無償の愛
「今、ご気分はいかがですか? 早速ですが、あなたの名前を教えてください。ここが何処か分かりますか? 私たちは何をする者か分かりますか? 今は何年何月ですか?」
佐伯と名乗る三十代の担当医師と数人の看護師にとり囲まれながら尋問のように次々と質問された。
彩夏は人見知りしつつも一つ一つ質問に答えていく。
「意識レベルは問題ありませんね」
「事故に遭われた時のことを覚えていますか」
医師からの質問に彩夏は記憶を呼び起こす。
「道路に飛び出したところまでは覚えています。その後のことはよく覚えていません」
その後も運動機能の検査を行い医師から異常なしと説明された。
そこへ、両親と祖母が駆け付けた。
祖母は彩夏を見るなり泣き崩れ、父は彩夏を一瞥すると床を見つめていた。
母は、彩夏を見ることなく医師に挨拶すると、家族はどこか別の場所に案内されその場からいなくなった。
彩夏の心の内は複雑だった。家族にどう接していいのか分からなかった。
そこへ突如警察の人がやってきて事情聴取をされた。
トラックの運転手は、彩夏が自殺を図ろうと道路に飛び出したと説明したという。
あの日、なぜ家出をしたのか。なぜトラックの前に飛び出したのか。一緒にいた男子生徒とはどういう関係か。学校、友人、家族、親子関係などでトラブルや悩みを抱えていなかったか等々。警察は、彩夏の気持ちに遠慮なく業務的に質問を投げかけてきた。
彩夏は、自殺を図ったのではないこと。深彗はクラスメイトで、あの晩様子のおかしな自分を心配し迎えに来てくれたこと等を正直に答えていった。
すると「他にも何か話足りないことはありませんか。例えば、親からの暴力とか……」警察からの鋭い質問に、彩夏はビクリと反応する。
「あなたが小学校低学年の頃、虐待の可能性があると通報が入りました。警察があなたを保護するために自宅に押し掛けたことを覚えていますか?」
彩夏は、忘れ去りたい黒歴史が蘇り心臓が張りつめる。今、警察に本当のことを話してしまったら、これまでの暴行虐待の事実が世間にあかるさまとなり両親が逮捕される可能性だってある。彩夏は、どう答えていいか逡巡した。
彩夏が幼いあの時も今回のように酒に溺れた父に暴力を振るわれた。なぜか警察が駆けつけ彩夏の保護を求められたが、母が夫婦喧嘩をご近所さんが勘違いしたのだろうということで揉み消されたことがあった。
「本当のことを話してくれませんか。これはあなたのためでもあるのですよ」
警察は彩夏に詰め寄った。
「……」
夕暮れ時の空のように、心が次第に暗く沈んでいくのを感じた。
「あなたは、幼い頃から両親に虐待されていた……のではないですか?」
「……」
「そういえば、あの日一緒にいた少年も何も答えてはくれませんでしたが」
彩夏はハッとして顔を上げた。
「一緒にいた深彗君は? 怪我は? 無事ですよね!」
「あの少年は、あなたを庇った際一緒にトラックに跳ねあげられました。あれだけの衝撃を受けていながら打撲と擦過傷で済んだんだ。奇跡としか言いようがない。彼は道端の植え込みに着地し無事だった。あの少年がいなかったら……あなたはおそらく死んでいたでしょう」
「そうでしたか……深彗君が無事で……無事で良かった……」
「だた、あなたのご両親は、あなたがあの少年にそそのかされて家を飛び出し事故に遭ったと話されていましたが……それは本当ですか?」
「え⁉ そんなことはありません! 私が勝手に家を飛び出しました! 深彗君は何も悪くありません! 悪いのは私です! 私が彼を巻き込んでしまったのです!」
恐れていた最悪な事態となった。
「そうですか……もしそれが本当だとしたら、その少年は気の毒ですね。そう思いませんか? 彼の無実を晴らすためにも、あの日何があったか話してくれませんか?」
自分を助けてくれた深彗に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「……あの日……」彩夏は真実を語ろうと決心した。
そこへ、説明を聞き終えた両親と祖母が病室へ戻ってきた。
警察と鉢合わせた両親は息を呑む。病室内に言いようのない緊張感が張り詰めた。
「それについては、私が話します」
突如、母が口挟んできた。
「今、娘さんにお話を伺っているところですが……」
母は、また今回のことを揉み消そうと目論んでいるようだった。
「全ては……私が悪いのです……私は長いことこの子を苦しめて参りました……」
母の意外な言葉に、彩夏は驚きを隠せなかった。
「私はダメな母親です。娘は……彩夏は、私の子と思えない程いい子です。ええ、親馬鹿だと思って聞いてください。この子は実直で誰に対しても思いやりがあり、優しくて人を疑うことを知らないほど純粋で、正義感が強く、時に勇敢で我慢強い子です。弱い私は、そんな娘に甘えていたのです。この子は、どんなにきつく当たろうが、冷たくあしらおうが私を嫌うことなく信じてくれていました。完璧な子なのです。そんな我が子と比べ劣等感を抱いた私は、この子に見透かされているようで怖かった。お前はダメな母親だと言われているような気がして……この子はとても繊細な子です。私は傷つくとわかっていながらも、この子を精神的に追い詰めることで自分の心のバランス保ってきました。それがいけない事だとわかっていながらも、やめられなかったのです。私は、酒に酔った夫を利用しこの子を幼き頃から虐待してきました。それなのに、この子はお母さん、お母さんと私を慕い追いかけてくるから……。大きくなってからもそれは変わらず、夫からの暴力に対し、この子は逃げることなくこんな私を庇うのです。そんな娘を見ていると罪悪感に苛まれました。この子への罪悪感は別の形となって大きく膨れ上がり、あの日も私たち夫婦は娘に暴力を振るいました。私は娘から全てを奪いました。この子が大切にしていたものを全て——。心も踏みにじり傷つけました。あの日、耐えきれなくなったのでしょう。娘は家を飛び出したのです。そうです、私があの子を追い詰めました。これが真実です——」
母の衝撃的な告白に、彩夏は言葉を失った。
「彩夏さん、今の証言は本当でしょうか」
――母に愛されたかった私は、結果的に母を追い詰めていたなんて——
「……今後、両親はどうなりますか」
警察は、両親を逮捕するつもりなのだろうか。一度は許せないと憎んだ母。
だが、こんな人でも母親には変わりなかった。母の本音を聞いた今、なんて可哀想な人なのかと、ただそれだけだった。
「もし真実であれば、暴行罪、傷害罪で処罰されるでしょう……」
「……」
それをきいて彩夏は、何も答えることができなかった。
「間違いありません」母は項垂れるように頷き、「罰を受けて罪を償います」涙ながらにそう言った。
両親は、警察の人に促され病室を後にする。病室の入り口で足を止め振り返った母は「今まで苦しめてごめんなさい。こんな私を許さないで……」
これまでの母とは別人のようで、とても小さく見えた。これが本当の母の姿だと、そう思った。これまで辛い思いをした日々は、忘れ去ることは出来ない。だが、母もまた別の苦しみの中にいた。
彩夏は、顔を上げ母を真っすぐに見つめると、「お母さん……」と言って続けた。「あなたは私にとってただ一人のお母さんだから……」
彩夏のその言葉に、母はその場で泣き崩れた。父も泣いているようだった。
彩夏は続けた。「あの日も、これまでも虐待なんてなかった」
「あなたは両親からの報復を恐れているのではありませんか?」
「私は何も恐れてなどいません」
彩夏は、警察にきっぱりと言い放った。警察は、両親を冷ややかな眼差しで睨みつけると「実にいいお子さんだ、さぞかし自慢の娘さんでしょうね」そう言うと病室を後にした。
愛は見返りを求めず与えるもの
見返りを求める愛は奪う愛
与える愛と奪う愛
愛は欲しがるものでも奪うものでもない
欲しがるだけの愛は時として残酷で
奪うだけの愛は心貧しくなるばかり
見返りを求める愛は不満を抱く
ただ相手の幸せだけを願う愛は
見返りを求めることのないその愛は
許し許される中で育むその愛は
見放すことのないその愛は
自己犠牲をもいとわないその愛は
究極の自己実現という名の 無償の愛
無償の愛は
与えられし者に
愚かであったと気づきを与えた




