僕の知らない君⑥
「彩夏、こんなのどう?」
深彗は、キャッツアイのデザインされたグラフィックTシャツを広げてみせた。
彩夏は、ある方向を見つめたまま立ち尽くしている。
「彩夏?」
深彗は、彩夏の視線の先に目を走らせると、女性と女の子の姿があった。
その二人をじっと見つめている彩夏の耳には、深彗の声は届かないようだ。
「一日目の服はこれ、二日目の服はこれ。靴ずれした時ように、予備の履きなれた靴を持っていくといいね」
そんな親子の会話が聞こえてくる。どうやらその女の子は旅行を控えているらしく、母親と洋服選びをしているようだ。
深彗は、何度声をかけても気づかない彩夏の顔を覗き込むと、彼女はハッと我に返った。
「彩夏、さっきからどうしたの?何回呼んでも全く聞こえていないようだったけど……なんか顔色も悪い気がする。大丈夫?」
深彗は、先程と様子がおかしい彩夏を心配した。
「ううん……大丈夫、ちょっとね……」
彩夏の目に悲しみの色を感じた。
『は?この前買った服があるでしょ。あるものを着ていきなさい』
彩夏は母親に、修学旅行に合わせて新しい服を買って欲しいとお願いしてみたがあっさり断られてしまった。
彩夏の持っていた服は、いつも学校に着て行く普段着に履き古したスニーカーだけ。それも、何着もあるわけではない。
彩夏は、少しでも綺麗に見えるように、スニーカーをゴシゴシと手が痛くなるくらい洗ってみたが、汚れが少しばかり落ちただけで変わり映えしない。
彩夏は、今ある服とスニーカーを見せながらもう一度お願いしてみた。
だが、母親は彩夏を睨むだけで何も答えてくれなかった。
結局、修学旅行にはいつもの普段着に一生懸命洗ったスニーカーを履いて行くしかなかった。
修学旅行当日。女子たちは、この日のために新調した流行りのファッションで現れた。
皆、いつもの何倍もはしゃいでは、あちらこちらで服を見せ合い盛り上がっている。
その日の彩夏は、いつものように皆の輪に入る勇気がなかった。
彩夏を見た者達は、驚きの表情を浮かべ憐憫の眼差しでヒソヒソと話している。
皆の言いたいことはわかっている。だからこそ、心が痛い。できろものならば、その場から逃げ出したかった。
彩夏は、この時から人の視線が気になりはじめ、怖いと思うようになった。
親友たちまでも、目が合うと見てはいけないものを見たかのように皆目を背けた。
これまで、そのような目にあったことのない彩夏は、皆の反応に戸惑い心傷ついた。
きっと皆は、哀れで気の毒な自分にかける言葉が見つからなかったのだろう。
思えば、当時彩夏の衣服のことで誰一人指摘してこなかったのは、皆の優しさだったのかも知れない。
けれど、その頃の自分には皆の気持ちなど理解できなかった。そんな余裕などなかったのだ。
そんな自分にもプライドはあった。ただ哀れだと思われたくなかった。惨めだと認めたくなかった。
そんな彩夏が唯一できることは、空想の中で築きあげた安全な場所に心を逃すことだけだった。
彩夏は思った。それでよかったんだと。注目されるより、遥かにいいと、自分にそう言い聞かせた。
修学旅行中、彩夏は敢えて笑顔を絶やさなかった。
誰にも心の内を悟られないように、これ以上自分が傷つかないように楽しい振りをして、自分も他人も欺いた。
この時から彩夏は、目に見えない防護服を身に纏い、防衛線を張るようになった。
写真には写りたくなかった。同行したカメラマンや友達にカメラを向けられると、さり気なくその場から逃げた。 そこには自分も他人も欺き、楽しい振りをした哀れで惨めで悲しい偽り者がそこにいたから。
宿泊先で着替えたパジャマは、低学年の頃の物で、大きめの袖や裾を折り返し着ていたものだ。今や七分袖、ハーフパンツといった感じに見てとれた。
そういうデザインだといえば、そう見えなくもない。けれど、皆の視線が怖かった。
だから、誰よりも逸早く布団にもぐり込み、掛布団を頭までかぶった。
そうすれば、止めどなく溢れてくる涙を誰にも見られることなく、気づかれることもなかった。
偽り、惨め、哀れ、傷心、羞恥――。この言葉の意味を身をもって知ることとなった。
何より、傷つくことが怖かった。憐れだと思われることが耐えられなかった。だから、自分の心を守る術を身につけるしかなかった。
これが彩夏の黒歴史。修学旅行の苦い思い出――。




