシャは思ってしまった。
そして相手がそれ以上追求しないことに安堵する。
「あのっ…」
暫くして、「帰るか」と、歩き始めた背中にサーシャは呼びかけた。
振り返ったリックに、一瞬言葉に詰まったものの、サーシャはそのあと一気に云った。
「今日ここでトルーディさまとお会いしたことは、他言無標にお願いいたします」
僅かに目を見開いたリックに、サーシャはさらに続けた。
「本来ならば、どなたにもお会いすることはないはずでした。偶然だったとはいえ、殿方と二人きりで会っていたと知られる訳にはまいりません」
サーシャは真剣だった。
婚約解消の話がどれだけ人の口にのぼるかは判らないが、追い打ちをかけるような真似はしたくない。
婚約解消というだけでも、人の不幸を喜ぶ人たちには格好の話題となるのに、その上二人きりで会ったなどと知られればどんな尾ひれがついてしまうか判らない。
サーシャは自分の、というよりもレーニエ家の醜聞になることだけは避けたかった。
リックは顎に手をやり、少し考える仕草をした。
再びサーシャに視線を向けた彼は、心なしか楽しそうに見える。
「…リック、と」
「え?」
「今後は、リックと呼ぶのが条件だ」
彼の提案に面食らい、サーシャはつい考えるより先に言葉が出てしまった。
「もうお会いすることはないかもしれないのに……?」
サーシャの言葉に、リックは破顔する。
「ああ、そうだな。だが、またここで偶然に会うこともあるかもしれないだろう?」
そう云われた訳でもないのに、「またここで会おう」と、サーシャはリックに云われたような気がしてさっと頬が赤くなるのを感じた。
その様子を見て目を細めたリックは、立ち去ろうと踵を返す。
そこでふと気がついて、サーシャはもう一度声をかけた。
「あ…上着……」
「次に会う時まで貸しておこう」
振り返らないまま、リックはそう云って軽く右手を上げた。
———次があるかなんて、判らないのに……。
そう思いつつ、サーシャはまたきゅっと上着を掴んだ。
リックが貸してくれた上着は、ニーナによって丁寧にブラシがかけられ、サーシャのドレスがかけられているクローゼットに並べて掛けられた。
自分のクローゼットを開ける度、大きなサイズの男物の上着が目に入り、サーシャは一人赤くなる。
リックは恐らく騎士だろうから、父や兄に聞けばきっとすぐに身元も判り、彼らを通じて上着は返すことができるだろう。
しかしそれには、何故上着を借りることになったのかを話さねばならず……先夜、賊に襲われそうになって散々お小言を頂戴したのに、今度は何を云われるか———
わざわざ自分から嵐を引き寄せるような真似は、できるだけ避けたい………。
しかもあれから、下の兄のイアンは過剰なほどに過保護になり、王城への通勤は馬車になっただけでなく、自らも乗り込んで送り迎えするようになった。
イアンは、騎士団で隊長を拝命している。
いくら現在、王都では大きな事件や揉め事がないらしいとはいえ、妹のために時間を使うのは良くない、お兄さまのお仕事の邪魔はしたくない、といくら云っても一向に聞き入れてもらえない。
それは、リリアと昼食を終えて外交省の部屋へ戻る途中のことだった。
外の空気を吸いたいと王城の中庭を横切り、来月開催される王家主催の舞踏会について話していた時だった。
木の影からふらりと人影が現れ、二人の行く手を遮るように立ち塞がったのだ。
人影に先に気がついたのはリリアで、「ひっ…」と小さく悲鳴を上げる。
サーシャもその人影を見て、眉を顰めた。
ここ最近で、最も会いたくない相手だ。
ただ彼女が見知っていた時より、だいぶ窶れていて、顔色も悪い。
お読みくださり、有難うございました。
外交省で働くサーシャに好意を寄せる男性職員(貴族)もいるものの、ちょくちょく妹の様子を見に来る兄たちに牽制され、ビビって親しく話しかけられずにいます。(^^;
またサーシャが父親の執務室から立ち去ったあと。。。
「え? 騎士団長さまが私に…?」
使いの騎士に連れられて、リリアは初めて騎士団長の執務室を訪れた。
坐るように促され、リリアは緊張しつつソファに腰をおろす。
対面に坐るサーシャの父親の眉間には皺が刻まれていた。
「サーシャ…娘が、たった今までここにいた…と云えば判るだろうか」
そう切り出され、リリアはすぐに何のことで呼び出されたかを知った。
騎士団長に呼ばれるなど、そうあることではない。
何となくそうではないか、と思っていたが、サーシャの行動の早さに、リリアは内心感嘆した。
「貴女も先ほど娘が遭遇した場にいたと聞いている。それは本当だろうか」
常日頃、冷静沈着・鷹揚自若と形容される騎士団長のレーニエ伯爵が、今ばかりは顔を微かに歪め、苦痛を堪えるように眉間の皺が深くなっている。
娘の心情を思いやる父親の姿に、リリアは力強く頷いた。
「本当です。私にできることがあったら、何なりとお申し付けください。私はサーシャの友人です。どうぞ、お気兼ねなく…」
「有難う、ドルトン子爵令嬢」
「どうぞリリア、とお呼びください」
「では、リリア嬢、今日のあの出来事のことは…」
「もちろん、口外いたしません」
「感謝する」
リリアに向かって頭を下げた騎士団長に、リリアは慌てた。
「頭をお上げください! 友人として、当然のことをするまでです」
リリアに云われ、頭を上げたレーニエ伯爵は、漸く微笑みらしきものを顔に浮かべた。
「娘は良い友人を持ったのだな。有難いことだ」
「そんな…こちらこそ、サーシャにはいつも助けられていますので」
リリアはにっこりと笑い、それにつられてレーニエ伯も目元を緩めた。
…と云う訳で、サーシャの婚約解消劇は、外交省の誰にも知られずに済んだのでしたとさ。




