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秘密②

 こうなるともう、手のつけようもない。

「散々飲んできてまだ飲もうっていうの!」

 母が父に凄い剣幕で口答えする。

 ――ガシャーン!

「!」

 空気を震わすその破壊音に、彩夏はびくりと肩をすくめた。

 始まった。父が母に物を投げつけたのだ。

 いつものことだが一向に慣れない。家の中の空気が一気に凍り付く瞬間だった。

 祖母は黙って父にお酒を出した。それをあきれ顔で見る母。

 父はお酒に酔うと暴言が酷くなる。

「お前は何様だ! 俺は社長だぞ。お前ごときに何が分かる!」

 今日仕事場での出来事に不満があるのか母に当たり散らかす。

「誰がここまで会社を大きくしてきたと思っているの!」

 父は名ばかりの社長で実際会社を牛耳っているのは母だった。

「何だと? もういっぺん言ってみろ!」

 父はお酒に酔えば酔う程人が変わったようになっていく。父と母の相性は最悪だ。火に油を注ぐ母。  

 外面がよく頭が切れ世渡り上手な母に、他の会社の社長や業者の営業マンは皆媚びるのだ。それが気に入らない父。父は言われたことはきちんとこなすのだが、母のように器用な人間ではない。

 父はいつも母に任せきりだった。だから今その結果がつけとなって返ってきたに違いない。母はそんな父をどこか見下しているようにも思えた。

「あなたの力では到底やってこられなかったでしょうね!」

 気の強い母はいつも父に楯突く。そして地雷を踏んだ。

「コノヤロー!」

 父は立ち上がり、拳を降りあげながら母に詰め寄った。その拳は鈍い音をたてて容赦なく母に襲い掛かる。

 彩夏は足がすくんだ。まるでプロレスラーのようながたいの父に力いっぱい殴られるのは、恐怖しかない。

 さすがに祖母も止めるよう声を上げるが父のその手が止まることはなかった。

 一方的に殴られ続ける母。その時「助けて! 彩夏!」と母が彩夏の名前を呼んだ。

 呪縛が発動する瞬間だった。

 正義感が強く困っている人がいるとほっておけない性格の彩夏。

 こんな母でも彩夏を必要としてくれている。母は彩夏に助けを求めているのだ。

 足の震えが止んだ。次の瞬間母を庇うように彩夏は、父の前に立ちはだかった。

「お父さんもう止めて! お母さんが死んじゃう!」

 父の怒りは静まることはなかった。父の怒りの矛先は彩夏へと変わる。

 彩夏は、父の拳で左頬を強打されると床に転倒した。それでも父は止めることなく彩夏を殴り続け、足で蹴り飛ばされた。

「ぐっ……」

 激痛が走る。彩夏は、父からの暴力を手足で防御しうずくまるように耐えることしかできなかった。

 ――死ぬかもしれない……

 死という文字が彩夏の脳裏をよぎった。

 ――いっそのこと、このまま死んでしまった方が楽になれるのかもしれない。自分が死んだって悲しんでくれるような人は誰もいない。私なんか、曇った鏡のように目の前に居たって存在しないようなものだから……終わることのないこの苦しみから楽になりたい……

 彩夏は抵抗するのを止めた。全身の力を抜くと人は人形のように柔らかく面白いくらい飛ばされる。

「やめなさい!健一! 彩夏が死んでしまう! やめてー!」

 祖母が泣きながら止めに入った。

 ――ああ、これで楽になれる……もうすぐ終わる……もうすぐ……

 彩夏は死を覚悟した。突如、父の動きが止まった。父は、我に返り驚きの表情を浮かべると、おぼつかない足取りでリビングから出ていった。

 彩夏は、顔をあげると心配した祖母が駆け寄ってきた。彩夏の肩に添えられた祖母の手は、震えていた。

「彩夏、ごめんね……おばあちゃんが悪いのよ。許して彩夏……」

 辺りを見渡すと、既に母の姿はなかった。祖母曰く、彩夏が殴られている間に車で逃げるように家を出ていったと言っていた。

 ――母から見た私の存在って……何?

 母はいつもそうだ。困った時はいつだって彩夏に助けを求める。

 だが、彩夏が助けを必要としている時、手を差し伸べられたことはこれまで一度もなかった。

 彩夏は、母のいいように利用されていた。彩夏だって馬鹿じゃないからそんなことは百も承知だった。母からいつもぞんざいに扱われる彩夏だったが、いつだって母に従った。

 それは、彩夏が幼い頃から満たされることのない欲求があったからだ。いつか母に認めてもらいたい、愛されたいという強い願望が彩夏をそうさせていた。

 いつしか彩夏は、母に服従し屈辱に耐えればいつか気に留めてもらえる、そう信じていた。

 だが、その願いは毎回母によって意図も簡単に壊された。

 彩夏には、母に抱きしめられた記憶がない。母と手を繋いだ記憶も、お風呂に入ったことも一緒に寝た記憶すらなかった。

 ――馬鹿な私……

 後味悪い虚しさだけ、が澱おりのように心に振り積もっていく。

 無意識の領域で悲鳴を上げ続けてきた彩夏の心は、限界を迎えていることを本人もまだ気づくことはなかった。

「おばあちゃん、ちょっと外の風にあたってくるね」

「あんた……こんな時間に危ないよ……」

「うん、大丈夫……家の周辺にするから……」

「気をつけて……直ぐに帰ってきなさいね……」

 母と違って気にかけてくれる祖母を横目に、彩夏はふらりと家を出た。

 秋の清澄せいちょうな空気が清々しかった。

 見上げると、澄み切った夜空には、まるで宝石を散りばめたような煌めく星空が展開していた。

 その美しい星空をひたすら眺めていると、夜空に吸い込まれ宙に浮いたような感覚に陥った。

 ――おとぎ話の登場人物たちみたいに、きらきら輝く魔法の粉を浴びてこの美しい夜空を飛べたらどんなに気持ちがいいことだろう。そんな奇跡がもし起こったとしても、今の私はその一歩を踏み出して飛ぶ勇気があるだろうか……

 自分の意見を言うことも、行動に移すこともできず、ただ母の言いなりに生きてきた彩夏にはそんな勇気はなかった。

 幼子が夢見るようなことに思いを巡らせてしまう程、美しい夜空だった。

「痛っつ……!」

 突然全身に痛みが走った。これが現実だ。夢も希望も絶たれ失望の毎日を送る彩夏は、ただ流されるように生きていくしかない。

 気づけば銀杏地蔵の傍まで来ていた。

 彩夏は祠の前で手を合わすと、痴漢から助けてもらったお礼を忘れていたことに気づく。

「お地蔵さん、あの時は助けていただきありがとうございました」

 彩夏は手を合わせ深々とお辞儀する。ふと、深彗の屈託ない笑顔が脳裏をよぎった。

「……そう言えば……深彗君と初めて出会ったのもここでした」

 彩夏は、いつしか微笑を浮かべていた。彩夏の仄暗い心の闇に一筋の光明が差し込んだようだった。

 銀杏地蔵を後にした彩夏の瞳は、澄んだ星空のように煌めいていた。




 カーテンの隙間から差し込む朝日は彩夏の瞼の裏に届いた。

「ん……夢……?」

 それは、とても悲しい夢だった。とてつもなく寂しくて、切ない夢だった。

 目覚めると、彩夏の目から涙の滴が溢れ、頬と枕を濡らしていた。

 目覚めても尚、涙は止まらなかった。


 彩夏は朝の支度に悪戦苦闘していた。

「う~ん、これでいいか……」

 もうさすがに家を出なければ遅刻してしまう。

 彩夏は、慌てて台所に向かうと祖母の手作り弁当を受けとった。

「?」

 お弁当箱がいつもより大きい。男前弁当といっても過言ではない。

「おばあちゃん、いつものお弁当箱は?」

 祖母は振り返り、つぶらな瞳で微笑んだ。

「あんたが唐揚げ大好きだから、いつもより多めに入れておいたよ」

 そう言って笑う祖母。

「……そう、ありがとう。でも、こんなに食べられるかな……それじゃあ、行ってきます」

 そう言いながら彩夏は駆け足で登校していった。


 


『深彗君……きゃははは……』

 昨夜の彩夏の寝言は、聞きなれない男の子の名前が上がった。

 それはそれは、楽しそうな夢を見ているようだった。寝言といえども、そのように楽しそうな彩夏を見るのは久しぶりだった。

「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……行っていらっしゃい、彩夏……」

 祖母は、温かな眼差しで彩夏の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

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